第28話 黄昏時に

 土曜日、美悠紀は市民球場で練習の後、書類を出しに管理棟にまでひとりで来ていた。ようやく手続きを済ませ外に出る。

 栞は何か用があるらしく練習が終わるとそそくさと帰ってしまった。

 美悠紀が管理棟から外へ出たのは陽が沈みかけた黄昏時、かわたれ時とも呼ばれる頃だ。

 総合運動公園の中は木々が植えられ林のようになっている。その中に小砂利の敷き詰められた小径がくねくねと続いていた。

 一箇所小さな池があり古代蓮が植えられている。蓮のピンク色をした蕾がだいぶ大きい。夏が近かった。

「ああ、気持ちいい!」

 涼しい風に当たって美悠紀は思わず呟いた。

 砂利を踏みしめる音を聞きながら美悠紀は正門の方へ歩く。

 直ぐに道は二手に別れ、片方は体育館へ続いている。更にその先には陸上競技のトラックとフィールドがあった。

 そしてもう片方の道はさっきまで練習していた野球場へ続く。正門は体育館の方だ。

 辺りは暗くなりかけていたが、まだ夜ではない。ただ昼の陽光はすっかり消えていた。黄昏時とはそう言う時間帯だ。

 美悠紀は木々の間から野球場の方を見た。何かが、いや、誰かがいるようだ。

 続いてスパン、スパンとキャッチボールでもしているような音が聞こえてきた。

「誰かしら?」

 ヘイ、ヘイ

 ヤー、ヤー

掛け声のような声が聞こえた。

 美悠紀は首を傾げて木の葉の隙間から声のする方を透かして見る。

 確かに人影があった。1人はこちらに背を向けていて、もう1人とキャッチボールをしている。

 こっちを向いている男性の顔は見えた。少し遠かったが、その顔に美悠紀は息を飲んだ。

「お父さん・・・?」

 2人は楽しげにボールを遣り取りしている。美悠紀は野球場へ通じる小径を駈け出した。心臓がドキドキする。誰なの? 本当にお父さんなの?

 ざくざくと砂利を踏みしめ野球場の前に出た。だけど、そこには誰もいなかった。キャッチボールをしている人などいなかったのだ。どうして? なんで?

 美悠紀は口で激しく息をしながら立ち尽くした。息をするスピードが勝手に上がっていく。そのうち呼吸が苦しくなり、しゃがみ込んでしまった。

「どうしました? 大丈夫ですか?」

 耳元で誰かが言っている。男性の声に思えたが、美悠紀に今それを確かめる余裕はなかった。

 美悠紀は空気を吸って、吐いてを速いペースで繰り返している。呼吸の速度は益々上がって、吸っているのに息が苦しい。

「だめだめ。ゆっくり息をして」

 彼は美悠紀をぺたりと地面に座らせると後ろから両肩を抱くように抑え込んだ。

「ゆっくり息をするんだ。ゆっくり、ゆっくり」

 男の人の声が聞こえる。彼は肩を押さえて息を整えさせようとしている。彼が肩をゆっくりとしたペースで押さえながら続けた。

「ゆっくり、ゆっくり。吐いて、吸って。そう、ゆっくり吐いて。もっともっと吐いて」

 段々美悠紀の呼吸のスピードが落ちてくる。

「ゆっくり浅く吸って。浅く、浅く」

 美悠紀は言われるまま浅く空気を吸う。そしてふーっと吐き出した。

「お父さん・・・」

美悠紀が呟いたが、彼には聞こえなかった。

「そう、ゆっくり吐いて。浅く吸って。いいよ、いいよ。落ち着いて・・・」

 やがて美悠紀がなりかけた過呼吸は収まってきた。自分で胸を抱きながらゆっくりとした呼吸に戻していく。

「大丈夫かい? 苦しくない? 救急車呼ぼうか?」

 彼は美悠紀に尋ねながらそばにあったベンチに座らせてくれた。すっかり呼吸は落ち着いた。

「あの、ありがとうございました」

「本当に? もう大丈夫?」

 彼が美悠紀の前に来ると顔色を覗き込む。たまたまその視線が目に入って、美悠紀は恥ずかしさに顔を真っ赤にする。

「どこか痛い? 顔が赤いけど・・・」

「いえ。大丈夫です。ありがとうございました」

 恥ずかしさに美悠紀は急いで立ち上がった。

「もう少し休んでた方が・・・」

「いえ、もう大丈夫ですから」

美悠紀はバッグに手を掛けた。

 ジーンズに白いシャツ。濃紺の麻のジャケットを羽織った彼はたぶん同年代。それで美悠紀は更に恥ずかしさが増した。

「1人で帰れる?」

「は、はい」

「どこまで帰るの?」

「電車で・・・二駅だから・・・」

「ああ、じゃあ送っていくよ」

 気が付けば辺りはすっかり夜の闇が押し寄せていた。総合運動公園は人気ひとけも絶えている。

 美悠紀は急に心細くなった。それで同行することに同意したのである。

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