第3話 毒と離宮
リゼルが暮らす場所は、王宮から少し離れた場所にある離宮だった。離宮と言っても名前だけで、小さな家に近い。他の華やかな宮殿とは対照的に、簡素で質素な造りだった。
庭師もいないため庭の手入れも行き届いていない。風に揺れる花はどこかから飛んできた雑草の花ばかりで、バラの一株もここにはない。
偶然ここに迷い込んできたものは、まさかここが王宮の一部であるとは気づかないだろう。
アレスはそこへリゼルを迷わず連れていった。
リゼルはアレスに抱えられたまま、とても居たたまれない気持ちになった。
こんな立派な騎士が仕える主の離宮がこの質素さだなんて、彼も思っていなかっただろう。
既に言葉を失っているのではないだろうかと、リゼルは不安に感じた。
「ごめんなさい……」
「何がでしょうか。あなたが俺に謝ることなどただのひとつもありませんよ」
アレスは微笑んで答える。
リゼルはますます居たたまれない気持ちになった。
離宮の中に入ると、じっとりとした空気が漂っていた。光がほとんど差さないため暗くて淀んでいる。家具は質素で、どこからともなく湿った木の匂いがした。
「……侍女はどちらに?」
「いないわ。ここに住んでいるのは私だけよ」
リゼルの言葉に、アレスの眉が一瞬だけ寄せられた。
「言葉通り、見えているままの意味よ。私には侍女はいないし、ここに住む使用人はいないの。護衛もいないわ。でも、王宮のメイドが食事を運んできてくれたりするから大丈夫よ」
「……姫。ご無礼を承知で言いますが、これは決して看過できない状況です。姫の御身を世話をする者がいないなど、あってはならないことです。すぐに手配いたします」
アレスは毅然とした態度で、リゼルの瞳をまっすぐに見つめながら言った。その声には強い決意と誠実さが込められていた。
とても、騎士らしい姿だった。
「いいのよ。本当にいいの」
「ですが――」
アレスは食い下がるようにもう一度言葉を発する。
リゼルは静かに息を吸い込み。
「本当に、いいの」
言葉を重ねた。
「……ご命令とあらば」
アレスは少しの間リゼルを見つめた後、しぶしぶと納得するように頷いた。その声には不本意さが滲んでいたが、リゼルの意志を尊重することにしてくれたようだった。
そのことに安堵する。
「アレス、大切なことを言っておかなければならないわ。この離宮では何も口にしないで。食べ物も、水も」
アレスの表情が一瞬で険しくなる。その瞳には疑念と警戒が浮かんだ。
「おそれながら、どういった理由ででしょうか」
「頻繁に毒が盛られているの。あなたが狙われることはないと思うけれど、何かの間違いで口にしてしまったら大変だから」
アレスは深く息を吸い込み、驚きと憤りの表情を浮かべる。
「……他に人がいない理由もそれよ。皆、毒で死ぬのは怖いもの。ときどきそれでも私の世話をするための人が寄越されるけれど、私が断っているの」
「ですが、それでは、姫は――」
「私は毒に耐性があるから、どれだけ毒を盛られても死なないわ。きっと昔からずっと毒を取り込んでいたからでしょうね」
幼いころは何度も死にかけたが、生き延びてきた。
最近では身体の調子は悪くなるが、死を覚悟するようなことはなくなった。
「でも、あなたはそうはいかないでしょう?」
リゼルは真剣な眼差しでアレスを見つめた。
たとえ黒騎士でも、魔物相手なら無敵でも毒には負けてしまうかもしれない。
最強の黒騎士が敗北するところなんて見たくない、とリゼルは強く思った。
「……いったい、誰が……誰が私の姫に……」
アレスは衝撃を受けたように立ち尽くしていた。その瞳には強い怒りが燃えていた。
その様子にリゼルは心が震えるような衝撃を受けた。
アレスの怒りは本物だ。身体中から黒い炎が燃え上がっているような強い怒り。
(私のためにこんなに怒ってくれる……何の価値もない私のために)
なんて高潔な騎士なのだろう。
なんて正義感の溢れる騎士なのだろう。
彼こそが、騎士の中の騎士なのだろう。勇敢で、名誉を重んじ、主君を、姫を守る。
その庇護の盾が自分を守ろうとしてくれていることに、リゼルは不思議な気持ちになった。
「毒を混入させているものに心当たりはありますか?」
「誰が犯人かはわかりません。それに、毒を混入させたのが誰かはわかるとしても、下手人だけ捕まえても仕方のないことでしょう?」
リゼルも末席とはいえ皇族だ。
強い権力のあるものでなければ、リゼルに毒を飲まそうとすることは不可能だろう。
だから、相手はきっと高貴な身分だ。
(それにきっと、毒を盛ってきているのはひとりではないもの)
昔からいくら毒を盛っても死なないから、いっそ遊びにでもしているのかもしれない。どの毒で死ぬか観察しているのかもしれない。実験動物を眺めるように。
「許せない……」
アレスは深く息を吐く。
「ここまでの仕打ちをされていたなんて。何も知らなかった己の愚かさに腹が立つ……いますぐ腹を裂いて詫びたいぐらいだ……」
「やめて?!」
どうしていきなりそんな物騒な話になるのか。
「失礼しました。あなたを害する者の首を並べるのが先でした。少々お待ちください」
「だからやめて?!」
リゼルは重ねて叫んだ。
本当にやりそうで怖い。
リゼルの叫びに、アレスは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「自分を害する者にも慈悲を与えるとは……なんとお優しいことでしょうか――姫の御心はよくわかりました」
わかってくれたことにほっとする。
「手始めに、俺が毒耐性を付けてきますので数日お待ちください」
アレスは冗談めかしたように言うが、その目には決して冗談ではない決意が光っていた。
「そんなにすぐにつくものではないでしょう……」
「努力すれば、たいていのことは乗り越えられるものです」
アレスの笑顔はまるで太陽の光のように眩しくてあたたかい。
「冗談でもやめて。あなたが毒に侵されてしまったら、私、どうしたらいいかわからないわ」
「姫にそこまで心配していただけるなんて、騎士冥利に尽きますね」
柔らかい笑顔で言われて、リゼルは困惑した。
どうしてそんな笑顔を向けてくれるのか。
青い瞳でまっすぐにリゼルを見つめてくれるのか、わからない。
「――どうして……いえ、アレス……どうしてあなたは私を妻にと望んでくれたの?」
「姫、それは――……」
「いいえ、ちゃんとわかっているわ。お父様に忠誠を誓うために――角を立てないために一番価値のなく、生家もすでにない私を姻戚関係を結ぶ相手に選んだのでしょう?」
それ以外の理由が思いつかない。
アレスの武力は驚異的で、騎士たちの支持も、国民からの人気も絶大だ。
そして侯爵家という身分。
その気になれば、きっと謀反だって起こせる。
そうしてきっと、高い確率で成功する。
皇帝に従属を示すためだとしても、こんな役立たずの皇女を選ばなくてもいいはずだ。
「あなたならロザリアお姉様を選んでも、皆納得するはずよ。お兄様たちの近衛騎士にだってなれるはず。誰にだって歓迎されるはずよ」
――特にロザリアは、自分が選ばれるものだと疑ってもいなかった。
いまごろ恥をかかされたと怒っていてもおかしくない。
「……あなたは私となんて関わるべきではないわ。あなたの未来に傷がつくだけ」
「皇女……」
リゼルは視線を下に落とし、静かに続けた。
「少し落ち着いたら、あなたを解放します。私のわがままということにするから安心して。あなたには決して非がないようにするから」
うつむいたまま言葉を続ける。
自分で言っておきながら胸が苦しくて、アレスの顔が見れない。
「あなたは、この国に必要なひとよ。私の専属騎士になんてなっていてはいけないわ」
「…………」
「……でも、これだけは言わせて。ありがとう。あなたが私を選んでくれたこと、演技だとわかっていても嬉しかったわ。少しだけでも夢を見れたもの」
自分が誰かに選ばれる幸せな夢。
だが、夢は夢だ。
夢に浸ってはいられない。
「――リゼル皇女、あなたはとても賢い御方です。しかしひとつだけ誤解をしていらっしゃるものがある」
アレスは静かに言葉を紡ぐ。
リゼルは驚いた。
誤解をしている自覚はない。
自分の価値は自分でわかっている。
それでも、まさかアレスが物事を間違えるはずがない。
一体何を誤解しているというのか――思わず顔を上げると、青い瞳がリゼルをまっすぐに見つめていた。
「ご自身の価値です」
――それこそ、自分自身が一番よくわかっている。
価値など微塵もない、役立たず皇女。
「あなたを選んだのは、忠誠のためではなく、俺の心からの望みだからです」
アレスの言葉はまっすぐで、その目には揺るぎない決意が宿っている。
彼は疑いようもないほど誠実な騎士だ。
だが、リゼルはその言葉を信じることができない。その目を直視することができない。
アレスは、そんなリゼルの戸惑いを見通しているような、少し悲しげな笑みを浮かべる。
「姫に信じていただけるよう、努力します」
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