第38話 来訪者

 夕食が済むと何もすることがなかった。美悠紀は自分で車椅子に座ると病室を出る。

「入院なんかしなくてもいいのに」

 車椅子を転がしながら美悠紀は独りごちた。母親が来るのはどうがんばっても8時過ぎだろう。

 美悠紀はそれまで1階の待合のベンチの所に居る気だ。そこなら救急外来の入口から入ってくる母を直ぐに見つけることが出来る。

 エレベーターで1階に降り、救急外来入口そばのベンチの脇に車椅子を駐めた。

 1階は既に照明も落ちている。外来も検査室も人気ひとけはなかった。

 美悠紀はスマホでニュースサイトを見る。いつも見るローカルニュースには市営総合運動公園での騒ぎが記事になっていた。

 野球場の案内看板を蹴飛ばして捕まった男がいたという。ペットボトルを野球場の壁にぶつけていた少女たちが補導されたそうだ。

「大騒ぎだったのね」

 ただその原因については何も書かれていなかった。野球の試合の判定を巡ってのトラブルとあるだけだ。

「あれは、事故なのかしら。そうならいいんだけど」

 美悠紀にもあの時のことはよく分からない。とにかく自分の方に飛んでくるボールを取らなくちゃ、それだけを考えていた。ピッチャーも重要な野手なのだから。

 ただ、その後にバットが飛んできた。そこに百合子が現れる。何と言っていたのか、覚えていない。

 美悠紀が思い出していると救急外来のドアが開いた。

「お母さん、ごめんなさ・・・」

 言おうとしてそれが母でないことに気が付いた。その人はジーンズに白いシャツ、濃紺のジャケットを羽織っていた。

「あなたは・・・」

 その男性は真っ直ぐ美悠紀に近付いてきた。

「真藤美悠紀さん・・・」

「あ、あの、この間はどうもありがとうございました」

 美悠紀はこの前言えなかった礼を言う。彼は黙って首を振ると、

「僕は東海学園野球部青木健太です。今日は本当にごめんなさい。怪我は大丈夫ですか?」

そう言って頭を下げた。

「いえ、そんな。たいしたことありませんから・・・」

 美悠紀が囁く。

青木健太さん、青木健太さん、青木健太さん。美悠紀は心の中で名前を繰り返した。

「入院してるんだ、たいしたことなくはないでしょう。本当に済まない」

 頬が熱かった。熱が出たと言うわけではないのに。ああ、喉が渇く。心臓の音が聞こえてしまいそうで心配だ。

「骨、折れてませんから・・・」

 何て答え方だと思いながらも、やっと口に出来た。

「そういう問題じゃなくて・・・、いや骨折れてなくてよかったけど。本当にごめんなさい」

 青木健太はそう言ってまた頭を下げた。

「どうして、あなたが謝るの?」

 美悠紀が聞き返した。

「それは、東海学園の野球部部員として・・・」

 青木は今日の出来事を詫びたいらしい。でも美悠紀はもっと他に話したいことがあった。

「青木さんはこの前は何故あそこに? 総合運動公園野球場へ?」

 すると青木は小さく微笑むと話し出した。

「僕は元々こちらの生まれで小学生の頃は市内に住んでいたんです。今も親戚の家があって、よく遊びに・・・」

 美悠紀は青木の話しを聞きながら、

「うん、うん・・・」

と頷いた。

「あの日は総合運動公園に保管されているという古い記録を見せてもらいに行ってたんだ。そしたら君が・・・」

 美悠紀はあの日のことを思い出してまた頬を熱くした。

 しばらくの沈黙があった。それで美悠紀は、

「でも。今日は試合には出ていなかったですね」

そう話した。だけど、言ってしまってから後悔する。

 相手が弱そうだから僕は出なかったなんて、言わせちゃうんじゃないかと心配した。

 だが青木の返事は全く違っていた。

「今はまだ部員だけど、もう辞めるから」

青木はそう言った。

「これから甲子園なのに、辞めちゃうんですか?」

「東海学園の野球は正直好きじゃない。僕のやりたかった野球とは違うような気がする。でも辞めるのはそう言うことじゃなくて別の・・・」

 青木が長い睫の瞳を閉じた。ほんの一瞬だけ。

「私、今日のことショックでした。怪我をしたのもそうだけど、大好きな野球であんなことがあって・・・。でも、もういいんです。あれが故意なのか、事故なのか、私には分からない。審判もセーフを宣言してるし、考えても仕方ない」

 いや、そういうことじゃなくて。あれはもうどうでもいいから。それよりなんで野球辞めちゃうの? そっちが聞きたかったのに。

 焦る美悠紀にはお構いなしに青木はあの件を話し出す。

「僕にも浅葱あさぎがやったことが故意なのか、事故なのか、はっきりとは分かりません。でも、浅葱は最初からバットの握りが甘かった。それは分かりました。浅葱は総監督が拾ってきた選手で創設3年でまだまだ実績のない女子野球部に入れたんです。なんでも命令通りこなす選手として。ちょっと屈折した子です」

 だからわざとやりかねないと言うのか。

「いえ。確かに何の証拠もありません。でも、誰も謝りにも行かず、逃げるようにバスに乗った・・・僕にはその態度が納得できなくて・・・」

 真剣な表情で青木の話しを聞いていた美悠紀がふっと笑みを漏らす。

 青木の真摯な態度が清々しくて、抱き締めたい衝動が湧いたのだ。

 美悠紀はそんな自分が恥ずかしくなった。それで笑うしかなくなった。何なんだろうこんな感情。初めての経験だった。

 そして話は途切れた。青木はちらっと時計を見ると遅くなった詫びをもう一度言った。そして出ていこうとする。

「あの、あの・・・また会って貰えませんか?」

 7回の裏ツーアウト満塁で迎えた打ち気満々の4番打者に投げる第1球のように、美悠紀は緊張しながらもえいままよと言葉を投げた。

 これは言っておかなくちゃいけない、そう思ったのだ。

 すると青木健太は振り返って、

「はい」

一言答えると救急外来を出て行った。

 ああ、電話番号教えて。LEINのIDは。

美悠紀は1人頭を抱えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る