2.


2.



焦りながら、それでも用意を整えたのは山へと潜る時の完全防備。

枝切り用の片刃、それなりに重みがある武具を右腕へ。

左腰の裏には様々なものに利用し、そして手入れを欠かさない小刃を一本。

肩に掛けるように纏うのは、防水対策を施した何処か似付かわしくない重厚な外套。

父と母から受け継いだ、そんな服装を身に付ける。

今まではこれで問題なかったのに、急に不安になるのは俺の気持ちのせいなのか。


「大丈夫?」

「ああ、待たせた」


一応着替えるから、という名目で内と外を一度入れ替え用意を整えた。

其処まで待たせたつもりは無いけれど、聞こえた声から感じたのは怯えにも似た物。


普段の彼女が余り見せることがない、幼い頃のミモザの影。

『普段とは違う』事に触れる時に見せる、彼女の母親から受けた影響で付いた悪い癖。

知り合いとそうじゃない相手をはっきりと分け、見せる顔を大きく変えてしまう癖。

そして、知り合いとした相手へは俺としても酷いと思うくらいには張り付いてしまう、という性格。


だからか、顔を見せて声を聞かせた時。

明らかにホッとした表情を浮かべ、そしてそれを隠せていると思っているのだと気付いた今。

変わらないな、という考えと。

助けてやりたいな、という考えが同時に浮かぶ。


(……今考えることじゃない)


微かに頭を横に振る。

それに対してなんだろう、とでも言いたそうな表情。

互いの何となくの考えくらいは顔色を見れば分かる相手だからこそ、隠せるようなモノはない。

ただ、それでも隠せていると思っているからこそ……なんだろう。


酷く緊張していた身体から、力が抜けたのが分かった。

初めて狩りに連れ出された頃も、確かこんな事があった気がする。


一度手を伸ばし、そしてそれを握り返され。

嘗てとは違う、肌が触れ合うことで互いの緊張を解しながら。


「行こう」

「うん」


何方ともなく言葉を発し、それを受け止め。

一歩先導して、村へと最も近い道へ辿り着く通り道へと足を進めた。


昔は残っていた、村から俺の住まう小屋までの一本道。

流行り病によって頭数を半減以下にされたことで、管理できなくなった道。


その影響は、ほんの二巡り程前。

崖崩れによって道が潰れる、という形で被害を出して。

そして同時に、その影響が殆どなかった、という意味で昔との違いを全員に教え込む事になった。


本来、その道が残っていれば天陽てんようが少し傾く程度で行き来できていた道なのに。

二~三回は往復出来る程度に道程が長くなったのは、今考えると良かったのか悪かったのか。


「ね」

「ん?」


半ば程まで降り切って、そろそろ川が遠い視界に映り始める頃合い。

直ぐ後ろ、殆ど距離を取ろうとしない彼女の声。


「スイくんは、何が起きたと思う?」

「……何が、か」


その内容は俺自身も考えていたこと。

だから、考えを纏めるつもりで言葉にしてしまう。


「さっきミモザが言ってた、誰か……例えば村長が倒れたとかはあんまり考えてない」

「え、なんで…………あ、そっか。 なんて見たこと無い、って話?」


頷いて返事とした。

俺自身も混乱していたから、正しく情報を伝えられていなかった。

そして彼女も、考えが固まっていたから思わず口から出してしまった。


仮に誰かが倒れて、どこかの家の炊事が止まったとして。

その手伝いに駆り出される近くの家も合わせて止まったとして。

全ての家で火を起こさない、なんてことはない。


ついでに言えば昨日は大雨だったのだから、朝方に色々済ませようとするのも当然のこと。

実際、この辺は一度雨が降れば暫くは降ったり止んだりするっていうのは全員知っている。

だからこそ色々と不安だし、疑問しか浮かばないのが今なんだけど……。


「起こせないだけの何かがある、ってことしか分からないのがなぁ」


普段の状態から掛け離れている今が、はっきり言って怖い。


教会のような物を教えてくれる場所さえもない、両親曰く『境界ギリギリの村』。

何でそんな事を知ってるのかとか、色々と気になることはあったけれども。

それに関しては何も教えてくれることもなく、全てを持っていってしまった二人。


後に残された俺達は、それまでに習ったことと自分なりの工夫しか取れる手段もなかった。

だからこそ、出来れば考えるのも嫌なのだけど……。

俺達は二人が二人共、中途半端に色々と教えられた二人でもあった。


「泥棒、とか?」

「こんな何もない場所にか?」


そういう存在がいる、程度にしか知らない何か。

旅人や行商人さえも俺が知る限りで訪れた記憶はなく。

精々、村の代表者が最も近くの村で色々買ってくる程度。

だからこそ、俺が日々の生活で必要とするものは自然で手に入れることが殆ど。

高く付く、という理由だけで鞣した皮なんかを何十枚と持っていかれてしまうので。


「それに、もし人だったらそれなりに騒ぎになるだろ」

「もしかしたら私も家から出して貰えなかったとか有りそう~」


やだなぁ、と。

呟く言葉が僅かに震えている。

考えれば考えるだけ行き詰まる。

それ以上はお互いに聞かず、考えるだけで移動を早めた。


細い小路へと降りて、そのまま小川で水だけを補給。

僅かな小休止の大事さは自然の中に暮らすからこそ理解していて、彼女もそれへは口を出さない。

ただ、露骨な程に急ぎたがっているのは何方も同じ。


「行くか」


普段よりも半分程度の時間で移動を再開しようとし。


「……待って。 スイくん、これ」


向かう道程へ入り込む部分。

長く伸びた雑草が密集した辺りを見ている彼女が手招きするので、そちらに近付いていく。


「どうした?」

「……この足跡、何かおかしい気がする……何でかなぁ?」


肩越しに、上から覗き込むように確認し。

折れ方と踏み固められ方の異常さに、同じように首を捻る。


「え、なんだコレ」

「多分動物……だよね?」


潰された草の広さから考えれば人ではない。

野生の獣、地面に足を付けて移動するような仲間。

それも其処まで大きくもない、多分俺達の半分あるかどうかくらいの重さだと思う。

そんな足跡が一匹分だけ残っている……という時点で何かの違和感があるがまだいい。


一番疑問なのは、足幅程に広がったそんな足跡が五足分あるということ。

四足の獣や六足の獣の二種類ならば知っているし、罠に掛けて取ることも多かったけれど。

なんだか良く分からないけれど、純粋に気持ち悪さを感じてしまう痕跡。


「……四足の獣がこんな歩き方した、とも思えないってところか」

「あ、それだぁ!」


時折途切れつつも、その足跡は確実に村の方へと進んでいる。

陽日が落ちる前にも訪れた場所だし、その時点ではこんなものがなかったのも間違いない。

両手両足、そして中央からやや前のあたりに一つ伸びた足跡。

其処から感じるのは、どうにも背筋に刺さるような違和感。


座り込み、草に付着した泥らしきものに触れる。

ねちゃり、という指に張り付く感触。

乾き切っていない、けれど草に張り付き続けている状態。


大雨がどれくらいまで降り続いていたのかが分からないから、はっきりとは言えないけれど。

雨が止んで、或いは弱まってから付いたものだと判断する。


「急ごう」


先程よりも強めに声にした。

並んで立ち上がりながら、空いた腕を掴んで引っ張るように歩き始める。


……どうしても村の異常と合わせて考えてしまう。

掌に汗が滲み、片刃に巻いた皮が僅かに濡れる。

それは、彼女を掴んだ手にも同じように出てしまっているけれど。

彼女も言葉少なに、そして緊張か恐怖かを滲ませたように握り返される。


言葉の裏側に隠していたのだろう気持ち。

それが行動に出始めているのは、癖が表に出始めている証。

少なくとも。

はっきりと二人きり、と分かる場所でもなければ取らない動き。


口の端から漏れた深い息を自覚しながら。

ぬかるみを避け、草の上を進むようにしながらほんの少し進んだ先。

村の入口がようやく見え始めた頃。


くい、と引かれた手と。

俺の眼が影を捉えたのは、ほぼ同時だった。



◆◆◆



「……狼?」


ミモザの言葉と同じものを浮かべ。

けれど、幾つもの場所で決定的に違う生命体が其処に一体。

黒く見える息のようなモノを吐き出して、此方の存在に気付いているような何か。

それが、その場から動かずに此方へと頭を向けていた。


四つ足、ではなく中程に更に一足黒く染まったような足。

正面から此方を見据える顔、の側面から醜く継ぎ足されたような顔。

見かけたこともなく、純粋に見ているだけで寒気と吐き気を浮かべる身体。

傍目から見るだけで『違う』何かだと分かるのに、どこかその原型を残した存在。


それを何と呼ぶべきなのか、一般的に知り得るものだったとしても。

教会さえも無いこの村で育った俺達には分からない。

何より。


「ッ、ミモザ!」


それ以上考えていることは出来なかった。

小さく一度吠えたような後、器用に五本の足を駆使して此方に駆けてくるナニカ。

咄嗟に後ろへと振り払いつつ、速度が乗る前に此方も一歩踏み出す。


「スイくん!?」


叫び声が聞こえる。

どこか別世界のように感じながら、右手の刃を大きく振り翳して僅かでも行動を阻害する。


四足の獣と相対する時、一番やってはいけないのは真正面で受けること。

鳥のように普通では手が届かない生命体でなく、相手の方が重さを持つ場合。

下手にその重みを受けてしまえば弾き飛ばされ、そのままどうしようもなくなってしまう。


もっとまともな狼と相対した時に実感したことでもあり。

既に記憶の中にしか残らない、父から学んだ技術であり。

五本の足を持つ生物に通じるのかは分からずとも、全く通じないとは思わなかった。


左、右。

真正面からの突撃ではなく、身軽そうな身体を活かすような動き。

普通であれば集団で狩りを行うし、明らかに巨体の相手に挑むのはそれしか出来ない時のみ。

今までの経験から考えればおかしさを強く感じる動作に、疑問も浮かびながら。

ナニカと俺と、お互いに爪と剣が届く範囲に入った。


(……片刃が当たれば幸運!)


山で暮らすモノとして、罠や地形を利用することはそれなりにあった。

けれどその反面、真正面から立ち向かった経験は多分一度か二度。

その何方も怪我を負い、数日は寝込むことになった苦い記憶が張り付いている。


それでも。

継ぎ足された顔が、ミモザを見つめ続けている今。

命を取るか、足止めをするか。

何にしろ、逃げ出すという選択肢は掻き消えていた。


俺から見て左手側を通り過ぎるように交差するつもりの動き。

ただ此方からも近付いたことで速度が乗り切る前に反応が間に合う。

左下方へと斜めに切り下げ、ナニカが足を止めるか飛び跳ねるかを誘導する。

同時に左腰裏の小剣へと手を伸ばし、足だけでも削ごうと動き始めるその寸前。


!」


理由は良く分からない。

けれど、それに従わなければいけない。

身体が先に動き、考えが後から追い付いた。


右手を折り畳むように縮め、身体を回転させるように回避を優先。

当然その分刃先が短くなり、武器で作った安全圏もその分狭くなる。

本来なら届いていただろう胴体との付け根から、足先に引っ掛かる程度までの少しの差。


短く出来たとしても、それくらいの差でしかないのに――――?

疑問が浮かび、けれど次の瞬間に霧散する。


がり、と削るような手応え。

同時に強く手首に走った痛み。

硬木、特定の季節だけ異様な硬さを誇る木々を叩いた時のような反動。

思わず手放しそうになるけれど、意識して握りを掴み直し。


ぶぅん。


刃先の目の前、僅か爪一枚分程度先。

五本目の足が伸び、刃のように鋭さを保ったまま薙ぎ払ったように見えた。


「え?」


無造作に、唯反応して、当然のように。

爪や牙を見せ札にするように、本命を突き刺されそうになったと理解して。

背中に冷や汗が吹き出たのが分かった。


上から下へ。

向こうから此方へ流すような攻撃ではなく。

文字通りに、地面へ突き刺すことも厭わないような一撃。


踏み固められ、大雨でも表面が微かに泥のように変わっただけの道。

振るわれた後は一筋の線を描くように深く沈み込み、その穴へと遅れて泥が流れ込む。

地面毎抉れるのが当然といった具合に振るわれた攻撃が、もし命中していたら。


いや、違う。

もしミモザから声を掛けられなかったら。

無意識に向けていた左腕くらいは、簡単に落としていたのを感じてしまった。


ぐるる。

喉を鳴らすような音を立て。

飛び跳ね、後方へと避けていったナニカは振り返り再び唸り声を上げている。


獲物を逃した、とでも言いたそうな瞳と怒り。

敵ではなく、一方的に狩られるような格差。


俺は唯の邪魔者に過ぎず、あくまで狙われているのはミモザ。

どうでもいい、としか思われていないだろうというのは承知の上で。

荒い息と跳ねるような鼓動を呑み込み、更に一歩踏み出す。


「スイ、くん」


彼女とナニカの間に、常に自分の身体を挟み続ける。

先程と今、一度擦れ違う前と後では感じる恐怖の度合いが違う。

腕も足も、真っ当に動けるとは決して言えないのは間違いない。

口に出してしまえば、その恐怖が伝わってしまうだろうから言葉にも出来ない。


それでも。

何も出来なくても。

目の前のそれから、目を離すことが出来なくても。

泣きそうな顔をしているだろうことは、分かっていたから。


「左手のそれは、絶対、使わないで。 …………駄目だって、分かるの」


何かが見えているのか、感じているのか。

普段なら考える時間でも、その余裕は一呼吸程もない。

微かに首を首肯。

片手で扱う事を前提とする片刃の武具を両手で握るわけにもいかず、後ろに回す。


、と口にしたから。

多分次の手で考えていた、投擲なんかも当然してはいけないことなのだろう。

それに従えば間違いない、と奥底で従うことを良しとする俺がいるのを感じて。

今はただ、理性と直感の二つを同時に柱とする。


一歩、二歩。

互いの行動の初め、頭を抑えようと近付く。


気をつける部分は爪、牙、そして三つ目の刃。

どの程度動くのか、どう対処すれば良いのか。

それさえも考える余裕も元もなく、唯生きる為に刃を向け。


二度目の交差。


「右はダメ!」

(右足、刃、最後に牙での首狙い!)


不思議なことに、としか言えないけれど。

ミモザから掛けられる声は動き始めてから正しい、と理解できるもので。

そしてその選択肢を選ばなかったからこそ、相手の動きが何とか理解できる。


武具と攻撃部位は当てないようにする。

もし欠けでもすれば、その時点で多分俺達は死ぬ。


刃だけは余裕を持って回避する。

二度三度と同じ動きで振るわれるそれは、危険であると同時に動き方も同じ。

敢えてそうしている可能性だけは捨てずに、動きの先から身体を避けて行動する。


呼吸数だけが積み上がり。

疲弊と痛みと、汗と恐怖と。

其れ等を土台として、毛の先から僅かに削っていくような不毛の作業。


どれだけ続くのか。

どれだけ続ければ良いのか。

相手は倒れないのか。


心の奥底に同じように積み重なる願い。

けれど――――そんなモノを踏まえて、同じことを繰り返すのは慣れ切っていた。


動作で作る足元の跡が繰り返され、足跡のように踏み固められる中。

泥の中で動く事に慣れていたのは、きっと幸運だったのだろう。


はぁ、と息を漏らしながら。

何十度目か、右前足に刃の裏側を当て。

同時にその反動を利用して、互いに押し合い後方に移動しようとして。


「今! 左から!」


少女の声と共に。

ナニカが、左足を滑らせたのが視界に映った。


俺より先に失敗した。

成功し続けなければ死んでいた、その先に見えた一筋の光。


半ば後ろに乗せていた体重を再び前足に移動する。

嫌な音がしたような気もするが、そんなものは後で考えれば良い。

右からでなく左から振るうには、片刃の位置が悪かった。

けれど、そんな些細なことは気にもせず。


「……オラァッ!」


無理矢理に動かし、刃を振るう。

ほんの一拍避けるのが遅れた両前足へ。

幾度も刃を叩きつけ、脆くなった木をへし折るように。

父から受け継いだ刃は確かに。

その二つを、上下へと裂いた。


ぴしり、と聞こえる嫌な音。

きゃいん、と怯えるような声が遅れて耳に届く。

地面に落ちる重いものと、軽いものが二つ。

振り回す勢いのまま、転がった地面から何歩か距離を取ってから。

目眩と息切れに苛まれながらも、杖代わりに地面へと立て警戒を続ける。


「スイくん!」


距離を取るように大回りで。

けれど小走り、というには早すぎる程の速度で。

抱き着くように後ろから支えられ、その声が涙ぐんでいるのを改めて感じた。


「……アレは?」

「分がんない……」


生き延びた、という実感。

死んでいただろう、という理解。

何なのか分からない、という不明。

守れた、という確かな感覚。


そんな良く分からない幾つもの感情が俺の内側を漂い。

吐き出す先を見つけられずに戸惑い、身動きが取れない中で。


きゃいん、と。

再びに、小さく嘶き声が響き。

何とか立ち上がろうとしていたナニカが、再びに地面に伏し転がる。


何事だ、と脳裏に疑問を浮かべ。

そして。


「……お前さんたちが、アレを倒したのか?」


ちゃきん、と軽い金属音を立てながら。

背中から、見知らぬ男性の声が聞こえた。

その声色に、確かな敬意と警戒を滲ませながら。

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