第6話 運ばれてくる朝食
自分から挨拶をすることができる相手がいる。
それだけでリゼルは嬉しかった。アレスは驚いたような表情を一瞬見せたが、すぐに笑顔になった。
「リゼル皇女、おはようございます。昨日も美しく愛らしかったというのに、今日はまた一段とお美しい」
「お世辞の勢いがすごい」
「世辞などではありませんよ。本心です」
アレスはにこやかに言う。
リゼルはその視線に少し戸惑いながらも、心が温かくなるのを感じた。
「……リゼル皇女、体調はいかがですか?」
「とてもいいわ」
「そうですか。なら良いのですが、顔が少し赤いように見受けられまして」
「き、気のせいだと思うわ。私、すごく元気よ」
顔が赤いのはきっと、アレスに会えて嬉しいからだろう。
だがそれを言葉にするのは恥ずかしい。
「それよりも、その大荷物はどういうこと?」
「必要なものをお持ちしただけですよ」
あっさりと言うが、背負っている量が物凄かった。まるで部屋の家具を全部持ち込んできたかのような迫力だった。
そして手には布で包まれた包みを大切そうに抱えている。
「まず、こちらをどうぞ。リゼル皇女」
包みを渡され、リゼルはおずおずとそれを受け取った。思ったよりも軽い。
そして布をほどいていくと、中から美しいリュートが現れた。木の表面は滑らかで、細かい装飾が施されている。まだほとんど使われていないものだ。
「家にあったものを持ってきました。リゼル皇女に使っていただけると光栄です」
「あ、ありがとう……」
昨日リゼルが言ったことを覚えてくれていた。
そのことが、飛び上がりたくなるほど嬉しい。
リゼルはリュートを抱えてみる。しっくりと寄り添うような大きさと形。懐かしい感触だった。
軽く弦をはじいてみると、心地よい振動が指先から伝わってきた。
「素晴らしい……まるで天上の音楽です」
「まだはじいただけよ?!」
「ではどうぞ弾いてみてください」
「む、無理よ。久しぶりだから練習しないと」
リゼルはリュートを見つめる。
早く、うまく弾けるようになりたい。
「姫のリュートの練習も聴かせてください」
「練習を聞こうとしないで……」
「何故?」
「だって……恥ずかしいもの」
未熟なところを見られるのは恥ずかしい。
「恥ずかしがられることなどありません。姫の指から奏でられる音も、姫のお声も、至福の旋律です」
アレスは照れる様子もなく言う。
リゼルは、恥ずかしさで身体がむずむずしてきた。
「――れ、練習は人に聞かせるものではないわ」
「俺のことは空気とでも思ってください」
「こんな存在感のある空気はいないわよ」
リゼルはくすくすと笑った。自分が自然に笑っていることに気づき、少し驚いた。
そして、その感覚は心地よかった。
リゼルにとって生きることは息苦しいことだった。
毒のせいだけではない。
必要とされていないことを思い知るたび、心が苦しく、息がうまくできなくなっていた。
それなのにいまは自然に呼吸ができて、自然に笑えている。
アレスがいてくれるから。
「それでは、すぐに朝食を作りますので少々お待ちください」
アレスは大量の荷物を抱えたまま離宮の中に入ろうとする。
ぶつかるかと思ったが、うまく高さを調整してするりと中に入り、荷物を下ろした。
「ねえ、アレス。傍で見ていてもいい?」
「もちろん構いませんよ」
料理の準備を始めたその時、外から誰かが入ってきた気配がした。
振り返ると、女官長と女官の一人がリゼル用の朝食を運んできていた。
恰幅が良く迫力のある女官長は、とても険しい顔でリゼルを見据える。
「第十三皇女、朝の食事をお持ちしました」
普段は女官が一人で食事を運んでくる。
女官長が同伴しているのは珍しい。
その理由が、リゼルは匂いでわかった。
(この匂い、初めての毒だわ)
長年毒を食べてきた経験で、どんなに料理の匂いや腐敗臭で紛れていても、盛られた毒の種類を感じることができる。
新しい毒をちゃんと食べるかを見に来たのだろう。
「――リゼル皇女の食事は私が用意する。それは下げて結構」
アレスがはっきりと言う。
女官長の表情はさらに険しくなり、若い女官は怯えたように身を縮めていた。毒が怖いのか、女官長が怖いのか、それともアレスが怖いのか。
「黒騎士といえど、勝手なことをしていただかれると困ります。皇族の方々には、宮中で特別な手順でつくられた料理を召し上がっていただくのが習わしです」
毅然とした態度の女官長に、アレスは冷静に答えた。
「では、女官長。いまここであなたに毒見をしてもらおうか」
女官長は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに冷たい声で言った。
「皇族の方々と同じものを口にするわけにはいきません」
「自分で毒見もできないものを皇女に食べさせるつもりか?」
「どうしてもとおっしゃるなら、この者に毒見をさせます」
若い女官がびくりと震える。
彼女も食事に毒が混入していることは勘づいているのだろう。毎日のように毒が盛られているのだから、公然の秘密のようなものだ。
震えている若い女官を見て、アレスはさらに強い口調で命じた。
「いいや、女官長。あなたが食べるんだ」
「……は……?」
アレスの言葉に、女官長は言葉を失った。
顔を引きつらせ、青ざめさせる。身体の前で握られている手が震えていた。
「リゼル皇女、構いませんね?」
アレスに問われ、リゼルは静かに頷いた。
女官長は一瞬料理を見つめ、すぐに目を逸らす。
「どうした。皇族の方々と同じものを食べられる栄誉を、恐れ多くも皇女殿下が授けてくださったのだぞ?」
「…………」
緊張感のある沈黙が続く。
女官長は表情は変わらないものの、強張った口元と忙しない瞬きから、彼女の焦りが伝わってくる。
皇宮の女官たちを束ねる女官長にも仕える主がいて、その命令で動いている。
ここで引き下がれば、その誰かの叱責が待っている。
いままでのリゼルなら、その食事を食べただろう。
毒が入っているとわかっていても。誰かが辛い思いをするぐらいなら自分が我慢する方が楽だから。
だが、いまのリゼルはアレスに守られている。
彼の、リゼルを守ろうとする気持ちを蔑ろにしてはいけない。
「どうしても食べられないというのなら、それを持っていますぐ下がれ」
「…………」
「二度はない。よく心得ておくことだ」
アレスの言葉には痛烈な皮肉が込められていた。
女官長は不快そうな表情を浮かべるものの、何も言わずに女官と共に帰っていった。
リゼルは安堵の息をつき、アレスの存在に感謝する。
「――さあ、姫。朝食を作りましょう。手伝っていただけますか?」
「ええ」
アレスはにこやかに微笑み、リゼルに手伝いを求めた。その笑顔に、リゼルは胸が温かくなるのを感じた。
(不思議。今日は、世界が眩しく感じるわ……)
その中で、アレスが一番眩しく感じた。
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