第8話 竜の子





 女官長たちが帰った後、リゼルはアレスと共に朝食を作り食べた。

 その後は、寝室でリュートの練習をする。


 窓から入ってくる風は涼しく、リゼルの髪をそっと揺らした。外にはアレスの使い魔である黒狼が静かに丸くなっていた。

 アレスは護衛のためにも離宮の構造を調べたいとのことであちこち動き回っている。


(やっぱりものすごく調子がいいわ)


 自分の体調の変化を実感する。


 ずっと身体が重くて、あちこち痛くて。長時間の考えごとができなくて、集中できないのが普通だと思っていたのに。

 いまは集中してリュートの練習をすることができる。


(やっぱり、アレスの料理のおかげかしら?)


 毒を摂取していない――ということもあるかもしれないが。

 それもまたアレスのおかげだ。

 リゼルはアレスにたくさんのものを与えてもらっている。


(私、アレスにどうやって報いればいいのかしら)


 貰ってばかりだなんて申し訳ない。

 何か与えるにしても、リゼルには本当に何もない。

 あるのはこの痩せぎすのみすぼらしい身体だけ。それだって、リゼルのものではない。皇帝の道具だ。


(結婚……とか? また求婚されたら受ける……? まさか。そんなことあるわけないわ。断ってしまったのに、二度も求婚なんて……それに、アレスだってあれは本気ではなかったはずよ)


 むしろ、断られるのがわかっていたように思える。

 ――一瞬だけ、哀しそうな眼をしていたけれど。


 本命はリゼルの専属騎士になることだったのではないだろうか?


(私に利用価値があるなんて思えないけれど……)


 もしアレスが何かを計画しているのなら。

 それが皇国にとって害のないことなら。


 好きなだけ利用してくれればいいと思う。


 ――その時、窓の外から不思議な気配を感じた。

 顔を上げると、遠くの空に小さな影が見える。


「鳥かしら?」


 小さな影は空を切り裂いてまっすぐにリゼルの方へ近づいてくる。

 物凄い勢いで。


 その時、突然部屋の外からアレスの声が響いた。


「リゼル皇女!」


 勢いよく扉を開けて部屋に飛び込んできたアレスは、窓の外に向けて剣を構える。


「えっ? えっ?」


 リゼルは驚きのあまり、リュートを抱えたまま動けなくなってしまった。

 何が何やらわからず戸惑うリゼルの前に、アレスが庇うように立ち――


 そして、一瞬息を呑んで、剣を捨てた。


 その刹那、窓の外から影が飛び込んでくる。風が部屋の中に吹き込み、カーテンが激しく揺れる。

 アレスはリゼルを守るように、身を挺して影を受け止めた。


 激しい衝撃音と風が巻き起こる。

 嵐が起きて、部屋の中は一瞬で滅茶苦茶になる。アレスからもらった呼び鈴が床に落ちた。

 アレスはそのまま吹き飛ばされるように、リゼルのベッドの上に倒れた。


「アレス!」


 リゼルは叫びながらベッドに駆け寄る。アレスは苦しそうに息を整えながらも、リゼルに向けて微笑んだ。


「……だ、大丈夫です、姫」


 ベッドに仰向けで倒れ込んでいるアレスの腕の中には、小さな竜が抱かれていた。


「竜……?」


 その小さな竜は傷だらけで、血が滲んでいる。ひどく怯えているように身体を震わせていた。

 アレスの腕の中からよろよろと抜け出して、リゼルのところにやってくる。


「まあ……」


 ぼろぼろの竜を見ていると、不思議な感情が湧いてくる。

 リゼルはリュートを置いて、その小さな頭を優しく撫でた。


「どこかから逃げてきたのかしら……? もう大丈夫よ」


 リゼルは竜の子をそっと抱き締める。

 すると、不思議なことに竜の子の傷がみるみる癒えていった。


「まあ……竜って治りが早いのね」


 リゼルは驚きながらも、その様子を見守った。

 苦しそうだった表情も安心感に満ちている。


 そしてその様子を、アレスが信じられないものを見るような目で見ていた。


「アレスは大丈夫?」

「え、ええ。少し休めば。みっともないところをお見せしました」


 アレスはゆっくりと立ち上がり、剣を拾い上げ、それを鞘に納めた。

 その動きはわずかに引きつって見える。きっとどこかを痛めているのだろう。だがそれを表情には出さない。


「みっともなくなんてないわ。私を守ってくれたし、この子だって受け止めてくれた。アレスは立派な騎士よ。……って、今更ね。こんなこと」

「姫……」


 アレスはリゼルを見つめ、そして不思議そうな顔をして胸元を押さえた。

 そしてまた、リゼルを見る。


「――もしや、姫は……」

「どうしたの?」

「いえ……俺の考えすぎでしょう」


 かぶりを振る。金髪がふわっと揺れた。

 次に顔を上げたときには、いつもの頼れる騎士の表情をしていた。


「姫にそう言っていただけると、騎士冥利に尽きます」


 アレスは言いながら、リゼルの元にいる竜を見つめる。


「その竜は、城で保護している幼竜です。斬る前に気づいてよかった。下手をすれば竜族との戦になっていたかもしれません」


 ――竜族。

 皇国と竜族は古い同盟関係で、互いに不可侵を保っている。そして、互いに傷つけないという盟約と、庇護が必要な相手は助け合うという盟約がある。


 その盟約が破られれば報復は想像に難くない。

 大きな戦争になるかもしれない。


 あまりに恐ろしい想像に、リゼルの身体が震えた。

 咄嗟の判断で剣を手放し、竜を受け止めたアレスの機転に感激した。


「もし戦となれば、長くあなたのお傍を離れることになってしまいますからね……」

「もっと大変なことがたくさんあるんじゃないかしら?!」


 ――リゼルはできることなら誰にも傷ついてほしくない。戦なんて避けられるなら避けたい。


「俺にとっては最も重要なことなのです」


 アレスは真剣な眼差し言う。


 ――これは、英雄である黒騎士と、戦に出ることのない役立たず皇女の、戦に対する認識の差だろう。


「最悪の事態は回避できたとして――リゼル皇女。どうやらこの竜はあなたとの使い魔契約を望んでいるようです」

「私の使い魔に?」


 リゼルは驚きの声を上げ、竜の子を見つめた。

 竜の子は宝石のような瞳でリゼルをじっと見上げ、何かを訴えているようだった。


「本当にいいの?」


 問いかけると、竜の子は「キュイ」と短く鳴いて頷く。

 ――意思の疎通ができている。

 リゼルは深い感動を覚えた。

 まさか、竜と心を通わせることができるなんて。


「……私が契約すれば、この子は安心して過ごせるの?」

「はい」


 この竜がそれを望むのなら、やぶさかではない。だが。


「本当に私でいいのかしら。皇宮で保護されている竜なのでしょう?」

「問題があるわけがありません。この竜は本当に幸運です。俺もできることならリゼル皇女の使い魔となり、影となって常にお傍にいたいぐらいです」


 とても切実な表情と声で言う。


「そ、そう……」

「……本当は俺だけがあなたの騎士でいたいのですが……あなたを守る力が増えるのは喜ばしいことです。俺がずっとお傍にいられればいいのですが、それができないこともありますからね……」


 ひどく辛そうな顔をしている。


「……使い魔契約はお互いの同意さえあれば成り立ちます。リゼル皇女と竜がそうしたいと思っているのですから、何の問題もありませんよ」

「でも私、使い魔のことをほとんど知らないわ。いい主になれるかしら」

「主は使い魔に魔力と居場所を与え、使い魔は主を守り、命令に従います。ただ、使い魔の道理に合わない命令は聞きません。頼みごとをしやすい友人と思って接すれば大丈夫ですよ」


 アレスの説明は優しくて、リゼルにも受け入れやすいものだった。

 だが、まだ不安がある。


「契約を解消するときはどうするの?」

「片方が死ねば、自然と解消されます」


 ずっと契約に縛られることはないとわかり、ほっとする。


「――ですから、無理やり使い魔契約をさせられた相手の中には、主を殺すものもいます」


 ぞっとする。


「身の丈に合わない相手と契約は危険ということよね……?」

「そうですね。ですが、リゼル皇女は絶対に大丈夫です。俺が保障します」


 アレスがそう言ってくれる根拠はわからない。

 だが、彼がそう信じてくれている。

 それだけで勇気が湧いてくる。


 ――そして、竜が望んでくれるなら。

 リゼルは幼竜の手を取った。


「これからよろしくね。私はリゼル。リゼル・アーカーシャよ。あなたのお名前は?」

「キュイ!」


 竜が嬉しそうに鳴いた刹那、額にあたたかい熱を感じる。竜とリゼルの魂が結びつくような――そんな感覚がした。


「――これで、この竜はあなたの使い魔です。ああ、本当に羨ましい」

「キュイィ~」

「ふふ、よろしくね。キュイ」


 ――キュイ、という名前の竜は、楽しそうにリゼルの影の中に入っていった。

 安心できる居場所を与えられたようだ。

 そしてリゼルも、自分を必要としてくれる存在と出会えたことが嬉しかった。


「それが名前だったのか……」


 アレスが何やら考え込むように呟いていた。






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