光の記録
園長
第1話
地下鉄の駅からJRまでの乗り換えには長い地下通路がある。
そこを歩いていた私の足は突然、磁石で地面にくっつけられたみたいに止まった。
壁に飾られたモノクロ写真が目に止まったからだ。
80台くらいのおばあさんが畑とおぼしき場所でまるまる太った人参を手にして笑っている写真だった。
顔にも手にも深い皺が刻まれていて、そこに入り込んだ泥の様子までがその写真には鮮明に映し出されていた。
その写真を見た瞬間、周囲の音という音が消え去ったような感覚になり、その写真自体が私に何かを語りかけてくるような気さえした。
しばらくじっとその写真に見入っていた。
ふと額縁の下に細かな字が書かれた木製のプレートが掛けられているのを見つけた。
[平成21年7月29日長野県岡谷市にて]
驚いたことに、それは私の地元だった。
プレートの下部には撮影者の名前が載せられていた。
今から15年前。だとすればこのおばあさんはもうこの世にはいないかもしれない。
写真を見終えた後、私はJRの駅に向かって再び歩き始めた。
ひょっとしたら通行する人は熱心に写真を見る私を少し変な目で見ていたかもしれない。特に今は通勤の時間帯だから人通りが多くて邪魔になっていたかもしれない。
いや、それでもいい。
私はそれでもそのあのおばあさんのことをじっくり見たいと感じたんだ。
でもどうしてだろう。
どうして、あの写真に吸い寄せられてしまったのだろうか。
もしかすると私が今日、仕事を辞めたからだろうか。
大学を卒業してすぐに、なし崩し的に始めて3年間勤めた介護の仕事だけど、それでも辞めたことで何か意識しないところで感傷的になっているのだろうか。
わからない。
仕事が無くなることに特に不安はなかったはずだ。
少ないながらもある程度の貯金はできたし、次の職を探そうという気力もあった、職種だって選り好みしない予定だった。
だけど介護の仕事は、きっと私に合っていなかったと思う。
私は要領もよくないし、職場の人と会話することも苦手で、いつもうまくコミュニケーションがとれずに皆を苛立たせてしまっていたと思う。
先輩や上司の人から「この仕事はチームワークが大事だから」と言われるたびに、この仕事を選んだことに申し訳なさを感じていた。
特に入職したての頃は仕事が心底嫌だった。汚いし臭いしこきつかわれる。高齢者は昔の考え方を押し付けてくるし、男尊女卑は当たり前だし、召し使いのように扱われることもあった。でも、お金を稼ぐってこういうことなのかもなって、文句を言いたい気持ちを押し殺していた。
それでもなんとか、3年目にしてようやく施設に入居している人たちとはなんとかうまくやれるようになったように思う。
でもそれだって、プロ意識が芽生えたとか仕事とプライベートの切り替えがうまくなったとかそんなことでは一切ない。考え方が変わったのだ。
そのきっかけくれたのが藤岡さんという80台半ばの女性の入居者の方だった。
藤岡さんは糖尿病を患っていて、そのせいで両目の視力はほとんどなかった。
しかし藤岡さんは優しかった。それは見ているこちらが怖くなるほどに優しかった。他の入居者の人が割り込んできても順番を譲ってあげるし、車椅子をぶつけられてびっくりしても苦笑いを浮かべるだけだったり、逆に相手のことを心配すらしていた。新人だったころの私がもたもたと移乗をしていた時も「ありがとうね」といつも必ず言ってくれていた。
私はある日の夜、藤岡さんがベッドに移るのを介助した後、思い切って「どうしてそんなに他人を許せるんですか」と尋ねてみた。
藤岡さんは私が質問をしたことが意外だったのだろう。少し驚いたような顔をしてこちらを見た。もちろんその瞳は白濁していて私の表情は捉えられていなかったとは思うけれど。
そして、じっくりと考えるようにして「そうねぇ……」とつぶやいた後に「あなた、いくつだっけ?」と尋ねられた。
「私、ですか? 24歳です」
私がそう答えると、藤岡さんはゆっくりと頷いた。
「そう、そうなのね。たぶんね、きっと私達みたいな老人はね、いろんなことが不安なのよ。老い先短い自分の身にこれからどんな恐ろしいことが起こるのかってね。それは病気かもしれないし、老いて動けなくなることかもしれない。家族に介護を疎まれることか、若い頃の自分がそうであったように若者に冷ややかな目で見られることか、あるいは死ぬことかもしれない」
藤岡さんはギャッジが上がったベッドの上で真正面の壁の方を向いたまま続ける。
「私が若い時はね、皆怖いものなんてなかった。まぁ、そういう時代でもあったのかもしれないけれどね。でも今は、特に自分の家じゃなくこういう施設にいるとね。たまらなく不安になる時があるの。私はきっと、それが身にしみてよく分かるからかしらね」
私はそれを聞いた瞬間、今までされてきた入居者の人からの言動の見方がぐるっと変わったような気がした。
それからは、入居者の人に理不尽に怒られることも、細かすぎる要求も、無神経な発言も、なんとなく、少しは許せるようになった。
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