第三章 穴
こんな話を聞いた事がないだろうか?
引っ越したばかりの隣の家に、挨拶に行ったが、いくら呼び鈴を鳴らしても、相手が出てこない。
日を改めて、また挨拶に行こうと自宅に戻ろうとした時に、隣人が帰ってきた。
大きな帽子に、大きなサングラス、そしてマスクをした、その姿は異様で、ギョッとするが長い黒髪とドレス姿で、女性だと分かる。
「あのう……。」
そう声を掛けたが相手は、知らぬ顔をして家の中に入っていった。
その女性の事が気になって、玄関のドアの鍵穴から中を覗く。
中は、真っ赤で何も見えない。
諦めて自宅に帰ると、そこに町内の人が尋ねてきた。
そこで、隣の女性の事を何となく聞いてみた。
町内の人の話によれば、その女性は、目の病気を患っており、両目が真っ赤なのだという。
それを聞いて、ハッとなるのだ。
鍵穴を覗いた時に見た部屋。
あれは、部屋が真っ赤だったのではなく、こちらを覗く女性の目だったのだと。
覗いてはいけない穴を覗いてしまった、そんな話。
昔、長屋に住む佐吉(さきち)という男がおった。
佐吉の隣には、それは、美しい娘が一人で暮らしていた。
佐吉は、その娘に恋心を抱いていた。
ある日、大工の仕事を終え、戻ってきた佐吉の部屋の前で、娘が待っていた。
「佐吉さん、おかえりなさい。」
そう言って、薄く微笑む娘に、佐吉は、少し頬を染めた。
「ただいま。」
なんだか夫婦みたいだ。
そんな事を思っていると、娘がこう言った。
「佐吉さん……。あなたの部屋の壁に、穴が開いてると思いますが、決して、その穴を覗いてはいけませんよ。」
「穴?そんなもん、あったかな?」
娘の言葉に、佐吉は、首を傾げる。
この長屋には、もう長い間、住んでいるが穴なんて開いてるとは思わなかった。
娘は、言う。
「その穴から、私の部屋が見えます。覗かれると、大変、困りますの。」
「……分かりやした。決して、覗いたりしませんから、安心して下さい。」
佐吉がそう言うと、娘は、ホッとしたように息をつき、自分の部屋へと入って行った。
佐吉は、自分の部屋へ入ると、壁を近くで見る。
なるほど、確かに、娘の部屋と繋がる壁に、小さな穴が開いていた。
覗かないで下さいと言われれば、覗きたくなるのが人間の心理。
その日から、佐吉は、その穴が気になって気になって、仕方なくなった。
ある日の晩。
娘の部屋から、声が聞こえた。
娘と、もう一人、男の声が聞こえる。
やがて、二人の声は、男女が愛し合う声に変わる。
ーああ……。愛しています。愛し過ぎて、食べてしまいたい。ー
娘の、そんな声が聞こえる。
佐吉は、ゴクリと、唾を飲み込むと、音を立てないように、壁の穴に近付き、そっと、目を穴に近付けた。
そこに映ったのは……。
般若の面のような顔をした娘であろう女がバリバリと、男を食べていた。
千切れた男の腕を持ち、ムシャムシャと食べる姿は、まるで鬼のようだった。
思わず、声を上げようとした佐吉は、片手で自分の口を塞ぎ、目を見開いた。
ー早く……早く、この穴から離れないと!!ー
そう思っても、恐怖に身体が動かない。
その時、鬼の顔をした娘が口から、流れる血をグイッと拭い、キッと、壁の穴を睨んだ。
目と目が合い、佐吉は、きつく目を閉じた。
「あれほど、覗いてはいけないと言ったのに……。」
その呟きに、目を開けた佐吉は、すぐ、そこに迫る細い何かを見た。
「ぎゃあああ!!」
夜の長屋に、佐吉の叫び声が響く。
次の日、部屋で死んでいる佐吉の目には、深く竹串が突き刺さっていた。
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