養護学校に入学した気管支喘息さん

私の技で、長期入院が決まった時は本当に嬉しかった。だが、今思うと、それは単純に喘息が悪化したことや、自宅に戻ると重篤な状態で再入院することが多かったからかもしれない。


分院の隣にある分校に通えることになったのは、とても嬉しい出来事だった。分校は入院している人だけが通う学校で、近くの公立小学校から教師が派遣されていた。木造で「昭和の学校」という言葉がぴったりな学校。1クラスには3人ほどしかいない。

ブロッコリーを育てたり、公園に行ってヨモギを摘んでお饅頭を作ったりと、本当に楽しかった。ただ、その分校は小学3年生までしか通えない。4年生からは近くの公立学校へ転校しなければならなかった。学校に通えること自体は嬉しかった。だが、転校という行為はどうしても好きになれなかった。これで2回目の転校になった。


公立の小学校に通いだしてから、月に関するレポートを提出したことがある。誰かに言われたわけでもないのに、月について調べ上げてA4用紙にまとめて教師に提出した。今「なぜそんなことをしたのか?」と聞かれたら、「多分気になったから調べたんだと思う。でもレポートにした理由は、今の自分でもよくわからない」と答えるだろう。そのレポートのせいで、小テストが作られた事は本当に罪悪感でしかなかった。


絵具の授業で、絵具を忘れてしまった私は、隣のクラスにいる同じ分院に入院している男の子に借りに行けずに困っていた。その様子を見かねた女の子が、私に付き添ってくれたおかげで、無事に絵具を借りることができた。

放課後、病院に内緒でこっそりとクラスメイトの家に行き、ハムスターを見せてもらうのが楽しみだった。自動販売機のおつりポケットに500円が入っているのを見つけると、普段は絶対に飲めないジュースを買って、隠れて飲んだりもした。

優しい看護師が勤務終わりに声を掛けてくれて、車の中でこっそりと美味しいパンを食べさせてもらうこともあった。

こうした小さな秘密のひとときが、私にとってかけがえのない時間だった。


だが4年生の1学期の途中で、埼玉県への転院が決まった時、担任教師からその知らせを受けた私は衝撃を受けた。少ししか通うことができなかったが、公立の学校での時間は楽しかった。帰りの会では、クラスメイトたちから別れの言葉をかけられ、嬉しさと寂しさが入り混じった。当時、人気だった男の子が私の頭を優しく撫でながら「元気にやれよ!」と言ってくれたことが、私にとって最高の思い出となった。


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