第9話 燃え落ちる
散らかった寝室の片づけをしてから昼食を食べ、キュイの様子を見ながら過ごす。
キュイはほとんどをリゼルの影の中で過ごしていた。どうやらその場所が落ち着くらしい。
夕食時も、皇宮から食事が運ばれてくることはなく、アレスと一緒に作った料理を食べる。
「リゼル皇女、今夜からは俺もここで過ごします」
食後のお茶を飲んでいるときにアレスが言う。
リゼルは驚きに目を瞬かせた。
「えっ……帰らなくていいの?」
昨日は帰るように思わず言ってしまったのに、今日はアレスの言葉が嬉しかった。
「ええ。元より家にはほとんど帰っていませんので問題ありません」
「でも……」
「ご安心ください。俺は離宮の外で過ごしますので」
「帰って」
リゼルは強い口調で言う。
アレスは悲しそうな表情をした。
「いえ。姫をおひとりにするわけには」
「いままでずっと大丈夫だったのよ。何もあるわけがないわ。毒を盛られることや一人で放置されることはあっても、命の危機を感じたことはないもの」
「姫……」
アレスはますます悲しそうな顔をする。
リゼルは思わず目を逸らした。
「そもそも、どうしてわざわざ外で寝ようとするの? あなたには立派な家があるし、騎士団の宿舎でもいいはずよ。それに……」
言いかけて、迷う。
しかしリゼルは勇気を出して、言葉を続けた。
「それに、あなたがどうしてもと言うなら、この離宮の中にもあなたが寝る場所ぐらいあるわ」
普段彼が過ごしているだろう寝室にはとても及ばないだろうが、外で眠るよりずっといいだろう。
アレスは困ったように苦笑する。
「いえ、まだ同じ屋根の下で夜を過ごすわけにはいきません」
「まだってどういうこと? 私はアレスを信用しているわ」
「リゼル皇女……お気持ちは大変、嬉しいのですが……ぐっ」
突然、アレスは苦しそうに胸を押さえた。
「アレスっ?!」
「……申し訳ございません。浅ましい俺を理性で成敗したところです」
「どういうこと?」
「あなたを愛しているからこそ、あなたの厚意に甘んじるわけにはいきません」
本当にどういうことかわからないが、アレスの決意は感じ取れた。離宮の中で寝泊まりしてもらうことは無理らしい。
「野営道具は揃っていますのでご心配なく」
「…………」
「姫? いかがなさいましたか?」
子どものように拗ねているなんて、言えるわけがない。
わがままを言っているみたいで、呆れられそうで。
――いや、これはわがままではない。アレスを外で寝させたくなんてない。ここは戦場ではないのだ。
だが、リゼルはどうやってもアレスを説得できそうな気がしない。
どうしてそこまで嫌がるのだろう。
(私と同じ場所で寝るのが嫌なのかしら)
そんな、悪い考えさえよぎってしまう。
もしそうだとしてもアレスを責められない。
「なんでもないわ」
――その時、キツツキが部屋の窓辺にやってくる。
アレスの使い魔だ。アレスはキツツキを手に止まらせると、一瞬険しい顔をした。
「――騎士団長からの呼び出しです。少しだけ失礼します。食器はそのままにしておいてください」
「ええ」
アレスは黒狼の使い魔を影から出すと、離宮から出ていく。リゼルはその背中を静かに見送った後、食器を洗い場に運んで水に浸けた。
しばらくそこで待っていたが、アレスは帰ってこなかった。
リゼルは寝室に戻り、リュートを手に取った。
ベッドに座り、軽くはじく。
窓から入る風が優しくカーテンを揺らし、静けさに包まれている。
しばらく練習した後、リュートを傍らに置き、ベッドにころんと転がった。
月明かりが照らす部屋をぼんやりと見つめる。
――静かだ。
リゼルにとって世界とは静かなものだった。
だが、何故だろう。今夜はいままでよりもずっと静かに感じる。
きっと、楽しさを知ったから。
賑やかさを知ったから。
寂しさも知った。
――ふと、キュイがひょこっと顔を出した。
まるでリゼルの寂しさを感じ取ったかのように。
リゼルは一瞬驚き、そして微笑ましい気持ちになった。
「ありがとう、キュイ」
優しくキュイの頭を撫でると、嬉しそうに目を細める。
リゼルの瞼も次第に重くなり、いつの間にか眠りに落ちた。
――夜が更けた頃、突然、黒狼の激しい鳴き声と異様な臭いでリゼルは目を覚ました。
(火事……?)
部屋は熱気に包まれ、焦げ臭い匂いが鼻を突いた。
リゼルの心は一瞬で恐怖に支配される。
(そんな……どうしてこんな……)
状況が理解できない。
逃げなければと頭では理解しているが、身体が動かない。
こんなことが起こるなんて、夢にも思わなかった。
黒狼がリゼルの裾を引っ張り、外へ連れ出そうとする。
リゼルはその動きに従って、燃える離宮の中を口元を押さえながら進んだ。
廊下は火で明るいが、煙のせいで暗い。
長く住んでいた場所であり、黒狼の誘導もあって、迷うことはなかった。
そしてもうすぐ外に出られるというところで、一つの思いが頭をよぎった。
(リュートが……)
アレスからもらった大切なリュートが、このままでは燃えてしまう。
そう思った瞬間、リゼルは踵を返して寝室に向けて走っていた。
すぐに寝室に戻り、リュートを手に取る。火の手はまだここまできていない。
――だが、火の回りが早い。
急いで部屋を出ようとしたところ、近くで天井が崩れ落ちる音がした。焼かれた石がガラガラと崩れ、退路を断たれる。
その間にも、炎は勢いを増してリゼルに迫ってくる。
――苦しい。
熱気が全身を包み込み、呼吸が浅くなる。
リゼルはふらふらと窓際に行き、窓から顔を出す。
外を見下ろすと、高さに恐怖が襲ってくる。
――どうして引き返してしまったのだろう。
窓辺にしがみつくが、身体から力が抜けていく。意識も朦朧としてきて、リュートを取り落とす。
――そうだ。このリュートを取りに来たのだ。
燃えてしまってもアレスはきっと許してくれただろう。
それでもあの瞬間、なくしたくないと、失いたくないと思ってしまった。
だって、嬉しかったから。
貰った瞬間、触れている間、見つめているだけで。
ずっと幸せだった。
溢れてきた涙は、炎の熱に触れて消えていく。
息が苦しくなってくる。熱が身体を包み込む。
その時、キュイがリゼルの影から飛び出す。
迫ってくる炎の熱を追い返すように、小さな翼を羽ばたかせて風を起こす。
ほんの少しだけ楽になったが、炎の勢いは止まらない。
「キュイ……もういいから、逃げて……」
竜なら窓から逃げられる。
そしてまた新しい主をきっと見つけられる。
そう思うと、ふっと気が楽になった。
意識が遠ざかっていく。
死にたくない。
死にたく、ない。
――でも、もう。
楽になってもいいのかもしれない。
どうして生きていたのか自分でもわからなくなってくる。
最後に素敵な夢を見れただけ。
幸せな人生だったと思う。
何も報いられなかったことだけが心残りだった――……
「リゼル皇女!!」
遠くからアレスの叫び声が聞こえる。
次の瞬間、強い腕がリゼルを抱き上げた。
「大丈夫です、姫。もう安心してください」
アレスの声にリゼルはわずかに意識を取り戻し、彼の胸に顔を埋めた。
彼の力強さが、リゼルの不安を消し去っていく。
そしてアレスはリゼルを抱えたまま、窓から飛び降りた。
熱風にあおられる感覚に、強い衝撃。
だが、覚悟していたよりもずっとそれは優しかった。
強くつぶっていた目を開けると、赤い光の中に浮かぶ金色の髪と、整った顔立ちが見えた。
「――姫、ご無事ですか?」
「…………」
アレスは、額の辺りに火傷を負っていた。
赤く爛れ、血が滲みだしている。
そんな姿で、リゼルを気遣ってくれている。
「アレス、怪我を……」
「未熟でお恥ずかしい。明日には治します」
困ったように苦笑するアレスの顔に、そっと手を伸ばす。
ただ、そうしたかった。
――次の瞬間、リゼルの中から何かが湧き出してくる。
あたたかく、眩しく。
そして切ない気持ちが。
リゼルの手の中から淡い光の粒が生まれる。まるで綿毛のようにふわふわと。
そして、アレスの身体に吸い込まれていく。
「ああ、あなたは、やはり――……」
アレスのどこか悲しげな声が遠くで聞こえる。
リゼルはそのまま意識を失った。
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