第2話
それから、私はたまに藤岡さんが寝る前、私の抱える悩み……というほどのものでもないような些細な迷いごとを話すようになった。
友達がSNSで結婚したという報告をしていたり、ノロケのような投稿を見ると少し不愉快な気分になることや、うまく職場の人と関われないこと、1人暮らしだけど自炊が続かないことや、昔少し気になっていた男の子のことなんかも話したと思う。
藤岡さんは、私のそんなどうでもいいような話をふんふんと頷いて聞いてくれ「そりゃしょうがないねぇ」と笑ってくれたり、昔の話をもちだしてきて「私の頃は……」と話してくれたり、あるいはどこか的外れなアドバイスをくれたりすることもあった。
藤岡さんは昔は小学校の教師をしていたことや、たまに面会にくる息子さんが小さかった頃の話なんかをしてくれたりした。
「でも残念だわ、あなたの顔、このさき私は見れないじゃない? でもあなたには見える。あなたを大切に思ってくれている人がどんな顔をしているのか、ちゃんと見えるし、思い出せるじゃない。それって、とっても羨ましいわ」
そんなことを言ってくれた藤岡さんは3か月前、1月の上旬で天寿を全うされた。
夜中に起きた心筋梗塞が原因だった。夜勤の職員が巡回で部屋に行った時にはもう時間が経っていて蘇生は不可能だったそうだ。
私はその知らせを聞いて確かにショックだったけれど、そんなことで人手不足の仕事を休んでいるわけにもいかないし、普段通りに働き続けた。
こういう職場にいれば、1年のうちに亡くなる人を何人も見る。別に珍しいことでもない。
それに私は、1月の時点でもう辞める決心をしていた。藤岡さんには言っていなかったけれど。
理由は、あまり眠れなくなったことだった。めまいや動機がするようにもなって、病院に行ったところ自律神経失調症だと言われた。
職場には、管理職の人以外には理由は告げなかった。
皆同じ環境で働いていて私だけが体調不良で抜けるなんて、なんだかずるいような気がしていたからだった。辞める理由を尋ねられてもうやむやにした。
そして私は今日の夜勤を最後に仕事を辞めた。
1人暮らしのアパートにたどり着くと、いつもの習慣で手を洗って風呂場でシャワーを浴びた。
そしてそのままベッドに倒れ込んだ。
苦手なマラソン大会でなんとか最後まで走りきった時みたいなだるさが体全体に降り積もっていた。
その日ばかりは、私はぐっすりと眠った気がする。
そしていつぶりだろうか、しっかりと夢を見た。
それは昔の夢だった。
まだ中学2年生だった時の夏休み、両親は働きに出かけて何の予定もなかった私は近所のコンビニに行く途中、近所に住んでいた男の子が古めかしいカメラを片手に歩いているのを見かけたのだった。
彼のことは、確か市村くんと呼んでいたような記憶がある。ぼさっとした雰囲気でよく学校の宿題を忘れて注意されるタイプの男の子だった。
気になった私が道端で彼に話しかけてみると、市村くんはすごく驚いていた。
何を撮ってたのか訊くと、動物や鳥を撮っていると話してくれた。
彼は老犬や電線に止まっているカラスなんかにレンズを向けてファインダーを覗くと、すごく真剣な顔で慎重にシャッターを押していた。
その映像が夢の中で再生される。
そうそう、カメラは私の見たことのない”フィルム式”ってやつを使っていたんだ。撮るたびに何かレバーみたいなものを操作していて、ギギギとカメラがフィルムを巻く音が夢を通して私の脳内に蘇った。
私が「何で写真を撮ってるの?」と尋ねると……あれ。
彼は、市村くんは、何て答えてくれたんだっけ。
自分の記憶のことだったけど、夢から醒めてしまうと絶対にその答えは思い出せないような気がして、私はプールの底に頑張って潜ろうとするように必死で夢の中に意識を戻そうとした。
だけど私の意識は非情にも現実世界に引っ張られていってしまい、私はベッドの掛け布団の上でうつ伏せに倒れている状態で目がさめた。
髪の毛に触れるとまだ少し生乾きの感触がした。
ふと、いったん実家に帰ろうかという考えが頭の中に浮かんだ。
それは夢の続きを思い出すヒントがつかめると思ったこともあるだろうけど、何より両親にしばらくぶりに顔を見せて仕事のことをちゃんと伝えておこうと思ったからだ。
実は仕事を辞める話をまだ2人にはしていなかった。
あまり心配をかけたくなかったし、普段からあまり連絡を取ることもしていなかったからだ。
でもいざ辞めたとなるとさすがに話しておかないわけにもいかないのではないかというごく一般的な常識が私の背中を押していた。
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