第31話 明寺ボールパーク
美悠紀が明寺ボールパークという名前を知ったのは土曜日、それも試合のすぐ前のことだった。
「うちの親父が・・・。ごめん。売名だわ、売名!」
片倉みずえが喚いていた。
普段は閑散としている総合運動公園にたくさんの市民が詰めかけていた。
当然東海学園対グリー学園高校の野球の試合を見るためである。
みずえが言うには、こういうことだ。市議会議員のみずえの父親が、市の農協や商工会議所、果ては寺の檀家や神社の氏子にまで働きかけて観客を集めたと。
「ほんとに、ごめんなさい」
みずえが再びペコリと頭を下げた。
「まあ、いいんじゃないか? 無観客よりやり甲斐もあるし」
そう答えたのは神谷である。
「え〜、でも。東海学園だよ。ボロ負けだったら格好悪いじゃん」
とみずえ。
「まあ、男子はそうかもしれないけど。あたしたちはそこそこの試合は出来るんじゃないかな?」
栞がみずえを慰めるように言う。父親が政治家というのはなかなか大変だなと思いながら。
どこからか
「到着です」
という言葉が聞こえた。
それで、栞と美悠紀、神谷、みずえの4人は球場の駐車場へ向かう。
東海学園野球部と刷り込まれた青色の大型バスが駐車スペースに入って来るところだった。
駐車場には何人かの市民が見物に集まっている。その中に混じって美悠紀たちも対戦相手の来訪を見ていた。
バスのドアが開くと、先ず出てきたのは学校関係者らしき大人たち。続いて既にユニフォーム姿の選手たちが降りてきた。
彼等は皆礼儀正しく、バスを降りると帽子を取って一礼してから球場の通用口へと入って行く。
「知ってる顔は?」
神谷が栞に聞く。
「いや。背番号10が来年のドラフト候補ナンバーワンの青木君だってことは知ってるけど・・・他は全然・・・」
「その青木君はいたか?」
「いや、分からない」
「青木君がウチなんかとの練習試合に来ないでしょ。来る意味ないもん」
これはみずえである。
「厳しいね。次は女子か・・・楽しみだな」
神谷がバスを眺めながらみずえに答えた。
バスからは男子選手の最後の1人が降りてきた。その姿に美悠紀が蒼ざめる。蒼ざめた後に今度は上気したように赤くなった。
「ヤバい・・・」
1人呟く美悠紀だ。最後の1人は背が高く涼しい目をした長髪の背番号10だった。
「青木君だ」
栞が言う。
「来てるじゃんか!」
神谷がみずえに迫った。
「格好いいですね・・・」
みずえもポーッとして見とれている。
青木健太、3年である。2年生からレギュラーでファーストを任されている。そして何より東海学園の不動の4番バッターだ。
甘いマスクと物腰の柔らかい話し方で日本中にファンがいる。もちろん女性ファンである。その選手がバスを降りて来た。
駐車場にいた女性から嬌声が上がる。どうやら彼を見るために来ていたようだ。
一方美悠紀は自分でも意味の分からない恥ずかしさに身悶えしていた。
そしてとうとう走り出すと球場の中へ消えてしまった。栞が呼び止めるのも全く聞こえない様子で。
なんであの人が・・・東海学園のユニフォームを? 誰なの? あの人は? 東海学園の選手なの? ならどうしてあの日市民球場にいたの?
美悠紀の心の中には様々な疑問が渦巻いていた。その一方で、今度はもっとちゃんと話したい、そういう感情がある。
「あ、ここからは関係者以外は入れませんよ」
どこをどう歩いたのか、美悠紀は覚えていない。突然行く手を阻まれた。
「え?」
「観客の方ですか? だったら向こうの通路をまっすぐ行くと3塁側スタンドです」
美悠紀の行く手を押し止めたのは運動公園の事務職員のようだ。
「あ、いえ・・・」
美悠紀が曖昧な返事を返した。IDカードを首から下げた年配の女性がもう一度美悠紀に尋ねた。
「観客の?」
「違います。選手です」
美悠紀が言葉少なに答えた。
「選手の方? ああ、グリー学園の女子野球部の」
美悠紀はまだユニフォームに着替えていない。
「わあ。私ファンなんですよ。皆さんの野球はいいですよね。のびのびしていて。私ね、高校野球ってあまり好きじゃないんです。なんだか悲壮じゃないですか」
女性が話し掛けた。だが、美悠紀には答えようがなかった。それを察したのか、年配女性が今度は反対側を指差して言った。
「明寺口の方、こっちです、階段上がって。まっすぐ行くと選手控え室のある一角へ出られます」
「明寺口?」
美悠紀が繰り返した。
「ここの関係者が使う名前で看板とかはないですけど。2階へ上がった先が明寺通路って呼ばれてます」
「どうして?」
「若い人はご存じないと思います。明寺口を出た先に昔明寺球場という野球場があって、ここら一帯を明寺ボールパークって呼ぶ人がいたんですよ」
「明寺ボールパーク・・・?」
「なんか、アメリカの野球映画の影響なのか、みんなそう呼んでいたらしいです。その後取り壊されちゃうんですが、雄志の方たちが小さな記念碑を建てられたんです。ああ、ちゃんと公式に認められたものですよ」
「へえ・・・そうなんですか」
美悠紀もようやく落ち着きを取り戻していた。明寺ボールパークという名前が妙に心に滲みた。
「明寺口を出た先の公園の植え込みの中ですけど、石に金属プレートを留めた石碑があるんです。ええと確か、この一試合に全てを、だったかな、銘が刻まれてます」
「この一試合に全てを・・・ですか」
「詳しい謂れは私も知りませんけどね」
そう言って女性は小さく笑った。
事務職員と別れた美悠紀は何かに吸い寄せられるように明寺口を出て石碑のある公園へ向かった。
さっきまでの顔の火照りも消えていた。ただその石碑を見てみたかった。
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