第2話

里絵は結婚する前は英語の教師だったから、地元の学生たちのために自宅に自習室を設えて、そこで英語を教えていた。無償で。

彼女自身、学費で苦労して育ったから、塾に行ける子供をうらやましく思ったこともあったはずだったから、いつかの小さい彼女に報いるつもりがあったのかもしれない。

彼女はこどもたちと、ときどき庭の桜の下で小さなピクニックを開いた。

自習室は一階の玄関の近くの、庭の桜を望む窓辺だった。

街の人は彼女を「あの桜のところの」と呼ぶのともあった。


子供たちに慕われていた彼女は亡くなった。


彼女の夫は引っ越すことにしたそうだ。


タイミングが良いのか悪いのか、この一帯は再開発で買い取られることになったらしい。


そして、再開発を担うゼネコンが、里絵の話をどこからか聞いたのか、桜の木を残そうという話を持ち上げた。たまたま桜のあるあたりは中庭になる予定だったのだそうだ。なにより、ゼネコンのトップに近い人が自身も苦労して育ったために、その話に胸を打たれたのだとか。

そう、

人道的な彼女をたたえて、子供に好かれた優しい彼女を偲んで、桜は残したいとのこと。

再開発で作られるショッピングモールのホームページには、街のかつての様子として、彼女のごく小さな功績も載せたいとのこと。桜の木の写真とともに。


話を聞いたとき、それで誰かが理恵のことを新たに知ってくれるのならいいなと、思った。彼女はもういないからこそ。この件について、彼女の夫は私にすべてを委ねたので、その権利を使って桜を残そうと思っている。


そうして物思いに沈んでいると、チャイムが鳴った。


ゼネコンの担当者が来た。


Web記事の参考にしたいから生前の彼女について教えてほしいらしい。

私は桜の木のことを中心に彼女の思い出を語る。

桜の写真を撮った話、桜の押し花を作った話、桜のプリザーブドフラワーを作った話などを。


ゼネコンの担当者は聞き終わった後、私に言う。桜を愛でる感性豊かな方だったのですね、と。私は曖昧に頷いた。


担当者の帰ったリビングで桜を見ながら、本当に里絵は、桜を愛でる感性豊かな方、だったのかを考える。聞いたときに胸の奥に違和感があって。彼女が?高校生以来の仲である私が知っている彼女は、正直なところ、花より団子というふうだった。学生時代、訪れた彼女の部屋に花が飾ってあったことなどあっただろうか。ないだろう…。なぜ飾るように?何かを思い出しそうで思い出せない。


その次の日、彼女の夫と話したときに、なんで彼女は桜をかざったのでしょうねと聞いた。彼女の夫は言った。


私が桜を好んだからだと思いますよ。歩み寄ろうとした気持ちだったのは、桜が飾られた日はたいてい、夕飯に私の好物が多かったことや家の掃除がいつもより行き届いていたことからもわかります。仲直りというか、彼女自身の贖罪の気持ちなんじゃないですか。私という夫がありながらあなたと関係を持っていた、罪悪感を晴らすための。

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