第54話 遠征試合

「私たちにとって、あの試合は特別なものだった・・・」

 仁藤が静かに話し始めた。時は一気に30年遡る。

 仁藤慧は広島の名門広島赤嶺せきりょう高校のサブキャプテンを勤めていた。

 当時広島赤嶺では夏の甲子園を前に全国行脚の実戦練習が恒例だった。

 大型バスで全国の強豪校と練習試合をこなしていく。広島赤嶺の場合、チームを2つに別けて全国を巡る。仁藤は2年生でB班の代表だった。

 そしてこれは非常に疲弊する。

 毎日どこかの学校と試合をして宿に帰って、翌朝出発する。

 また試合をして宿に帰る。これを繰り返していくのだ。たまにダブルヘッダーということもあった。

 家に戻れるのは週に1度だけだ。2週間から3週間に渡って繰り広げられる他流試合は死の行軍とも呼ばれた。

 しかも当時の宿というのは今風なホテルや旅館とは違う。いわゆる学生向け合宿専用民宿なのだ。

 この行軍で成績を上げた選手を選抜し、最強の広島赤嶺を作る。これが監督たち参謀の目的だった。

 学校も生徒の休みを公認していた。学校を挙げた野球部合宿に他ならない。

 この時B班に青木洋一も同行していた。

「なあ、疲れたなあ・・・こんなことしないと甲子園行けないのかな」

青木洋一が愚痴をこぼした。バスの移動中である。

「おい、鍵山に聞かれるぞ」

 鍵山というのはコーチでB班仁藤たちに同行している。

 鍵山は閻魔帳と呼ばれる手帳に選手たちの状況を記入し、でもかなり恣意的に評価を下し監督に報告していた。

「構うもんか。あんな奴に何が分かる。俺はもううんざりだ」

「だったら帰れよ」

「帰ったら野球が出来なくなる。俺は野球が好きだからな。お前は野球好きなのか?」

「よく分からない。少なくとも小学校の時は好きだったと思う。今は・・・わからん」

 仁藤は青木洋一の質問にそう答えた。実際名門広島赤嶺は周囲からも勝つことを望まれている。学校、いや地域、いや県を挙げて優勝が悲願なのだ。

「俺は誰のために野球をやっているのか、疑問に思う」

「自分のためじゃないのか?」

と仁藤。

 すると青木洋一が答える前に斎田均という補欠キャッチャーが口を挟んだ。

「自分のために決まってっだろ。甲子園へ行けば、学校が自分を評価してくれる。就職するにしても、大学行くにしても便宜を図ってくれる。地域や県がもて囃せば、家族も鼻が高い。それは、とりもなおさず自分のためじゃないか」

 斎田均はそういう理屈を展開した。

「打算的な奴だな」

 そう横槍を入れたのは3年生のファースト鎌田治平である。

「俺はただ甲子園へ行ってみたいから頑張ってる」

「残念だな。甲子園へ行けたとしても、先輩に出る幕はないよ。水上がいる限りは」

 斎田均が3年の先輩に言い放つ。水上というのは2年生ながら打率3割6分3厘を記録してレギュラーを確保しているA班の選手だ。

 斎田と鎌田の間で火花が散る。

「こうやってギスギスやるのが野球じゃないと思うんだけどなあ」

 青木洋一が呟いた。

 宿舎に着くと引率の鍵山が仁藤に告げた。

「今日の対戦相手、伊豆商業高校が季節はずれのインフルエンザ蔓延で試合がキャンセルになった」

「え? じゃあ、いったん広島へ?」

「バカか、ここで引き返せるかよ。次は東京だぞ」

「なら、今日は練習休みに?」

「本気か? そんな無駄はできない。今からどこか対戦相手を探せということだ」

「探せって言っても・・・」

「監督の厳命だ。どこかないのか?」

 鍵山コーチと仁藤サブキャプテンが民宿から電話を掛けまくるが対戦相手は見つからなかった。

 すると青木洋一が仁藤に言った。

「中学の時いっしょに野球をやった真藤ってヤツが静岡にいるんだけど、聞いてみるか? 多分あいつも高校で野球やってると思うんだけど」

 仁藤は二つ返事で青木洋一に頼んだ。このままでは1日が無駄になる。

 そして静岡第一実業との対戦が決まった。

「静岡第一実業って、どこだ? 聞いたこともねえ」

 鍵山はブツブツ言ったが、他にないものは仕方がなかった。

 ちょうど練習用に取ってあるという明寺球場へバスは向かう。

 鍵山は明かな格下の対戦相手に興味はないらしく、宿舎に残ると言い出した。戻ってから結果を報告しろと言うことだ。

 それで選手だけで試合会場へ出向いたのである。

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