二人の夢
鴻山みね
二人の夢
「なに? つまりお前さんはこの世は現実じゃないと言うのかい」オールバックの男は赤い椅子に座り、ハム・エッグサンドイッチを手袋をつけたまま片手に持ち、円型のテーブルの向かい側、青い椅子に座っている似た格好をしたマッシュヘアの人間に言った。
「別に現実じゃないとかそういうことを言ってるんじゃないんだよ、現実とは限らないだろうと言ってるんだ」
「なあ、マックス。なら今ここはどこなんだい? アップル・ソースをかけた、ひれ肉のロースト・ポークとマッシュ・ポテトを食べようとしたら六時のディナーだと言われて、店に置かれた時計を見たら五時二十分――いや、時計が二十分進んでいて五時でよ。俺たちはサンドイッチを頼んだ、俺はサンドイッチを二つ食べこれが三つめだ。そして、お前はベーコン・エッグのサンドイッチを一口も食べずにいるんだぜ」そう言うとオールバックの男は手に持っていたサンドイッチをかじった。
マックスは小さく鼻から息を出し、左肘をテーブルにあて手を頭につけ、空いてる右手で手袋をつけたままサンドイッチを取り一口食べた。
オールバックの男は立ち上がりボタンをきっちりとかけた黒のオーバーコートを片手で整え、もう一方に持っているかじりついたサンドイッチを口に投げ込み、両手を払うように叩いた。何かを言おうとしていたが、口の中にサンドイッチが残っていた。それを見てマックスは、何か言いたいことがあるのかいと男に言った。彼はマックスに顔を向けた後、外側の方に顔を素早く向けてああ、そうだと言うと言葉を続けた。
「見てみろよ、この景色を。人々がそこにいるじゃないか。この美しい景色も、お前は現実じゃないと言うのか。翼よ、あれがパリの灯だ!」両手を大きく広げ、全体を見通すように顔を左から右へと移した。
「アル、知っているかい。大西洋単独横断飛行をしたチャールズ・リンドバーグは、その言葉を言ってないんだよ。それは脚色された言葉なのさ」左手を軽く上に伸ばし、手のひらを上に向け「君は現実ではない、つまりさ嘘の言葉に騙されたんだよ。僕たちはそういう虚構の世界にいるのさ。事実じゃないことも、まるで事実かのように。あるいは、夢だって夢じゃないのかもしれない」
アルは広げた両手を戻しマックスを見て「なるほどな。確かに俺は間違った言葉、事実じゃない言葉だったな。だが、言葉だけが全てじゃない」アルはテーブルにある水の入った透明なコップを持った。
「コップの温度がこの手に遅れながら伝わってくる。手袋を通じて、冷たく。マックスこの感触も嘘だと思うのかい?」
「君の感じている、冷たさは嘘とは確かに言い切れない。だけど、冷たいという感覚は何によってもたらされるのか。その感覚は本当にコップから感じていると言えるのか」持ったままのサンドイッチをもう一口食べ「こういう感覚は、別の何かによって疑似的に感覚をもたらされていると考えたりできたりするだろ」
「どうやって――その疑似的に感覚をもたらされるんだい」アルはわざとらしく首をかしげた。
「それはさ、もっと……こう僕たちより高次元にいる存在。いや、あるいはコンピューターのシミュレーションで……」
「それは妄言というやつじゃないかい? まず俺たちはここにいるのだから、それは事実だろ。感じたことも事実だろ。舞台を見た時の感動は? 感触は? どうやってあの言葉にならない感覚を疑似的に味わえるのか。もし、疑似的だとしても、そこまでいけばもはや俺たちとっては現実じゃないか」空いた片手を広げ、その後にコップを口元に持っていき水をきれいに飲み干した。飲んだ勢いのままコップをテーブルに置いた。
「おい、それは僕の水だぞ」青い椅子に座っているマックスは持っていたサンドイッチを皿に置き、クレームをつける客のようにオールバックの男の方を見た。
「おや、それは悪いね。これで勘弁してくれ」オーバーコートの内ポケットから鈍い光沢のある黒の財布を取り出し、親指を一ドル札の真ん中にある折り目に置き、もう片面を人差し指と薬指を使い両端より手前ぐらいで挟み込み、半分に折った一ドル札をコップの中に入れた。財布を内ポケットにしまうと、アルは自身のオールバックヘアを前から後ろに手で動かし整えた。マックスは一ドル札が入ったコップを顔と同じ高さに持っていき、眩い光に照らし「僕の庭に植えてあった桜の木を切ったのは誰なんだろうな」
アルは赤い椅子に向かって、のそのそと歩き「マックス、俺は嘘をつけないんだ。誰もが知っている、そうだろ」座らずに椅子の笠木に手をかけ「俺が手斧で桜の木を切っちまったんだ」
「君のその正直さは千本の桜より価値があるだろうね」コップを静かに下ろし、テーブルに左手を肘掛けのように置いた。立っているアルを見て「だけど、切られた僕の思いはどこに行くんだい?」マックスは視線をそらし言葉を続けた「アル、君の正直さは千本の桜より価値のあることだ。けど、考えてほしい。切られた側の桜は一本だが、それは一本の価値しかない桜とはならないだろう。仏教徒よりキリスト教徒のほうが多いからって、キリスト教のほうが価値があると言えるのか。テムズ川とセーヌ川どちらが素晴らしいとかさ、つまりさ価値なんてのは相対的なわけで。何が言いたいのかと言えば、僕にとっては庭の桜の木はタイダル・ベイスンに咲く桜の木より大切だと言いたのさ」
「テムズ川にだけは入りたくないがね」
「それは同感だ」
彼らの外側から笑い声が漏れた。
「なにも笑うことはないぜ」アルは外側に向かって言った。「笑うことはねえんだ。わかったか」
笑い声は収まり静かになった。
「うん。頭のいいやつらだ」
コンコンとマックスはテーブルを中指の第二関節で叩き、アルを見た。
アルは視線を一瞬だけ叩かれた指に移し、軽く笑った後「つまりよ、お前さんは犬一匹の命と犬百匹の命は同じだと? さすがにそれは無理があるんじゃねーか。ルーズベルトはアリューシャン列島によ黒毛の愛犬ファラを置いてきちまったんだ。それでな、スコットランドの犬一匹の為に駆逐艦を使って迎えに行ってよ、多額の税金を使っちまったんだとよ。犬は大切だ、それはわかるぜ。俺もコッカー・スパニエル飼ってたからよ。チェッカーズって名前さ。娘がつけたんだ。センスのある娘だと思わないか? とてもいい犬でな、俺と妻と二人の娘でかわいがったもんだ。今でも思い出すね。ここまで言えばわかると思うが……チェッカーズは亡くなっちまったんだ」頭を下に向け空いた片手で目を覆った。「今はな、アイリッシュ・セッター、プードル、テリア三匹飼っているんだ。チェッカーズのことは愛してるよ。だけどな、この三匹とチェッカーズ一匹の命は対等とは思わないぜ。犬の命は一つで、俺の知らない犬だろうがよチェッカーズの命は知らない犬一匹と同じだ。そこに差をつけちまったら、人間の命にも差がついちまうぜ。俺は民主主義者だからな」目を覆った手を外し、マックスに向かって投げかけた。
「君は僕を攻撃するのに飽き足らずファラにまで攻撃しようとしている。ファラは怒ってるよ。彼はスコティッシュ・テリアでスコットランドに誇りを持っているんだ。君のように多額の税金を使ったという嘘聞いてスコットランド魂が燃え上がり、彼は以前とは違う犬になってしまったんだよ」一ドル札が入ったコップを口付近まで軽く上げた。「僕に対する中傷は慣れているが犬に対する中傷は反論しよう」
「おっと、それはすまなかった。お前がそこまで犬が好きだったとは思わなかったよ。謝罪しよう」額に汗が少しついていて、笠木にかけていた手の指がイラつくように動いていた。
マックスは大きくため息をつき「君とは本当に反りが合わないね。僕たちはコインの表と裏。東ドイツと西ドイツ。水と油。ウィリアム・ハンナとジョセフ・バーベラなのかもしれないね」
「ああ。お前はこの世は虚構だと言い、俺は現実だと言う」
「でも、それをどう証明するのか」
アルは椅子から手を放した。テーブル少し近づき、オーバーコートの内側をまさぐり艶消しされた拳銃を出しテーブルに置いた。
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」
「なるほど。僕がその銃で頭を撃ち抜けば、終わる――ということだね」
「そうだ。現実なら死に向かい、虚構なら生に向かう」
セーフティを外し、マックスは親指でトリガーを持ち口にくわえた。大きな銃声が鳴り、拳銃は床に落ちマックスの顔面はテーブルにある皿に当たった。残ったベーコン・エッグサンドイッチは潰された。
アルは片手を大きく広げ「マックス。お前は今どこに向かった。もし、現実にいるのなら口を噤み、虚構にいるのなら声を上げてくれ!」
眩い光がゆっくりと消えていき、幕が下りた。外側からは拍手の音がした。
鏡が三つ連なって壁にかかり蛍光灯が灯る昼光色の明るい部屋、二人の男が畳に座っていた。黒いコートはハンガーに掛けられることなく脱ぎ捨てられ、手袋は転がっている。
「ああ、くそ。一ドル札を回収するの忘れちまった」とオールバックヘアの男が素手で頭を掻きながら言った。
「しっかりと確認しとかなきゃダメでしょ。スタッフの誰かが盗ったのかもね」とマッシュヘアの男がテーブルにある潰れたベーコン・エッグサンドイッチを食べながら言った。
「だいたいな、お前の近くにあるんだから持ってこいよな」そう言うとタバコの箱をバッグから取り出し、机の上にあったライターを使いタバコに火をつけた。マッシュヘアの男は何も言わずにサンドイッチを食べている。煙を吐き出し、オールバックヘアの男はクリーム色の壁を見ていた。サンドイッチの咀嚼音が響くなかタバコを持ちながら言った。
「劇は、まあまあ良かったな拍手もあったし。今まで一番かもな」それを聞いたマッシュヘアの男はサンドイッチを一旦食べるのをやめ「拍手って言ったって半分の客が手を叩いただけ、残りの半分は手を叩くことすらしなかったんだ。失敗だよ。失敗」眉をひそめ、言葉の終わり際の声は小さい。
「マックス……じゃなかった
緑波は残り一口のサンドイッチを口の中に入れ、湯飲みに入った温かいお茶でサンドイッチを飲み込んだ。一息つき言葉を言った。
「僕はね、全員に拍手してもらえる。劇場にいた猫ですら拍手を送るような、そんな脚本を書いてるんだよ。半分ということは目標の半分しか達成してないってことさ。あと猫の分もね」
「確かに猫も拍手したら傑作だな」オールバックヘアの男は笑い、タバコの灰が落ちた。
「でも、半分は満足したならそれが現実だろ。
緑波は畳に仰向けに倒れ「健一。僕はさ、自分の脚本を相手に理解してほしいんだ。わざわざ手袋はめたまま、サンドイッチを食べるなんてしたくはないんだけど。けどさ、そこまでやらないと相手に伝わらないんだよ。本当はラストシーンだって、二人は店から去ってゆく。そんな終わり方にしたかったんだ。けど、それじゃあね……伝わらないんだよ。セリフ中心で説明してやらないとさ」索然と天井を一点に見つめていた。
タバコを左手で持ちながら空いた手で耳の裏を掻き「創作者の苦悩ってやつかい? いつの世もそういうやつはいるんだよ。自分の高尚な話についてこれないなんて、理解できないやつらが悪いって――相手に理解してもらおうなんて考えちゃダメだ」灰皿で灰を落とし、小皿にあるフライドポテトを食べ、さすがに冷えてるなと呟いた後「緑波の情熱はこのフライドポテトのように冷えていた……」
「なにそのつまらない文は……」上半身を起こし、フライドポテトに手をつけた。
冷た……と緑波が言った後、健一はバッグを漁り瓶に入った塩を手に取り小皿に盛られたフライドポテトにかけた。緑波はその姿を見て顔を横を向け、すぐに顔を戻し塩のかかったフライドポテトを口に運んだ。健一が灰皿にフライドポテトを落とした。左手のタバコを慎重に灰皿に置き、灰に落ちなかった半分を丁寧に両手で切り取った。フライドポテトを口にくわえ、左手でタバコをもう一度持ち右手でフライドポテトを口に入れた。それを見た緑波もフライドポテトを口にくわえ、一メートル先にあるポットに体を伸ばす。足りない分は体を左右に動かし湯飲みにお茶を入れた。体をゆっくりと戻し、口にくわえたフライドポテトを舌で器用に口内へと運び食べ、お茶を飲んだ。
「タバコはどうなんだ」と緑波が言った。
「どうって言われてもな。偉大な役者はタバコを吸うもんだと俺は思ってるんだ」
「だけど、そのせいで最後の辺りイライラしてただろ。指の動きでわかったよ」
タバコを軽く揺らし「なるほど、だからあそこで終わらせたんだな。大丈夫さ、俺は全然やれた」
「汗ばんでいただろ」
「それは、照明の暑さだ。気にすることじゃない。お前と違ってあの重いコートを着て、動き回るからな」立ち上がり、高窓を開けた。「まだ、暑さが残ってる」
「役者としてやってくなら、タバコはやめるべきだ。いくら偉大な役者が吸っていようが、演技に支障がでたら元も子もない」両手をテーブルの上で組み睨んだ。
健一は座り込みながら「なら、偉大な脚本家さんはオマージュ……パロディ……どっちだがわからないが、しないのかい?」
「それは……したりするさ」
一吸いして「偉大な脚本家を目指しているお前もそればかりだろ。引用に引用。この世にオリジナルってのはほとんど無い。どこかしらからの引用で成り立ってる。元素の組み合わせみたいなもんだよ」
組んだ両手を額に持っていき、目線を落とした「完璧な文章なんて――存在しないか」
「完璧な絶望が存在しないように」健一はそう言うと「やっぱり引用だらけだ」と軽く笑いタバコを灰皿に捨て、にこやかに新しいタバコを箱から取り出した。
「つまり、役者はタバコを吸い、脚本家は引用すればいい。これで後はやりたいようにやればいい。俺たちはそういう世界に生きてるんだよ」ライターで火をつけた。
緑波は黙ったまま自身の影で暗くなった、テーブルの明暗の線を見ていた。
開いた高窓から風が入ってくる。煙は揺られ扉にぶつかり弱ったドライアイスのように消えていった。
「晩飯はどうする。いつもの蕎麦屋に行くか」と健一は言った。
「あの狭い店か? 使い込まれた赤い湯桶がある。赤い塗料が落ちて黒くなりかけた湯桶があるところか」
「そこだ。使い込まれた赤い湯桶があるところだ。あそこのそば湯はうまい、もしかしたら劣化した湯桶が逆に味を良くしてるのかもしれないな」
「そばつゆの味がいいだけじゃないか?」
「いや、あれはつゆじゃないね。俺にはわかる」
「そば湯なんてどこも一緒だろう。問題はつゆにあると思うね」
「緑波お前はなにもわかっちゃいない。普段そば湯を飲まないからそういう短絡的な感想になるんだ。開店したばかりの、そば湯は大してそばを茹でてないからお湯みたいなもんだ。けどな、何度もそばを茹でると成分がしっかりとお湯に溶け出してうまくなるんだよ。あの蕎麦屋はボロいが適切な濃さになるように調整してるんだよ」
「ただめんどくさくて、それか水の節約の為にお湯を変えてないだけだろ」
「店のじいさんが信用できないのはわかるぜ。あんな風貌だが、数十年潰さずにやってるんだ。そばだって食べれる味だろ。うまい天ぷらを作るしっかりしたばあさんだっているんだ、お湯ぐらいしっかりとやってるよ」
「ふーん……」腕を下ろし両手を背中より後ろに回し畳に手をつけた。「そうだな、ちょうど天ぷらがのったそばが食べたかったんだ。蕎麦屋にしよう。あそこの天ぷらは味がいいんだ、ほどよくて」
「俺は安いざるそばでも頼むよ」
蕎麦の話が終わり。数十秒の沈黙をへて、健一が口を開いた。
「なあ、次の仕事の時――そう、三日後の舞台は今日と同じ脚本でいくのか」
「正直悩んでいる。さっきも言ったがラストシーンが気に入らない。唐突すぎるんだ」
右手で頭を掻き「結構いい終わりだとは思うけどな。唐突だが、面白かったぜ。客の目が点になっててな」
テーブルに落ちた塩を見ながら「僕なりのサービスなんだよ、あれはさ。ショッキングで印象的なシーンを残せば、人は満足するんだ。文脈なんて誰も興味ないんだよ。ダレ場だって僕は一番面白い――いや、不適切な言葉だな、興味深いと思ってるが大半の人にとってはつまらないんだよ」
「それに関してわかるな。役者としても、退屈なシーンこそ芝居の見せどころだと思うね」左肘をつけタバコを頭ぐらいの高さに上げ、前屈みになり頭を少し低くた。「派手なシーンより、静かに退屈な場面のほうがやってて楽しい。物語の空気をくっつける、接着剤みたいなものだな。ないと一つ一つの場面が浮いちまう」
緑波は笑みをこぼした。お茶を一口飲み言った。
「ダレ場も大切なシーンなんだ。接着剤――その通りだよ。いい例えだ。極端だが、最初と最後だけ印象的なシーンを入れれば大抵いいんだ。だけど、僕はねラストシーンこそ静かに……退屈に終わらせたいんだ。物語は伝えたいことは作中のなかに刻んで置いてあるんだよ」そう言うとノートを取り出し、ミサイル型のペンを持ち、ヒマラヤ山脈がプリントされた消しゴムをテーブルに置いた。何度も消した跡が残ったページをめくり、なにも書かれてない真っ白なページに書き始めた。「やはり、納得いかないよ。ラストシーンは静かに終わらせよう。二人が店を出ていく――これがいい」
健一は、ぼうっとした目でその姿を見ていた。タバコの煙をブツブツと言ってるマッシュヘアに向かって強めに吹き、煙は髪にはじかれていった。ペンで三十文字程度書いては半分ぐらい消しゴムで消した。長く書いた分は線を引きなかったことにして、書き直した。数分書けずにいると本を開き、文字を目で追っていた。栞紐を下ろし本を閉じて、ペンを持ちまた書き始める。ペンがまた止まり、さっきの本をもう一度開いた。探すように文を舐め、本を閉じ書き始めた。健一は立ち上がり緑波の湯飲みにお茶を入れた。高窓に向かいタバコを煙を出したあと灰皿に入れ煙草火を消した。バッグから付箋が十枚以上貼られた厚みのあるよれた本を出し読み始めた。ペンが紙の上を滑り、文字が消しゴムの摩擦で落ち紙が
大きな息を吐き出した健一は時計を確認した。時計の針はくるりと回っていた。
「緑波どうだ、書けたか?」
「ある程度は書けたよ、三日後の舞台には余裕で間に合う。一度修正すると、あちこち気になってさ」ペンを左右にゆらゆら動かした。
「そういうもんだ。次の日にはもっと気になってるぜ」
「考えただけで気が滅入るよ……」ノートに向かって顔を伏せた。息を吐くと、消しゴムのカスが鈍臭く外側に舞っていった。
「結局最後はどうするんだ?」
緑波は顔を上げて言った。「ああ。それなら、二人が店を出ていって終わりってことにしたよ。静かに終わらせよう。一応新しい物語のプロットも書いたんだ、いつ完成するかわからないけどね。全員が拍手する内容を期待していてくれ」
髪をかき上げ「期待しておくよ。猫も拍手するような演じてて面白い役で頼むぜ」
「もちろんさ」
「君も演技の方は上手くいけそうか?」
「全然わからねえや。正解がないから正しいのか間違ってるのかすらわからねえ」仰向けに倒れ、言葉を続けた「芝居は読んでるだけじゃ、上達しないからな」
「僕には、あまりわからない世界だよ」
「だけどな、もしも十人が喜べばそれは間違いないぜ。十人を喜ばせる芝居ができたんだ。要はそれを増やしていけばいい、そんで今日は半分の人を拍手させたんだ、なら次は半分ともう一人を拍手させればいい。それを繰り返していくんだ」
緑波は鏡を見て「プラス思考で羨ましいよ」
健一は上を向いたまま「お前がマイナス思考なんだよ」
鏡に目を向けながら寝転んだ。途中で鏡に映る緑波は途切れ、鏡の下にあるコンセントの穴に目がいった。横たわりコンセントの穴を見ている。
「なあ」健一が口を開いた「タヒチ島って行ったことあるか」緑波は、ないと答える。「俺も行ったことはない。タヒチの女たちが書かれた絵を観てな、いいところだと思ったんだよ。暖かさがあって、自由で一瞬を永遠に切り取られてるみたいでな」
「君には、そう見えたんだね。僕には重くて、先には暗く澱んだ色が見えたよ」そう言うと緑波は視線を右から左、畳から天井に向かって動かした。白い鳥ような模様が見えていた。
「僕たちはどこへ行くのか」と緑波は言った。
「どこにでも行けるさ。俺たちの将来は売れて人気者だ」
「いや、もしかしたらもう売れていて、これは夢なのかもしれないよ」
「だといいな」そう言うと健一は目を閉じた。続けて緑波も目を閉じた。
開いた高窓から外の空気と共に二匹の蝶が部屋に入った。ゆらゆらとひらひらと二匹の蝶は舞った。
二人の夢 鴻山みね @koukou-22
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