異形とステゴロ
神や聖天使といった名称が使われているものの、聖界は下界の人々の信仰とは関わりがない。
この神が下界を創成したわけではなく、死者の魂が聖界に召されるということもない。
宗教的な天国とは全くの別物、あくまでも現世から切り離された異界でしかないのだ。
陰らない陽の光、澄み切った青空、溢れる緑と色鮮やかな花々。
時折悪魔が現れて攻撃してくる以外は餓えにも病にも縁がない。
聖意に満ちた世界は、神に統治された楽園とし幸福のまま続いていく。
輝きの聖天使ロリルティニアにとっても、聖界はただただ楽しい場所だった。
最高位の聖天使の中で最も幼い彼女だが、穏やかで優しく、生真面目な性格から子供っぽいところはあまり見せない。
それが子供の背伸びのように見えて、仲間たちや配下の天使からも好まれていた。
ロリルティニアは聖界での日常を愛していた。
しかしある時、神がその身を隠した。
時を同じくして、ちょっかいをかける程度の存在だった悪魔が組織立って聖界への信仰を開始。
意思決定権を持っていた神の不在により混乱する聖天使たちに、“聖意”が救世主の到来を告げる。
下界から現れた人間は前線にこそ立たなかったが、『聖天使と契約する不思議な術』と『霊的な強化』、『武器の創造』といった聖意から与えられた権能をもって戦力を確保し、悪魔への反抗作戦を開始した。
豊穣の聖天使グラーヴィアは、もともと悪魔の討伐を任務にしていたため喜んで戦いに参加。
聖界の守り手である愛の聖天使エーヴィもそれに続いた。
治癒や補助を主な役割としていたロリルティニアは、本来なら悪魔と戦わない。しかし愛する日常を守るため、自らの意思で武器を手にした。
……なのに、それも三カ月と経たず終わりを迎える。
救世主がいなくなり、悪魔の代わりに赤黒い異形が暴れ、美しい聖界は見る影もなくなった。
日に日に滅びに近付く世界で、幼い天使は戦いを続ける。
ただし、それは希望を抱いていた訳ではない。
『大好きな仲間が苦しんでいる。苦しめた奴らに屈するなんて嫌だ。……最後まで嫌だって言ったままの自分でいた』
聖天使にあるまじき、シンプルな感情。
実のところロリルティニアを支えていたのは、神への畏敬でも慈悲でも正義の心でも愛でもなく、単なる反骨真だった。
だから、聖界に化物が侵入したとして、自らに戦う力がないとしても。
逃げるなんて選択肢は初めからなかったのだ。
◆
モモさんから生えていた異形が地を這いずる。
だんだん肉の量が増え、独立した一個の化け物として、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
その姿に僕は若干の恐怖と困惑を覚えた。僕は振り返らず、化物を警戒したままロリルティニアさんに問いかける。
「ねえ、アレは、何者?」
「悪魔、だと思います」
彼女はそう答えたが、少なくとも僕はアレを知らない。
作中に登場する悪魔は、コミカルで可愛らしいタイプか、女の子モンスター。あんな見るからに醜悪な存在はいなかった。
「思う?」
「救世主さまがこの地を去り、空が陰った頃から、既存の悪魔と入れ替わるように赤黒い異形が現れました。なので、新種の悪魔と、私たちは見做しているのです。……天使に寄生するタイプも、これまでいませんでした」
つまり、“聖界に侵攻してくるからおそらく悪魔なんだろう”程度の予測である。
でも彼女も確信までは持てていないようだ。もちろん悪魔の可能性はあるし、同じくらいまったく違う可能性もある。
だけど僕には、アレが悪魔だとはとても思えなかった。
「二人とも、逃げるのです。アレが完全に動けるようになる前に」
「な、なに言ってんの? ロっちゃんも逃げるよっ」
自分より小さな女の子が戦おうとしていることにリサは驚き、無理矢理引っ張っていこうとする。
けれどその手をするりと躱し、ロリルティニアさんは曖昧な微笑みを見せた。
「この身は神に仕えし、最高位の聖天使。聖界の敵のを前にして、退くなどありえないのですよ」
掲げた決意を尊いと思う。
でも無謀だ。だって、ロリルティニアさんは容姿こそ最高峰の美麗さだけど、その力量は三柱の聖天使の中で最も低い。
そもそも叡智属性はサポートタイプだから、攻撃手段を持っていない。
更に言えば彼女は、全体バフ持ちにも拘らず速度が低いので、開幕一発目にパーティーを強化することができない。
能力とステータスのかみ合わせが悪い、戦術に組み込みにくいバッファーなのだ。
「……正直言えば、使命感だけでもありません。多くの仲間が、災厄のせいで消えた。ここで引くのは、失われた命への冒涜なのです。アレを前に逃げるのなんて嫌なんですよ私は!」
本当は僕も逃げたい。僕一人ならともかく、リサがいるのだから無謀な勇気より見っとも無い安全を選びたかった。
だけど、自らの命を危険にさらすとしても退いてはいけないのだと、覚悟を胸に幼い天使が語る。
なら、僕だって意地を張らなきゃいけない。
「っ⁉」
赤黒い異形が四つん這いになり、ついに動き始めた。
形状は四肢を持った人型だが、その疾走は獣が近い。地面を蹴り、一直線にロリルティニアさんを狙う。
僕は腰を落とし、滑らせるように右足で踏み込み、突進する異形の顔面に肘打ちをぶち込む。
カウンター気味に決まったのに、よろめく程度。ダメ押しの突き蹴りで無理矢理に距離をつくる。
あまり吹き飛んでくれなかった。数歩下がっただけで、異形はすぐに反撃を繰り出す。
一応四肢は持っているが武術を嗜んでいる動きではない。単に力任せに腕を振り回すだけ。
空気を抉る嫌な音がした。雑なのに速く力強い。
僕は避けるというより地面に転がって腕をやり過ごし、左手を軸に体を回して下段蹴りに繋げて化物の足を刈る。
狙い通り、相手の足首を的確にとらえた。
「……くそっ」
なのに、少し体勢を崩した程度だ。
ミスったわけじゃない。単に、転倒させるにはパワーが足りなかった。
逆にこちらが隙を晒し、異形は覆いかぶさるように僕に襲いかかる。
「させない、っての!」
割り込んだのは、リサの上段廻し蹴りだ。
地面を離れたタイミングで頭部にクリーンヒットし、踏ん張れないからそのまま落ちて地面に伏した
彼女の持ち味は軽やかな身のこなしと、途中で軌道を変える多種多様な蹴り。
道場時代、強くなりたいけど筋トレして肩幅が広くなるのはイヤ。だから腕力を鍛えるより強い足技を磨くと言った彼女の鍛錬の成果だ。
でも特に理由はないけどスカートで上段廻し蹴りは思春期にダメージを与えます。紫。紐。
「キョウくん、鈍ってんじゃない?」
「あはは、ごめん。かもしんない」
その間に距離をとって体勢を整える。
そんな僕たちを、たぶんロリルティニアさんは驚いたのだろう。背後から、ちょっと震えた声が届いた。
「ふ、二人とも、つ、強い、ですね?」
「中学の頃、総合格闘技の道場に通ってたんだよね、僕たち」
「アタシは道場変えたけど今もやってる。……まあ? キョウくんは? 勝手に格闘技自体を辞めちゃったけどねぇ?」
いけない、リサがすっごく不満顔です。
「ロリルティニアさん。僕ら、けっこう動けるタイプだと思うんだ。だからね、逆の方がよくないかな」
「逆、ですか」
「そう」
救世主は聖天使を指揮して、悪魔に立ち向かった。
でも、今はサポート役の彼女しかいない。
「僕に前衛にやらせて。補助とか、専門なんだよね? なら、そっちをお願いできないかな」
「ですがっ」
「ごめんだけど言い争いの時間もないし、頼んだよ。やらなくても僕は突っ込むけどね!」
異形が起き上がる。
それと、同時に全力疾走から右拳で殴りかかる。手応えはちゃんとある。
反撃が来ると分かっているから、腕の軌道を予測してバックステップ。
効いていない、わけではないのだ。顎や顔面などに的確に入れれば、ちゃんと揺らぐ。
ただ、体を構成しているものが筋肉じゃない。ゴムのような弾力のある肉、これを貫くほどの腕力が僕にはない。
「私は、嫌な女なのです。今、キョウイチさんに嫉妬しています」
え、なんで?
僕くんけっこう頑張ってると思うんだけど。
「それでも話し合いは、後に。今は、あなたたちを頼り、あなたたちを守るのが私の役目」
彼女の声に決意が宿る。
同時に、光が溢れ出す。ロリルティニアさんを中心に、煌めく粒子が風に乗って辺りを包む。
赤黒い異形の攻めは次第に苛烈になっていく。
肉の性能で劣る僕ではこの拮抗を長くは維持できない。一度でも捕まれば捕まればその瞬間に終わりだ。
隙間を縫うような打撃はダメージを与えるためではなく、相手のリズムを崩すため。
踏み込み、軸をずらし、攻撃を受け流し、至近距離で逃げ回る。
そして、耐えに耐えて、ついにその瞬間がやってきた。
「輝ける叡智の光よ、我が友に宿れ……<聖なる加護>」
僕はそれを知っている。
傷を癒し、全ての能力を高める輝きの聖天使の秘奥術技。
光に包まれた僕は、
これなら、いける。
腰を落とし、引いた左足で地面を蹴り、骨を砕くような廻し肘打ち。
自分でも驚くような速さと膂力。ゴムの肉が引き千切れるような感触が肘を通して伝わった。
正直、予想以上の強化だ。まさか肘打ちで体の一部が吹き飛ぶとは思わなかった。
でも、僕の方がミスをしてしまった。
「ヤバい……打点が、ズレた」
一気に身体能力が高まったせいで、踏み込んだ際に体が流れ、狙った通りの場所に打ち込めなかった。
それに踏み込みも深すぎる。向上した速度に追いつけず、腰の回転から産まれる力を上半身に乗せられていない。
全身の連動性の不一致。今のは単に力が強かっただけで、自分自身のカラダを制御できていなかった。
「ならっ、はずしようのない一撃でっ」
僕は身体能力に任せて異形に飛び掛かる。
頭部を掴み、勢いを殺さないまま右足を引きよせ、膝で顎を打ち貫く。
抱え込み式のシャイニング・ウィザード。僕が好んで使う閃光の魔術だ。
赤黒い異形の頭蓋は比喩でなくひしゃげ、至近距離で爆弾が爆発したかのように破裂した。飛び散る脳や骨が見えた。スライムみたいな生物かと思えば、ちゃんとした肉体を持っていたらしい。
手を放して着地した僕は予断なく倒れ込んだ化物を睨み付ける。
天使に寄生していたヤツだ、なにが起こるかは分からない。
しばらく警戒していたけれど、ピクリとも動かない。
「……おっけー、かな?」
ようやく僕は構えを解き、肺に溜まった熱を吐き出す。
僕は絡まれやすいイジメられっ子系だから、不良っぽい男子生徒はよく踏み躙っているけど、さすがに化物相手の殴り合いは初めてだ。
それでも、ロリルティニアさんの補助のおかげで、どうにかぶちのめすことができた。
ひしゃげる頭蓋や飛び散る脳なんて、僕のお母さんのことを思い出して懐かしくなったくらいだ。
「やっ、たああああああ!」
全身で歓喜を表現してリサが僕に飛び付く。
細いのに柔らかくてたぶん女の子って何か特殊能力を身に付けてると思う。
一応思春期ボーイなんで、気を遣ってくれると嬉しいです。
「キョウくん、無事!? 怪我してない!? あとバトルが猟奇的じゃん!?」
「あはは、大丈夫だよ。ありがと……猟奇的?」
「よかったぁ、もう心配させんなよー、ばーか」
「それはごめんね。で、猟奇的ってなに?」
響きがよろしくない。
まあ誰かを殴って褒められるのもアレだし、別にいいけどさ。
遅れて、ロリルティニアさんも僕の方に来て、静かな微笑みを向けてくれた。
「あり、ありがとう、ございます。すごい、です。……キョウイチさん。あなたのおかげで聖界に侵入した災厄を、倒すことができました」
感謝と喜びは間違いないのだけど、少し寂しさが混じるような複雑な表情だ。
「ロリルティニアさんのおかけだよ。僕だけじゃ、アレの肉を貫けなかった」
「そう言ってもらえると、救われるのです」
「って、そう言えば、モモさん? だっけ。あの天使さん、怪我とかないかな?」
「あ、そうでしたっ⁉」
マジ忘れしてたようです。
ロリルティニアさんは慌ててモモさんの方にぱたぱた飛び寄り、体の各部を確認していく。
見た感じ、汗をかいているのに顔色がかなり悪い。
「傷はなし、内臓や骨の異常も。ですが、かなり衰弱しているのです。肉体的にもそうですが、
「こうか? あ、いや、なんとか、なりそう?」
「ええ。治癒ならば、私の得意なのです」
彼女が手をかざすと、光がモモさんを包む。
傷だけでも体力を戻すこともできるのか、だんだんと頬に赤みが差してくる。
光が消える頃には、ただ眠っているだけに見えるレベルにまで回復していた。
「ふぉう……失われた光華を補いました。あとは安静にして、起きてからしっかり食べて、体調を戻していけば問題ないはずなのです」
「それならよかったや。なら」
言葉を続けようとしたけれど、空気を裂く音と近付く熱気に、僕は咄嗟に動いた。
ロリルティニアさんを抱えるようにその場を飛びのく。なんか「ひうっ⁉」とか変な悲鳴を上げてたけど、後で謝るから許してください。
熱気の原因は剣たった。
深紅の柄と、簡素な銀の装飾をあしらった両刃の剣が飛来し、横たわる異形を串刺しにした。
瞬間、死骸が燃え上がる。
見る見るうちに火勢を増して、眩い炎が一気に赤黒い異形を消し炭どころか完全に消し去って見せた。
僕は空を睨み付け……でも、気勢は一気に削がれた。
そこにいたのは僕もよく知る人物……聖天使物? だったのだから。
「ロリルっ! 無事だったー!?」
「ぐほぅ……⁉」
薄汚れた空から赤い流星が、ロリルティニアさん目がけて舞い降りる。
っていうかほぼタックルだし、今のロリルちゃん美少女がしちゃいけない顔をしてた。
「よかったよー、心配したよー! 変態悪魔ぐじゅるぐじゅるに、ぐじゅるぐじゅるされたんじゃないかと!」
「ぐ、グラー、ヴィア、さん? できれば、もう少し、優しい抱擁が嬉しい、のです」
深紅のロングポニーテールと褐色の日焼け肌が眩しい彼女こそが、豊穣の聖天使グラーヴィア。
最高位の聖天使の一柱なのである。
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