第9話 独り立ち

淑気未しゅくきいまとおらず春尚はるなおそ


霜辛雪苦豈そうしんせつくあわんや


情愧じょうはずらくは東風とうふうわらわれん


吟断ぎんだん江南こうなん梅一枝うめいっし



春のおだやかな気はこの山国にはまだ行き渡らず、春はなお遅い。

霜や雪に苦しめられて、新春の詩を作るなどと陽気なことが言っていられないほどだ。

こんな歌心では恥かしいことに春風に笑われてしまうだろう。

せめて陸凱の 「梅を折りて駅使に逢い、隴頭の人に寄与す、江南有る所無し、聊か贈る一枝の春」の詩を吟じて、一枝の春の訪れを心待ちにすることとしよう。


武田信玄は漢詩をこよなく愛し、戦に関わらず部類の博学で詩をんだ。

この詩は上杉との策略合戦に臨み、突破口を見出せない焦りを自ら落ち着かせるためにうたったのだ。


松本城の天守閣から眺める12星は、五つ目の輝きを指していた。







「我が殿は幼子ゆえ、幕府の権力争いに巻き込まれれば我が藩の存続は危ういものとなる。それでじゃ、殿の御代みだいとして我が三老中がこの藩を指揮していこうと思うのじゃが如何なものかのう?」


井森藩老中 立川たちかわ 伊従いおりは、不穏な空気に包まれている幕府の行く末に危惧する気持ちが隠せなかった。

幕府が滅びゆくことを、情勢を見守る己の先見の眼が、そう予見していたのかもしれない。

井森藩は、一万石の旗本で信濃の三分の一を統括していた。

武田軍の侵攻に伴い、幕府方の援軍として信玄暗殺を虎視眈々と狙っていた。

表向きには武田との間に協定を結び、上杉との戦時には、先兵となって出立することを約束している。






「あれが立川の城か。」


玄魁は武田信玄の命により、立川 伊従の身辺を調べる為、屋敷へと忍び込んだ。




「武田の勢力は1万5千,上杉は8千。この戦は武田が勝ちとなる。我々が御大おんたい 家康様に武田を付かせることが出来れば、天下は徳川のものとなる。」


玄魁は、天井板を気付かれぬよう少し開け、立川の話す相手の顔を覗いた。


「あの男は確か霧隠 鹿右衛門きりがくれ しかえもん。」


真田の忍びがその場にいることに驚きを隠せなかった。


「んっ、曲者くせもの!」


短剣が玄魁に襲い掛かった。

不意を突かれ、逃げる間を外した。


「カチ――ン!」


天井板を突き破り、玄魁の胸に突き刺さると思われた短剣は、金属音を残し、鹿右衛門の足元に落ちた。

玄魁の懐にあった木星の石球が命を救ったのだ。


「曲者じゃ!出合え!出合え!」・




玄魁が、密命を受けたのは一昨日の事だった。

師である源水と共に松本城の武田信玄に呼ばれた玄魁は、初めて信玄の素顔を眺めた。


「源水、立川の狸めの動きを探ってくれんか?」


「はっ!直ぐに!」


「そこでじゃ、今回はそなたではなく、其処に居る玄魁にそれを任せてみたいのだが、どうかの?」


「一向に!然し玄魁はまだ幼き身。失敗して相手方にあなどられるやもしれませぬ。」


「ふっ、失敗か。・・・影の者が失敗したときは、どうするのだったかのう?」


「はっ!自らを消す…」


「心配ないのう、源水。」


「はっ!」


源水は、いずれ来るべき時が来れば、玄魁も影の役割を果たさなければならなくなると、我が子同然の玄魁の独り立ちを促すことにした。


この密命は、表向きには、立川伊従の不穏な動きを監視するためだが、信玄には、12石星を持つ志士達の実力試しの意もあった。

役に立たねば、自らの世迷い言だったと諦め、始末しようとも思っていたのだ。


此時、一部始終を源水のそばで聞いていた玄魁は、心熱く燃え盛り、初めての大役に気持ちがたかぶるるのを感じた。

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