第65話 穏やかな夜

 美悠紀と健太は病院の最上階にある食堂にいた。窓側のカウンター席にふたり並んで座っている。

「美悠紀さんは行動的で大胆ですね。病院に忍び込むなんて」

 健太が微笑む。元気そうだ。

「・・・否定はしませんけど。本当は全然真逆の性格なんです」

美悠紀が小さな声で返した。

「真逆?」

「私って、小さな頃から引っ込み思案で、人見知りで、主体性のない気弱な子だったんです」

「へえ?」

「あ、信じてません?」

「あの練習試合でのピッチングを見る限り、そうは思えませんね」

 しばらくの間があって、美悠紀がまた話し出す。

「そうなんです。野球が、野球が私を変えたみたいです」

「野球が?」

「野球を始めたのって、自分からやりたいって思ったわけじゃなくて。栞に誘われて何となく始めたんです。栞がキャッチボール硬球でやろうって言うから・・・」

「へえ、そうなんだ」

「そしたら、新しい部を作ろうってやっぱり栞が言い出して、それで理事長に掛け合ったら、男子部に勝たないとだめだって。ずっと引き摺られてやって来たんです」

 健太は静かに頷いた。

「それで野球やり出したら、なんか自分で考えるようになって、それを自分で試してみたり。そのうちに性格が変わってきたというか・・・」

「そっか。野球は美悠紀さんの恩人なんだね。大切なものなんだよ」

「そうなんですかね?」

「少なくとも野球はお父さんとも繋がってた・・・」

「ああ。それを言うならお母さんともです」

「どういうこと?」

「お母さん、高校生の時、父の大ファンだったんです」

「へえ・・・」

「そうですよ。それなら野球で健太さんとも繋がってるんですよ」

「ああ。そうですね・・・」

 夜は更けていく。最上階の食堂は誰が来る気配もない。冷房は入っているし、いい場所を見つけた。

 だが、病室のベッドに青木健太がいないことはあと1時間ほどでバレるだろう。巡回の時間を健太は把握していた。

「明後日の試合、どうするの?」

「函谷関か東海学園だけど、多分勝つのは東海学園でしょうね」

「僕もそう思う」

「でも・・・勝てるんじゃないかしらね」

美悠紀が屈託なく言う。

「強気だね」

「だって、今は部員も補強して誰かが怪我をしても代わりの選手がいます。私には新しい武器が出来たし」

「新しい武器?」

「ナイショです。だって健太さん今でも東海学園野球部員じゃないですか」

美悠紀が笑いながら言った。

「残念でした。男子の方は2回戦で負けちゃったからね。もう退部届を提出したよ」

「そうなんですか・・・」

美悠紀の顔が曇る。こんなに元気そうなのに。お父さんが野球を愛していたことも分かったというのに。

 なんで健太さんは野球を辞めなくちゃならないの? 病気は治らないの? 美悠紀は胸が苦しくなった。

「新しい武器って」

 健太がもう一度美悠紀に尋ねた。

「ツーシーム」

「ツーシーム? 美悠紀さん、そんなの投げられるの?」

 健太が驚いた顔をする。美悠紀にはそれが誇らしい。私のボールに驚いてくれるんだ。

「もう随分前から練習してたんだけど、今日の試合でたった1球だけ試してみたの。成功した」

「美悠紀さんのツーシームはどう変化するんだい?」

「シュートです」

その答えに健太は我が意を得たりとにっこり笑った。

「お父さんの魔球だ」

 美悠紀ははにかみながら小さく頷いた。

「美悠紀さんのカミソリシュート、ああ打ってみたいなあ。打席に立ってみたい」

健太が言う。

「打席に立つぐらいなら、いつでもどうぞ」

 その時声がした。

「誰かいますかあ!?」

警備員の巡回だ。美悠紀と健太は慌てて椅子を降りるとテーブルの下に潜り込んだ。息を殺すふたり。

 懐中電灯の光がテーブルの上をなぞっていく。美悠紀は懸命に健太にしがみついた。

 やがて足音を残して警備員は去って行った。

「行ったみたいだね」

 そう振り向いた健太の顔が近かった。目と目が合うふたり。そして顔が触れあい、唇が触れあった。美悠紀初めてのキスは、それはもう滅多打ちのノックアウトって感じで、戦意喪失せんいそうしつの状態だ。

 長い沈黙が続いた。このまま夜が明けちゃうんじゃないかと思えるくらいに。

 健太は時計を見た。食堂の壁の時計が蛍光塗料でグリーンに光っている。

「そろそろ時間だ。帰った方がいい」

「うん。明日また。今度はちゃんと面会時間に来るから」

美悠紀が言った。

「いや。来なくていい。明日は検査結果を聞いたら僕も退院だし」

「だったら、どこかへ」

「美悠紀さん。今だいじな時でしょ。チームの皆だって心配する。帰りなさい。明日は魔球に磨きを掛けて、明後日の準決勝に備えてください」

 健太の言うことは正しかった。だけど。

「でも・・・」

「でもじゃない。僕は大丈夫だから。駅に行きなさい。駅前から夜行バスが出てる。それに乗れば明日の朝には広島に着くよ。さっき調べたんだから大丈夫。乗れるから。さあ」

 それで美悠紀は病院を抜け出すと駅へ向かう。言われた場所で切符を買った。

 美悠紀の心は満ち足りていた。

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