随筆 牡蠣まずいやろ。

樋口ビリヤニ

第1話

表題の通りである。

牡蠣はすこぶる不味い。

この駄文を書くために一寸、味の想像をしてみただけでも気分が悪くなった。

私は魚介、特に貝類を食すにおいて第一に期待しているのは香りと食感である。サザエやムール貝を口にした時のあの強烈な磯臭さは酌を加速させる魅力的なものであるし、ツブガイや赤貝などは熱を通しても失われぬコリコリとした食感が咀嚼の楽しさ際立たせている。

一方、牡蠣の場合はどうだろうか。

あの噛み締めた瞬間に広がる海潮のごとき臭みは、本来酌の助太刀をする“磯臭さ”の度を越しており、一瞬にして口内を瀬戸の岩場へと変貌させる。また、牛脂のようなヌメヌメとした食感は繊細な私の嘔吐反射を刺激し即座に吐き戻したくなる。目を瞑って水で以てようやく嚥下させることができるほどだ。

ただ、牡蠣にはグリコーゲンやグリシンなど旨味成分がふんだんに含まれており“うまい”ことは認めなければならない。断っておくが、ここで言う“うまい”とは“美味しい”という表現とは別物である。牡蠣を煮詰めれば中華には欠かせぬオイスターソースができるし、醤油にエキスをぶちこんでも非常に深い味わいとなって重宝する。

しかし、マルの牡蠣はそのふんだんに含まれた旨味ゆえに平坦な味わいとなっている。味の素や鶏がらスープを投入しまくって料理した時に感じる立体感のなさを想像していただきたい。つまり牡蠣はラーメン二郎やスタミナ丼と同じうま味のみにシフトされたいわゆる“バカ味”なのである。

牡蠣を食すときにタバスコをかける奴らがいるがこれが理由だ。平坦な“バカ味”故に塩や醤油では物足りないのである。

「牡蠣にタバスコ」で一寸思い出したのであるが、東京に住んでいた時分に一度だけ銀座へ飲みに連れ出してもらった事がある。明日の腹を満たすための御銭すら懐に蓄えていなかった私が銀座へ繰り出すことは、何か神仏を冒涜するかのような背徳の想いがあったが、連れ出してくれた方々は私よりも年上で外資企業の社員であった為、遠慮することこそ失礼に当たるのではないかと開き直り、いつもは安い工業油のようなウイスキーを炭酸水で割ったものを流し込んでいる私も、ここぞとばかりにワインなどを燻らせしこたま飲み食いし恐ろしく酩酊した。

さて、その時に3件ほど酒場を回ったがいずれも牡蠣のメニューがあったのである。そういえば、銀座の街は牡蠣小屋やオイスターバーなど(両者は同じか?)1ブロックに2,3件ほど乱立する牡蠣の激戦区なのであった。

つまり、牡蠣とは庶民がおいそれと口にできるものではない嗜好品なのである。(尤も私にとっては嗜好でもなんでもないのだが。)

この光景を目にして以降私は、牡蠣に対して肉寿司やあん肝などと同列の“成金が好む下品な食”とのイメージを強く抱いている。


閑話休題、牡蠣に対しての慊りない点であるがもう一点、最大の欠点について言及しなければならない。

牡蠣は、食えば高確率でノロウイルスに罹患することである。

生はさておき、焼きや蒸し、さらにはフライなどにして熱を通しても当たる可能性があるというのが恐ろしい。

しかもノロウイルスはちょっとした食あたりで済ませぬほどの激しい症状を伴う。

私は食あたりの類に些か狂的とも言えるほどに恐怖感を抱いている。

きっかけは小学校3年生の時分に、ひどい食中毒に罹患し激しい嘔吐と下痢に襲われ、食べたものはすぐに吐き戻し、うまく胃におさめられたとしても汚水となって排出される糞筒の様相を呈してしまったことだ。当時はまさに人の形をした便器であった。

以後、手を念入りに洗っても手指より細菌に犯される恐怖を拭う事ができずポテチ類の菓子は箸を使って食していたし、食材に対する火の通りはしつこいほどに確認するようになった。

現在ではそれほどまでの潔癖が露呈することは無くなったが、リスクのある食材はできるだけ避けている。

つまり牡蠣のようなウイルス漬けのリスクに塗れた爆弾を胃に納めることは、私にとって人間らしからぬ行為であるのだ。


さて、いつの間にか私の食に対するリスク管理は、一種の宗教じみた神聖を伴い、牡蠣を好んで食する人々に対して憎悪とも嘲りとも取れぬ複雑な念を抱くようになってきた。

世は21世紀である。文明は発達し、万物は人類にとって生きやすく便利なものとなった。向後10年ほどでAIは更なる進化を遂げ、今まで不可能であったことも当たり前の日常へと変貌していくことであろう。

そんな科学の日進月歩の世で、どうして自ら大して美味くもない牡蠣を口にし、胃と腸を冒され糞筒に成り下がってしまう人間が後をたたないのか。非文明的この上ない。


たとえ今後食糧難に陥り、地上は荒廃して一切の食物や家畜の育たない世になり、牡蠣のみが人類が生き延びる生命線になったとしても、私は文明人の尊厳を守るために餓死を選ぶだろう。

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