花が咲けば、葉が落ちる

うつそら

花が咲けば、葉が落ちる

 八月下旬の夏が終わる頃。

 と言っても、まだ体を蒸し焼きにするような暑さは十分残っているし、世間は今の時期を夏だと呼んでいる。けれども、取り換える部品もない古びたラジオのような頭を持つ僕は、未だにこの季節を秋だと口にしている。

 そんな秋口のある日、僕、竹中たけなか直人なおとに人生で初めての彼女ができた。

 相手は、散歩をする時に立ち寄る公園でよく会う三島みしまソラさん。最初の頃は何の接点もない文字通りの見知らぬ人だったが、散歩をする度に会うので挨拶から始まり、最近は二人で話し込むようにもなった。

 いわゆる告白というやつをしてきたのは彼女だった。

 それを伝えられた後に僕から言えばよかったと後悔もしたが、そんな思考は晴れ間の見える俄雨にわかあめのようなもので、密かにソラさんに好意を寄せていた僕の心は泥酔したような浮遊感と、未来への希望なんていう曖昧なものが作り出した充足感で満ちていた。

『付き合うにあたって、ちょっとお願いがあるんですけど』

 恋は盲目の権化となったことに気付かない僕は、浮ついた気持ちのまま明らかに弾んだ声音で『はい!』と応えていた。

『あのー……一緒に、住みたいなぁって』

 彼女は少しばかり上目遣いになって、照れ隠しなのか愛らしくはにかんでいた。そっと吹いた風が、彼女の肩下まである長い髪とふわりとした前髪をなびかせた。それが僕には余りにも綺麗に見えて、正常な判断能力を狂わせた。

 何の短慮も入れず、僕は言葉の外で考えて『わかりました!』と口に出していた。

 それを聞いた彼女は『ありがとうございます』と言いながらぺこりと小さく頭を下げた後、続けて『それから』と口にした。僕は次の言葉を急かすように、大人しく期待の眼差しを彼女に向けながら待っていた。

『それから、私が飼ってる猫も一緒にいいですか?』

 まあどんなお願いをされようとあの時の僕には答えが出ていて、耳で聞いた音を言葉にする前に『もちろんです!』と口にする機械人形にでもなっていた。

 そんな確実に人生のアルバムに記録されるような一日を回顧しながら、一人布団の上で幸福感を溜めた風呂に浸かっていた。家に帰ってからずっと表情が崩れていて、仕事、テレビ、夕飯作り、読書、何一つにも集中できなかった。意識は風に飛ばされてしまいそうなのに、目だけは妙に冴えていた。

 せっかく買った新品のCDプレイヤーで同じ曲ばかり再生するようにして、窓から覗く空が色を変えるのを待っていた。


 翌日、寝不足を抱えたままの僕は朝からソラさんの家を訪れていた。

 不思議な話だが、既に諸々の手続きは済ませているらしく、あといくつかの手続きを済ませれば完了だと言っていた。まるで僕が告白を快諾するのがわかっていたようで、少し気恥ずかしい。

 マンションのエントランスに置かれた操作パネルに三○四と打ち込んで、ソラさんが出るのを待った。少し経ってから『どうぞ』という声の後に続けてガラスのスライドドアが開いた。

 エレベーター上の表示を見てそれを待つことすら煩わしく思えて、すぐに階段へと足を進めた。たった三階なので造作もない。

 彼女の部屋の前に着いてインターホンを押すと、中からドタドタと慌ただしい足音が近づいてきて玄関扉の前でピタリと止まった。続けざまにガチャと開錠音が聞こえて、重々い扉が開いた。

「こんにちは」

 笑顔で僕を迎え入れたソラさんは部屋着姿だった。昨今の秋口らしく薄手のTシャツ一枚に、太腿が隠れる程度の緩いショートパンツという涼し気な格好をしていた。公園で会うときのロングスカート姿を見慣れていたからか、随分と違った印象を受ける。どちらにしろ可愛い。

「こんにちは」と返してから暫しの沈黙を挟んで、ソラさんに手招きされて家の中に入る。

 通されたリビングは一人暮らしには少し広すぎるくらいだったが、引っ越し準備中のそこは少し狭く感じた。端々に置かれた段ボールやら半透明の袋以外は、物が少ないこともあってか綺麗に整頓されていた。

「適当に座っておいてください」

 キッチンの方へ向かいながらそう言ったソラさんに従って、テーブルがある少し開けた場所に胡坐をかいて座った。

 彼女が冷蔵庫を開閉する音を聞きながら待っていると、組んだ足の上に確かな温度を孕んだ何かが乗る感触がして、思わず「わっ!」と声を出して驚いてしまった。

 キッチンの方へ向けていた視線を足元に落とすと、キジ白模様の猫が黒い眼で僕の顔をじっと見ていた。温かみを感じる整えられた綺麗な灰色の毛並みに、汚れ一つない白い腹、さらには磨き上げた丸い宝石をはめ込んだような瞳。最適なパーツだけを組み合わせた作り物かのように可愛らしい猫だった。

「イチョウちゃん、可愛いですね。中学生ぐらいから飼ってるって言ってましたけど」

 弾んだ声でキッチンの方に声をかけると、丁度ソラさんが戻ってくるところだった。公園で話す時に何度か名前が出て来たのを覚えていたが、名前以外のことは初めて知る。

「そういえば、そんなこと言いましたね。その子、下校中に私が拾って来たんですよ。お姉ちゃんも両親も猫好きだったし、一軒家だったのでそのままウチの猫にしたんです。本当、猫好きで助かりました。その頃からずっと私の家族です」

 机の上に麦茶を注いだガラスコップを置きながら、ソラさんは心底嬉しそうに温かみのある声でそう語った。

 いつもはイチョウが可愛いとかこんな悪戯をしたとか、そのぐらいのことしか口にしてくれないので関係性は初めて知った。

「じゃあ、僕もイチョウちゃんに認めてもらえるように頑張らないとですね」

「それならたぶんもう大丈夫かな。この子、人見知りだから」

 最初の行動からとても人見知りの猫とは思えなかったので、その言葉に驚いて足の上に乗っているイチョウと彼女を交互に見た。

「本当に人見知りなんですか?」

「凄く。インターホンが鳴った時とか、すぐに走って押し入れの中に隠れちゃいますし」

「僕が来た時もそうだったんですか?」

「いえ、その時は大人しく床で丸くなってましたよ。野生の勘?ってやつですかね。不思議ですよね」

 ソラさんはそう言いながら僕の足の上に座っているイチョウを抱き寄せて、正座をした膝の上に乗せた。イチョウもやはりそこが一番居心地のいい場所らしく、そこで丸くなって眠り始めた。

 机の上に置かれたガラスコップの一つに手を伸ばして、麦茶を一口飲ん元の位置にで置き直したところでソラさんがイチョウを撫でながら話しかけて来た。

「あの、お願いしている身でこういうことを言うのは的外れというか、違うかなと思うんですけど、なんで一緒に住むってこと了承してくれたんですか?」

 言われて瞬間、脳内で事実を言うべきか否かの葛藤が始まった。

 これで典型的な恋の病に罹っていたと言うのは変な奴に見えるかもしれないし、下手にクールなふりをしても下手過ぎて演技にならない。小学校の学芸会では常に一言しか台詞のない役をやってきた。というよりやらされてきた。

 考えても結論は同じな気がして、ソラさんから目線を反らして頬が赤らむのを必死に抑えながら中途半端になっていた唇を動かした。

「恥ずかしながら、三島さんと付き合えることで浮かれていて何も考えずに言っちゃったんですよね」

「それじゃあ、昨日の話はナシってことですか?」

「あっ!いやっ!一緒に住む話自体は全く問題ないので大丈夫です!……すみません、いきなり大きい声出して……」

 バッとソラさんの方を向いて出した声が自分の想像の上をいったことに僕も彼女も寝ていたイチョウも驚いてしまい、慌てて委縮しながら謝った。僕がイチョウに向けてぺこりと小さく頭を下げると、また丸くなって眠ってしまった。

「謝らなくていいですよ。私は全然気にしてませんし、イチョウも少し驚いちゃっただけみたいですから」

「嫌われないといいんですけど」

「それなら大丈夫だと思います。昔、友達とウチでお泊り会をして友達が酔いつぶれちゃった時も一緒に寝てましたし。その子、そのとき結構寝相が悪かったんですけど、イチョウは何食わぬ顔で移動しながらずっと添い寝してました。だから大丈夫です」

 イチョウに嫌われたと思った時は、自分でも驚くほど言葉にできない淀んだ色の泥のような不安が胸中で渦巻いていた。それがソラさんの一言で一気に払拭された感じだ。

 安堵して両手を後ろに着いて「よかったー」と口にすると、彼女は「そんなにですか?」と少し微笑んだ声で訊いてきた。

「そりゃあ安心しますよ。イチョウちゃんに認めてもらわなくちゃ、三島さんと一緒に住めなくなるかもしれないですし」

 そこで何か反応が返ってくるかと思ったが、ソラさんは天井を一度仰いで僕の方に向き直った。不思議の色を宿した眼差しで彼女を観察していた僕は、しっかりと視線が合ってしまい気恥ずかしくなった。

「あの、気付かなかったんですけど、私のこと苗字で呼んでるんですか?」

「三島さんも僕のこと『竹中さん』って呼ぶので、てっきり苗字で呼び合うものかと……」

 音に乗せないところでは下の名前にさん付けで呼んでいることは伏せておいた。

 昔から心の中で呼んでいる名前と声に出して呼ぶときの名前が違ったので、その癖が残っているというだけの話だ。ソラさんを名前で呼ぶのはまだ恥ずかしいという理由もある。

「あー……そういえばそうでしたね。じゃあ、これからは名前で呼び合いましょう」

「いきなりはちょっと……」

 じっと見てくるソラさんの両目に耐えきれず僕は静かに視線を逸らした。すると「恥ずかしいんですか?」と珍しく悪戯好きな少女のような声音で楽しそうに訊いてきた。ちらりと横目で見ると、少し体を前のめりにしてニヤニヤと笑みを浮かべていた。彼女の新たな一面を知れて意外に思う半面、彼女のことが知れて嬉しかった。

「私は呼べますよ、直人さん」

 小学校は大体みんな下の名前で呼び合っていたから数えないとして、中学、高校の頃の男友達以外に名前で呼ばれるのは初めてだった。嬉しい五割、恥ずかしい四割、残りの一割は言葉に言い表すと擬音隊のパレードになるような感情ばかりだ。

 顔が火照っているのを感じながら彼女を見ると、案の定、悪戯が成功した子どもが見せるような満面の笑みを浮かべていた。心なしか頬が赤らんでいるようにも見えた。

「照れてます?」

「直人さんほどじゃないですよ」

 また名前で呼ばれて、顔が一層熱くなった気がする。秋の日の冷房が効いた室内にいるはずなのに、冷房が敗北宣言をするほどの真夏日のように感じる。

 熱い頬を意識の外に追いやって、小悪魔的な声音で「大丈夫ですか?」と訊いてくるソラさんの目を真っ直ぐに見た。

「……だっ、大丈夫ですよ。ソラ……」

 僕も慣れない呼び方でそう言うと、ソラさんは多分僕以上に顔を赤らめて目線を逸らしてしまった。初めての名前呼びに不意打ちも相まって、想像していた以上に効果抜群だったようだ。

 しかしそれを言った僕が払った代償も大きかったらしく、何かの病気に罹って熱があると錯覚するほどに顔が熱い。実際、恋の病という難病に罹っているので仕方がない。

 赤面している二人の間に、微妙な時間と空気を纏った沈黙が滞留した。

「今度からは『さん』付けでお願いします……」

 やっと動き出した時間に流されてしまいそうなか細い声でソラさんはそう言った。僕ももう限界だったので「了解です……」とかしこまった返事を返した。


 暑さが完全に冷えきれない水のように残っている九月の下旬。

 僕とソラさんは人生で初めてのデートに行こうとしていた。ソラさんも初めてだと思ったのは、交際するのが初めてだと言っていたからだ。ちなみに僕は自分のことを伏せている。

「どの服がいいですかね?」

「どれでも可愛いと思いますよ」

 既に着替え終わってリビングの椅子に座っている僕の前で、ソラさんは洋服店の試着室を忙しなく出入りするように寝室とリビングを行き来している。その度に服装と装飾類が変わっている。その動きにてとてと付いていくイチョウも相まって非常に可愛らしい。

 今は明るいベージュ色のロングスカートに、無地の薄花うすはな色のTシャツ。その上に白い緩めのTシャツを羽織っている。耳元には銀色のイヤーリングが光っている。黒い長髪に白系統の服は似合うな、と心の中で一人呟く。

「真面目に考えてください」

 慌ただしい様子を温かい目で見守っていると、ソラさんがムスッとした顔でそう言った。それでも僕はその視線を変えずに「どれもいいと思いますよ」と呑気なことを言った。

「じゃあこれにしちゃいます」

 あっ、と僕が気付いた時には既に遅く、不貞腐れた様子で言い放ったソラさんはさっさと他の服を片付けて、小ぶりな黒いミニリュックを背負い帽子を被ってしまった。少し深く被った防止の鍔から少し不機嫌そうな目が覗いている。飼い主の心情を察したのか、イチョウまでそんな目をしていた。

「あの、ごめんなさい。訊かれてたのに適当に流しちゃって」

 ソラさんに対する申し訳なさと自分の態度に対する後悔から、少し俯いて謝った。

 その言葉を聞いた彼女は少しだけ考える素振りを見せてから「ぬいぐるみ、買ってもらいますからね」と言ってニシシッと笑った。この一月で本当によく笑うようになったなと思う。

 玄関に二人で向かい各々靴を履く。彼女が玄関扉の取手を触れたところで、何かを思い出したように振り返った。

「唐突なんですけど、水族館から帰る前に少しいいですか?」

 質問の意図がわからず疑問に思って首を傾げたが、断る理由もないので「いいですけど」と快諾した。どちらにしろ一緒に帰るのだから、わざわざ訊く必要はないはずだ。

「じゃあ行きますか」

 彼女は半身を玄関の外に出しながら僕の手を引いて、そう言いながら微笑んだ。

 先程の質問に考えを巡らせていた僕はそこで不意にあっ、と気付き、毛細血管を含めた全身のありとあらゆる血管が収縮して体の中がふっと軽くなる思いをした。

 訊いてしまおうとも思ったが、含む言葉の一つが怖くてぐっと飲み込んだ。


 僕らが向かう先は県内の水族館だ。全国的にかなり有名な水族館で休日は絶句するほどの混雑が容易に想像できたので、偶然二人とも予定が開いていた平日の今日に行くことにした。

 提案してきたのはソラさんで、デートに行きたいと心では思っているものの場所を決められずにいた僕はそれに便乗したという形だ。結果的に二人とも満足できそうなのでいい選択をしたと思っている。

「昔から好きなんでしたっけ?」

 チケット売り場前の列に並んでいる最中、少し手持ち無沙汰に思えてソラさんに訊いた。僕の左手をぎゅっと握っている彼女は僕の方に顔を向けて「はい」と応えて、それから楽しそうに続けた。

「いつかは忘れたんですけど、小さい頃に海の生き物特集みたいなテレビ番組を見て、水族館に行くようになったんです。来てみたら凄い神秘的で、綺麗で、ああ生きてるんだなぁって思って、一時期は将来の夢にしちゃうぐらいでしたね」

「なんでやめちゃったんですか?」

 ふと「やめた」も「諦める」も相応しくないと思い言葉を探したが、結局見つからずに「やめた」を選んだ。彼女の雰囲気からそれが一番似合うとも思った。

「んー……なんと言うか、誰かの命を握っているっていう事実に耐えられなくなっちゃったんです。生き物である以上は死んじゃうってことで、その時に私が育ててた子たちはどうなるんだろうって思って。水族館の生き物だから私が抜けた穴は遅かれ早かれ誰かが埋めてくれるだろうし、私がいなくてもその子たちはお構いなしだってわかってはいるんですけど、何となく怖くて」

 俯き気味になったソラさんは静かに語り、僕は彼女の横顔を見ながら静かに聞く。僕自身似たようなことを思ったことがあるので、当事者の彼女の苦悩を想像して心の中で俯いた。

「なら、イチョウちゃんは」まで言ったところで言い淀んだ。ただの質問が彼女を責めているような言葉にも聞こえて少し気が引けた。けれど彼女は唸りながら逡巡して、針を机上に無音で置くかのように慎重に喋り出した。

「イチョウは特別なんです。仮に私が死んで幽霊になったとしても、最後まで見守っていられる気がするので。だから、あの子だけは特別なんです」

 ソラさんはそう言ってはにかむと「列進んでますよ」と僕に教えた。バッグから財布を取り出した辺りで訊いちゃいけないことを訊いたなと、思った。


 全ての水槽を見終える頃には午後になっていた。

 途中で昼食もとったし、休憩も随時とっていたので足の疲れはあまり感じていない。その代わりに館内の明暗の変化で目が疲れた。僕もソラさんも先程から目を瞬かせている。

 近くの二人掛けの椅子を身振りと「座りますか」の一言で彼女に勧めて一緒に腰かけた。

「ちょっと目が疲れましたね」

 ソラさんは子どものように両目をごしごしと手で擦りながら、何度も瞬きをしている。

 傍から見ればメイクが崩れてしまいそうな仕草だが、ソラさん曰く殆どメイクはしないから問題ないらしい。言われて気付いたことが、ソラさんの化粧道具は僕の姉が持っているものに比べると異常なほど少ない。

「私も久しぶりに来たので少し疲れました」

 暫しの沈黙が僕らの間に流れた。

 正面に見えるこの水族館で一番大きい水槽の中には、数多と呼んでも遜色ないほど命が光の差す水中を泳いでいた。その様が実に神秘的で、碌に水族館に来たこともない僕は強く惹かれた。ソラさんと同じ感情を抱けたことに舞い上がっているだけかと思いもしたが、この情動は恋一つでは真似できないだろう。

 横目に隣に座る彼女を見遣ると、ぱちぱちと二、三度瞬きをしてから少し俯いて、声にならない言葉を唇で言っていた。

 その様子を見てまた体の至る場所にすっと穴が開いたように感じた僕は、彼女がそのことを口に出す前に話題を変えようと当たり障りのない質問を投げかけた。それこそ、公園で出会ったばかりの頃のような。

「どの水槽が一番好きだったとかって、ありますか?」

 俯き気味だったソラさんは顔を上げて僕の方を見ると、静かに前に向き直った。

「この水槽ですかね。神秘的で、美しくて。色んな命が生きているのを感じられるので」

「水族館が好きになった時に見たのもこの水槽ですか?」

「そうですね。この水槽の中だけでもこれだけの命があって、ここよりもずっと広い海にはもっとたくさんの命があるって想像したら、言葉にするのが難しいですけど感動したんです。それと同時にちょっぴり怖いとも思ったり、でもやっぱり神秘的だったりで、凄く惹かれたんです。周りの子は皆イルカショーとかペンギンショーとかが好きだったんですけど、私はここが一番でしたね。ちょっと変わり者だったなって自分でも思います」

 ソラさんは至って静かに言葉をゆっくり紡ぎ続けた。しかし確かにマグカップ一杯では到底足りない熱が注がれていた。一方で、どこか心ここにあらずといった目をしている。

「感動するのがわかるのは勿論で、ちょっぴり怖かったっていうのも少しわかります。自分に何かが起きても、世界の何も、もしかすると自分の周りの何も変わらないんじゃないかっていうのは」

 人間の価値だったり命の存在価値だったり、そういう哲学的なことを考えない僕でも、視界一杯に広がる水槽の茫漠とした深さを想像すると嫌でも考えてしまう。

 また俯いたソラさんは「ですね」と一言返して一度大きく深呼吸をした。

 僕がまた他愛もない質問を投げかけようとしたが、それを考えている間に彼女がふっきれたように一度飲み込んだ言葉を声にした。

 僕はあの長蛇の列に並んでいる最中に脳裏を強く焦がした、身体がすっと空虚になる感覚と同種のものを感じた。

「あの、今朝言ったことなんですけど」

 膝の上に置いた掌がじっとりと湿っていくような気がした。それと同時に、走馬灯のようにたった一ヵ月の濃密な時間がアルバムを捲るように流れた。恋は実らなければ死ぬだけだと、割れた硝子に映る景色を眺めながら思った。

「あの、イチョウのことなんですけど」

「……え?」

 僕らの恋が息絶える一歩手前だと思っていた僕は、ソラさんの言葉に人生で一番と言っても過言でないほどの応答速度を発揮した。急に回した首が一周したように思う。これが学生時代に使えていて、運動にも使えていたら体育の成績ももっとよかったのかなと、無意味なことを考えた。

「えって、何の話だと思ってたんですか?」

 いつの間にかソラさんも僕の方を向いていて、少し驚いたように目を見開いて不思議そうに首を傾げていた。僕は「てっきり、」まで言いかけて言葉を引っ込めた。至極恥ずかしい。

「いや、なんでもないです。それより、イチョウちゃんのことって」

「えっと、言いにくいし、付き合った頃に言えばよかったんですけど、イチョウ、もうすぐ死んじゃうんですよね」

 荒波に放り出されたように思えた。


 目が覚めると、知らない香りが鼻腔を擽った。

 暖房の稼働音が聞こえ、窓硝子からは夕空なのか朝焼けなのか判別できない空が見えた。もやより不明瞭で、鉛より重苦しい何かが思考も記憶も不鮮明にしていた。まるで上下のわからない海中に放り出されたような、そんな気持ちだ。

 何かを思い出さないように両足に海面に上がれないよう枷をつけている、そんな感じだ。

 ベッドからは下りずに部屋の中を見回すと、開け放たれたクローゼットには見慣れない服が何着も掛かっていた。その他にも買った覚えのないものが置かれている。

 体を寝室から乗り出してリビングを見渡すと、机の上には骨壺らしき箱と遺影が置かれていた。誰の遺影かはよく見えないが、まあ何かを失ったのはわかる。

 その後も何を求めているかも知らずに、何かを求めるように部屋を徘徊した。

 隣にやけに広く空間を開けた自撮り写真を収めた写真立て。お洒落なペアのマグカップ。洗面台の鏡の裏には使ったこともない化粧品。風呂場には見慣れないシャンプーとボディーソープ。さっきの匂いがする。使用済みの水族館のチケット二枚を収めた額。猫を飼っていないのに部屋の隅には小振りなキャットタワーが鎮座している。

 まるで僕の知らないもので僕ができあがっているようだ。

 靴を履いて外へ出ると、冬の冷えきった風が頬と首を切り裂いていった。階段を下りて暫く歩き大通りに出ると、鮮やかな黄色の銀杏いちょうの葉が歩道一面を埋めていた。

 銀杏の散る季節だった。

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花が咲けば、葉が落ちる うつそら @Nekomaru4

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