第10話 侯爵邸での朝






 朝、リゼルが目覚めると、淡い緑色のカーテンを通して差し込む陽光が部屋をあたたかく照らしていた。

 そのカーテンも、汚れひとつない花模様の壁紙も、ふかふかのベッドも。自分の寝室ではないものばかりで戸惑う。


(ここは……そうだ。アレスの家だったわ……)


 リゼルは窓辺に行き、カーテンを開ける。外には広々とした庭が広がっていた。

 完璧に手入れされた庭では美しい花々が咲き誇り、小鳥たちがさえずっていた。


 リゼルは窓を開け、爽やかな風を感じながら深呼吸をした。

 そうしてようやく少し落ち着く。


 火事で助け出されてから、わけのわからないうちにアレスの家であるヴァルガード侯爵家に保護された。


 そして、あっという間に数日が経った。

 心もようやく落ち着いてきたが、いまだに火事の名残りと環境の変化に戸惑う。


 そのもっともたるものは――


 リゼルが起きたのを察した使用人たちが部屋にやってくる。

 そう、この侯爵家の使用人たちが一番大きな変化だ。


 リゼル付になった女性使用人たちに丁寧に世話をされて身支度が整うと、しっかりと手入れされた髪が柔らかな光を放つ。

 着せられたドレスは柔らかな素材でたくさんのレースや宝石があしらわれている。髪飾りも美しく、いままで身に着けたことのないものばかりだ。


(お姉様たちが身に着けていたものより、輝いている気がする……)


 あまりにも分不相応と思う。


 リゼルは部屋を出て、使用人たちと共に朝食室に入る。

 中ではすでにアレスが待っていた。


 いつものように――いや、いつも以上に明るい笑顔と、傷一つない整った顔で。


「おはようございます、リゼル皇女」

「おはよう……」

「体調はいかがですか?」

「とてもいいわ」

「何か不便なことはありませんか?」

「ないわ。むしろ……」


 日々の生活が快適すぎて、贅沢に慣れていく自分が怖いくらいだった。

 そんなリゼルの不安を感じ取ったように、アレスが頼もしく頷く。


「リゼル皇女、あなたは本来ならこれ以上の優雅な生活を送るべき存在です。いまはこの程度しかできませんが、いずれあなたを世界一幸せな姫君にしてみせます。どうか、俺を頼りにしてください」

「頼りにするも何も――」


 これ以上優雅な生活なんて想像もできないし、いまのリゼルはアレスの庇護がなければ生きることすらできない。


「もう、頼りすぎているくらいよ」

「姫……ああ、姫が俺を頼りにしてくださっている……」


 アレスは感動しているようで、目が潤んでいた。


(騎士というのは、みんなアレスのように忠誠心に厚いのかしら……)


 とはいえ、いつまでもその忠誠心に甘えるわけにはいかない。

 リゼルはアレスの近くに行き、こっそりと囁いた。


「……私のことが迷惑になったらこっそり言ってね」


 表立っては言いにくいだろうから。


 そうなったらリゼルは皇宮に帰るつもりだ。

 皇宮は広い。どこかの片隅でなら生きられるだろう。


 アレスはショックを受けたような表情を浮かべた。瞳が揺れ、唇がかすかに震える。


「……俺はもう絶対にあなたを離したりしません……」

「アレス……?」


 アレスはにっこりと笑いながら、椅子を引いてリゼルが座るのを促す。


「さあ、朝食を食べましょう。今日も俺が腕によりをかけて作りました。お口に合うといいのですが」

「嬉しいわ。アレスの料理は元気が出るから大好きなの」

「ああ……俺の作った料理が姫の血となり肉となり身体の一部となる……これ以上の喜びはありません」


 アレスはとても感動していたが、リゼルは深く考えないようにした。






「今日は庭に出ませんか?」


 朝食の後、アレスに誘われるままに庭に出る。


 庭は隅々まで手入れされていて、花々が咲き誇り、風が心地よく吹いていた。

 離宮の庭とはまったく違う。

 だがいまは、離宮のあの庭がひどく懐かしい。


「ねえ、アレス。火事の理由はわかったのかしら」


 リゼルが尋ねると、アレスは少し考え込んでから答えた。


「いえ。どこかから偶然火が運ばれてしまったのではないかという話です。雷が落ちたか、鳥が火の着いた枝を運んできてしまったか……」


 ――自然の偶然。

 確かに、そうとしか考えられない。


 あの場所に火を放ったところで古びた離宮と役立たず皇女が消えるだけだ。

 離宮は離れた場所にあるため、延焼の危険性も低い。あの夜は乾燥していたわけでもなく、風も強くなかった。


 そして、あのタイミングではアレスも離宮にいなかったから、アレスを狙ったわけでもなさそうだ。


(偶然――……)


 偶然としか考えられない。

 なのに、心に引っかかる。

 時間が経てばこの疑念も消えていくのだろうか。


「あなたが火の中に戻っていったのを感じ取った時は、生きた心地がしなかった」


 隣を歩くアレスがリゼルを見つめていた。

 きっと、使い魔の黒狼の視界を通じてその様子を見ていたのだろう。

 リゼルが炎の中に戻っていく姿を。


「間に合ってよかった……」

「……ごめんなさい……」


 リゼルは謝るしかできない。

 アレスが助けに来てくれなければ、リゼルは間違いなく死んでいた。


「どうして戻ったのか、お聞きしてもよろしいですか?」

「……リュートが……」


 リゼルは目を伏せた。


「あなたのくれたリュートが燃えてしまうかと思って……気づいたら戻っていたの」


 そしてそのリュートは、結局炎の中に消えてしまった。

 自分とキュイを危険に晒しただけで、思い出も何も守れなかった。


 自分は本当に役立たずだと、痛感する。


「いくらでもご用意します」

「アレス――?」

「この世のあらゆるものを、リゼル皇女の前にお持ちします。ですから――」


 真摯な瞳がリゼルをまっすぐに見つめる。


「ですから、ご自分を一番大切にしてください。あなたはこの世で唯一の存在なのですから」


 その言葉に、目許が熱くなった。

 じわりと滲みだした涙を堪え、微笑んで頷いた。


 アレスの優しさが、弱った心に染み渡る。

 まるで甘い毒のように。


「ありがとう……でも、どうして――どうしてそんなに私を大切にしてくれるの?」

「俺はあなたの騎士ですから」

「どうして私の騎士になってくれたの?」


 アレスは少し寂しそうに微笑んだ。

 庭に冷たい風が吹いて髪を揺らし、散った花びらが舞っていく。


「この話は少し長くなりますので、夜でもいいでしょうか。午後からは所用がありまして」

「え、ええ。もちろん」


 嬉しいと同時に、少しだけ怖くなる。本当のことを知るのが。

 だが、いずれ知らなければならないことだ。


「たいした用ではありません。すぐに戻ってきますよ」


 アレスはそう言い、リゼルに優しい笑顔を見せた。



◆◆◆




 午後、アレスが出かけるのを見送ったリゼルは、何をしようかと考えながら玄関ホールの階段を上がっていく。


 そして、アレスが早速用意してくれた新しいリュートの練習しておこうと決める。

 そろそろ彼に聞かせられるくらいにはなってきた。


 今夜、話が終わったら聞いてもらおう。

 どんな反応をするだろう。

 褒めてくれるだろうか、苦笑するだろうか。

 どんな反応でも、きっと嬉しい。


 しばらく部屋でひとりでリュートの練習をしていると、玄関の方がやけに騒がしくなる。

 使用人たちの慌てた声が聞こえ、何事かと部屋を出て、廊下をひっそりと進む。

 玄関ホールに上から覗き、目を見開いた。


 そこにはロザリアと彼女の護衛騎士たちがいた。


 使用人たちはロザリアをとどめようとしていたが、彼女は堂々とホールに入ってくる。


「リゼルはどこ?」


 威圧感に溢れた声に、リゼルは思わず身を竦めた。


(ここで出ていかないと、侯爵家に迷惑がかかるわ……)


 居候の身分で迷惑をかけるわけにはいかない。

 リゼルは決意を固め、階段を下りていく。


「あら。素直に出てきていい子ね――……」


 リゼルの存在に気づいたロザリアが顔を上げ――そして息を呑んで固まった。


「お久しぶりです、第五皇女殿下……」


 リゼルは階段を下り切ると、スカートを持って、横に広げて頭を下げる。恭順の意を示す挨拶だ。


 リゼルの心臓は緊張で高鳴っていた。

 いつもはみすぼらしいと言われるが、今日は皇族に相応しい格好をしているはずだ。

 ドレスも宝石も髪飾りも、侯爵家から借りているものだから。


 だが――ロザリアの顔は引きつり、怒りに満ちた表情をしていた。

 まるで、リゼルに嫉妬しているかのような。


 リゼルはかぶりを振った。ひどい思い上がりだ。ロザリアがリゼルに嫉妬するなどありえない。


「……罪人が、随分と優雅な生活をしているようね」


 ――罪人。

 リゼルは驚きと困惑で言葉を失った。


 立ち尽くすリゼルに、ロザリアが侮蔑の視線を注ぐ。


「まあ、それも今日までのことね。――リゼル、正直に言いなさい。あなたが離宮に火を放ったんでしょう?」







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