第5話 慣れない挨拶






 食事の後片付けをしているうちに、夜が訪れる。

 そろそろアレスも離宮を後にするだろうと思うと、不意に寂しさが込み上げてくる。


「それでは――」

「…………」


 アレスは小さな呼び鈴を取り出すと、リゼルに差し出した。


「それでは俺は外で眠りますので、何かありましたら鳴らしてください」

「帰って?!」

「いいえ。姫と一時でも離れるなんて耐えられません。ご安心ください。緊急時以外は部屋には一歩も入りませんので」

「私の心配より、自分の心配をして。外で眠るなんて風邪を引いてしまうわ」

「大丈夫です。俺は頑丈ですし、野営には慣れていますから」

「家に帰ってゆっくりと休んで?!」


 リゼルは悲鳴じみた訴えをしたが、アレスは毅然とした態度を崩さなかった。


「……家族の人たちがあなたの帰りを待っているのでしょう?」


 リゼルはよく知らないが、普通の家族とはそういうものだろう。

 戦勝祝賀会に出てそのまま家に帰らないなんて、きっと心配している。戦の勝利を共に祝い、アレスの無事に安堵したいだろうに。


「では、ご命令ください」

「えっ?」


 アレスは真剣な眼差しでリゼルを見つめた。


「俺はあなたの専属騎士ですから、どんなご命令も聞きますよ」

「…………」


 命令なんてできるはずがない。

 硬直してしまったリゼルを、アレスは静かに見つめる。


「あなたは皇女なのです。下々のものに命令を出せる立場なのですよ」


 ――できない。

 できるはずがない。


 自分たちは主従関係だが、自分を守ろうとしてくれている特別な存在に命令なんてできるはずがない。

 そもそも、リゼルは誰かに命令したことがない。


 皇女という身分であれども、リゼルが命令をするなんて機会はなかった。

 命令という形で相手の意思を無視して、どう思われるのかが怖い。


「お願い……」


 声を振り絞る。リゼルにできるのは懇願することだけだった。


「姫のお願いなら仕方ありませんね」


 アレスはあっさりと言う。


 そうして短い呪文を唱えると、魔力が黒い風になって離宮の中に吹く。

 次の瞬間、次の瞬間、大きな黒狼がアレスの前に現れていた。


「オオカミ……?」


 大きな身体に分厚い毛皮。立派な体躯に太い尻尾。

 危険な動物のはずなのに、何故か怖さを感じない。


「この黒狼も我が使い魔です。俺の代わりにリゼル皇女をお守りいたします」


 黒狼がくるりと振り返る。こちらを見つめる灰色の目は落ち着いていて、雰囲気も優しい。


(アレスは、使い魔が何種類もいるのね……)


 使い魔を持つ人間自体がめずらしいのに、それが二体もいるなんて。

 黒騎士は、リゼルが思っているよりずっとずっとすごい存在だった。

 アレスは優雅な笑みを浮かべたまま、一礼する。


「おやすみなさい、リゼル皇女。よい夜を」

「…………」





 ――寝室に移動したリゼルは、いつものように一人で眠る準備をする。

 石造りの簡素な部屋。寝るためだけの部屋。冬は隙間風と冷えで凍え死にしそうになるが、いまの季節は随分と過ごしやすい。


(今日はいろんなことがあったわね……)


 今日のことを思い出しながら、ころりとベッドに転がる。リネンのシーツのざらついた感覚に、安堵を覚えた。


「…………」


 昨日までと同じ夜のはずなのに、今日は何かが違う。

 天井の様子も、世界の輪郭も、外から聞こえてくる鳥や虫の声も、何故か新鮮に感じる。


 そして昨日まではまったく寂しくなんてなかったのに、今日は心にぽっかりと穴が開いたような寂しさが胸を締めつけていた。


(静かだわ……)


 何故か泣きたくなっていると、扉の外に気配を感じた。

 そっと開けてみると、黒狼が扉を守るように蹲っているのが隙間から見えた。


(まるでアレスがそこにいるみたい)


 リゼルはほっとしながらベッドに戻り、再び寝転ぶ。

 そしてベッド横の机に置いてある呼び鈴を見つめる。


 月明かりに照らされて銀に輝く鈴――鳴らしても誰も来ないだろうが、何故かあるだけで安心した。

 リゼルは静かに目を閉じる。


(明日はちゃんと、おやすみなさいと言おう……)


 先ほどは、うまく挨拶を返すことができなかった。

 長く忘れていた言葉を、アレスは思い出させてくれた。


 それだけではない。

 今日だけでたくさんのことがあった。


 初めて求婚された。初めての専属騎士を持った。

 たくさん、たくさん、会話ができた。使い魔を間近で見ることができた。

 料理を作っているところを見れた。一緒に食事ができた。

 おやすみなさい、と言ってもらえた。


 たった半日で、いままで生きてきた分以上の刺激を受けた気がする。


(どうしてアレスはここまで尽くしてくれるのかしら)


 どれだけ考えてもわからない。


 自分に利用価値があるとも思えない。誰かと何らかの契約でもしているのだろうか。――そんなわけがない。リゼルには何もないのだから。


 だから怖い。


 利用価値があるのならいい。

 アレスに見返りを与えられているのならいい。


 もし、見返りもなしにこんなにたくさん与えられてしまっているのだとしたら。

 申し訳ないどころではない。


 でも、もう少しだけ。

 もう少しの間だけ、この幸せに浸っていたいと思ってしまった。




◆◆◆




 ――翌朝。


(なんだかすごく身体の調子がいいわ……)


 リゼルは不思議な感覚で目を覚ました。


 身体が羽のように軽く、思考が、そして視界がやけに透き通っている。

 あまりにも世界が眩しくて、そして愛しく感じる。

 しばらくその感覚に驚いていたが、すぐに理由に思い当たる。


(アレスの料理のおかげかしら)


 それしか考えられない。

 毒の入っていない新鮮な料理がこんなに身体にいいものだったなんて。


(愛情……ってアレスは言っていたけれど)


 リゼルは自分の身体をぎゅっと抱きしめる。

 アレスの愛情に内側からも包まれているような錯覚をしてしまう。


 なんだか顔まで赤くなっている気がして、リゼルは自分の頬をパチンと叩いた。


(勘違いしてはダメよ、リゼル)


 アレスは騎士として自分に仕えてくれている。その忠義を勘違いしてはいけない。

 しっかりと身の程を弁えなければ。


 リゼルは気を取り直し、軽く身支度をする。いつもより少しだけ入念に髪を整える。


(今日もアレスは来てくれるのかしら)


 きっと来てくれる。

 けれども、来ないかもしれない。

 二度とここを訪れなかったとしても、リゼルはアレスを責めるつもりはない。


(むしろ、何もかも夢だったのではないかしら)


 あの求婚も忠誠も。

 昨日の、夢のような時間も。



 扉を開けると、その前にいた黒狼がのそっと起き上がって道を開けてくれた。

 その姿を見て、昨日のことが夢ではなかったと確認する。


「ご苦労様」


 リゼルは離宮の外に出る。

 朝の澄んだ空気の中に、黒い服を着た金髪の貴公子がこちらに向かってくるのが見えた。

 その背と両手にたくさんの荷物を抱えて。


 リゼルは思わず駆け寄りたくなったが、ぐっと我慢する。

 そうして、アレスと目が合う距離にきて。


「おはよう、アレス」


 リゼルは自分から挨拶をした。





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