第3話 神野綾子という人物について
翌日俺はマルーン色のローカル線に乗って実家を訪れた。目的はいたってシンプル、高校のアルバムで神野綾子を確認するためだ。
無職になったとはいえ、アラサーの、いっぱしの社会人が10年前のアルバムを開くというのはなかなかに人生を迷わせている気もするが、気になるものは気になる、仕方がない。
七月末の日差しは強烈だ。雲が多いにもかかわらず気温は高く湿気は多い。なるべく陰を歩いていても全身から汗が噴き出してくる。
二度の乗り換えをして最寄り駅に着いた。そこから歩いて20分ほど。
両親にはあらかじめ帰ることを伝えてあった。ドアを開けると物音を察して母親が姿を見せた。
――仕事辞めたって?
――まあ、ね。
――どうすんの?
――別ンとこ行く。
嘘である。
――久々に帰ってきたんやからご飯食べていくやろ?
――いや、忘れもん取りに来ただけやからすぐ帰るわ。
母親は不服そうな顔をしていたけれど、それ以上何も言わず引っ込んだ。俺は母親がいなくなった空間を少しぼうっと見てから息を吐きだして階段を上がった。
別に家族仲は悪くない。ただ家族間の距離はあるのかもしれない。両親はともに現役で働き続けているし、俺は二人の仕事に一切干渉しない。さすがにそれぞれの職業を知ってはいるが、それだけである。一方で両親も俺の仕事に干渉しない。また、アラサーという結婚適齢期である俺の交際状況についても口出ししない。もちろん、俺が配信者であることを両親は知らない。
世の中には一から十まですべてを共有する家族というものがあるらしい。何なら、いくつになっても一緒に風呂に入る親子もいるとかなんとか。
他者の関係性なので肯定も否定もしないが、俺の価値観に照らし合わせてみれば、考えられないことだった。果たして家族だからといってそこまで密接に関係しあう必要があるのだろうか。俺にはわからない。
自分の部屋に入った。最後に家に帰ったのはいつだったか覚えていないが、部屋の状況は特に変わっていないように見える。エアコンがついているわけもなく、蒸しあがった部屋はめちゃくちゃに気分を滅入らせる。おまけに埃っぽい。
真っ先に窓を開け放し換気する。アルバムのためだけにわざわざエアコンをつけるのは憚られた。扇風機が用意されているはずもなく、仕方なくそのままアルバムを探すことにした。
五畳ほどの部屋にはずっと昔に処分した学習机の代わりに、大学時代に使用していた簡素な机と、これまた大学時代に買い替えたシングルベッド、一世代、二世代前の据え置き型のゲーム機、親戚から譲ってもらって手をつけていないギターなどが置いてある。読書はあまりしないため、小さな本棚が一つあるだけで、大学時代に購入した小説や漫画がいくつか余裕をもって並べられているだけだった。
音楽はもっぱらダウンロードのためCDの類はなく、アイドルや女性VTuberに興味があるわけでもないので「推し」で部屋を彩るということとも無縁である。
そもそも俺にとっては誰かを「推す」という感覚がよくわからないのだ。数少ない友人に推しがいるのか、そもそもそんな会話をするような年齢でも性質でもないのでわからないが、もし何かのきっかけで友人に推しがいると判明したら、一度聞いてみたいと思う。
それともなんだろうか。「結婚」をすれば、その相手を「推す」ことになるのだろうか。そうであれば、田口に聞けば一発である。あいつは新婚なのだから。
しかし、である。よく考えてみれば俺は両親と暮らしていた大学時代の二十二歳になるまで、一度だって相手を「推し」ているなんていうことを聞いたことはないのだ。
ともすれば「結婚」と「推し」には何の関係性もないのかもしれない。
とにかく、俺の部屋というのは何のスキルもない人間の、極めて質素なレイアウトであるということだ。言い換えれば、アルバムの類を見つけるのにさほど苦労はしないということでもある。
押入れを開く。がらがらとドアがスライドし、中の様相があらわになる。といってもそこにあるのは何段かに積まれた段ボールのみである。正面に「教材」や「カブト」など黒のマジックで中身の内容が記載されている。ただし、すべてに記入されているというわけではなく、いくつか未記入のものがった。「アルバム」の文字は見つからなかった。
苦労しないと思っていたが、普通に苦労しそうである。ひとまず関連性の高そうな「教材」から調べてみることにした。
中身は記入されていた通り教材だった。しかしそれは小学生と中学生の時に使用していたものに限られた。文字が俺のものなのだから俺のせいではあるが、ちゃんと「小中」と付け足しておけよ、と思った。しかめっ面になりながらも、次の箱を検討する。高校時代の教材が見つかっていないので、それ用の箱があるはずだ。そこに高校時代のアルバムが入っているかもしれない。しかし、手近の箱を取り出して中を確認してみても、ガキの頃に遊んだおもちゃだったり、一時期買っていた週刊少年漫画誌だったりと外れもいいとこである。
ようやく高校時代の教材が入った箱を引き当てた時にはすでにシャツが汗でぐっしょり濡れていた。
希望に胸を震わせながら中身を確認したが、そこにもアルバムはなかった。
「なんでないねん……」と無意識に独り言ちていた。
まあでも考えてみれば、小中時代の教材ボックスにも当時のアルバムが入っていなかったのだから、ここになくてもおかしくはない。
となると、アルバムはおそらく一か所にまとめられているはずである。大学のものと一緒に――
ああ、そうか、大学。
俺は大学時代のアイテムをまとめた箱を探した。二つあった。一つは教材やレジュメをまとめた箱。そこにアルバムはなかった。そしてもう一つ、それはどうやら就活用の箱らしかった。早々に諦めたSPI対策本や参考になりそうな書籍、企業パンフレット、没になったエントリーシートなどが保管されていた。なんとその中に4冊のアルバムが入っていた。
「なんでこんなとこにあんねん」
アルバムは各時代ごとの教材箱か何かにまとめておけよ、と自分にいら立つ。もしかしたら、就活時に過去を振り返る際に参考にしていたのかもしれない。一体アルバムから何を参考にするのか、今の俺にはとんと検討もつかないことだが。
探し物は予想外のところから見つかる。
なにはともあれ目的は達成せしめられた。感傷に浸るためにガキの頃から順繰りにアルバムを見返していってもいいのだが、少しでも早く神野綾子を確認したかった。
と同時に、顔も声も知らないただ同級生だっただけの人物にこれほどの関心を示している自分に気づいて自分が気持ち悪く感じた。
俺は何かおかしくなっているのではないか。そんな気がしてならなかった。自然と嘲笑が漏れた。
開け放した窓から熱い風が吹き込んできてカーテンを揺らす。時刻は午後を少し回ったばかりで太陽は天高い。蝉の鳴き声もうるさい。汗は止めどなく流れ続け、たっぷりと汗を吸い込んだ衣服が気持ち悪い。早くシャワーを浴びたい。
本当はこの場で確認したらそのままアルバムを戻してさっさと自宅に戻るつもりでいたが、予定変更だ。段ボール箱をある程度所定の位置に戻してから、アルバムを持って部屋を出る。
実家を出る前にリビングに顔を出して帰る旨を伝える。父親はいなかった。
母親は俺の汗だくの姿と手に持ったアルバムを見てあからさまに訝しんだが、俺はいつもみたく適当にやり過ごして実家を出た。
隣の市の自宅に着くまでにさらに汗をかいて、少し頭痛もし始めた。とっとと衣服を洗濯機に放り込んで冷蔵庫で冷やしておいたスポーツ飲料をひたすら飲んだ。飲みながらエアコンを入れて部屋を冷ました。熱中症は恐ろしい。少し油断した。
そのまま栓をひねってシャワーを出す。冬場では冷たすぎる温度だが、熱を帯びた今の体にはすごく心地よい。落ち着くまで頭から冷水を浴び続ける。
熱が引いてくると、石鹸で脇の下やもも裏などを念入りに洗った。勢いよく出続ける冷水を口内に含んで二、三度うがいした。
浴室を出るといい感じにエアコンが効いていて涼しかった。二本目のスポーツ飲料に手をつけた。
ひと段落ついたところで、アルバムを開いた。深緑色の生地に「第34期生豊山高等学校卒業アルバム」という金文字が刻印され、校章も大きくあしらわれている。校章は地元の市の花と高校独自の花とを組み合わせたとかなんとかというのを、学生証か何かで目にしたことがある。何の花かもどういう意味が込められているのかも知らない。
表紙には他に縦書きで「飛躍」と書かれていた。
飛躍ねえ。どう考えても今の俺のこの状況は、飛躍した先に見える景色ではないと思えた。助走をつけたはいいものの、上手く飛べずに墜落した後の、混濁した意識の中で見るぼやけた視界、というのが関の山だろう。
そんなことはどうでもいい。今の俺の状況は、俺自身がよくわかっている。今は神野綾子がどういう人物か調べなければいけない。
最初の方のページは無視だ。そこには教師陣の集合写真や校舎の風景が載っているだけだからだ。俺はクラス別の個人写真を探すようページを繰った。
さて、田口は神野綾子が何組と言っただろうか。昨日のことではあるが、大して気にも留めず聞き流してしまっていた。まったく思い出せない。
唯一覚えていることは、俺の組と離れているということだ。三年時、俺は八組だった。つまり一組から見ていけばいい。
ビンゴ。彼女は一組にいた。
「ほえぇ。なるほどなぁ……」
思わず感嘆してしまった。二十八歳のアラサーから見る十代後半のガキでもすごく魅力的に見えたからだ。
確かにこれは学年のマドンナと言われるだけはある。ただアルバムを実際に見て思う。これはひと学年だけに留まるレベルか?
まず髪は校則的に当たり前に黒である。が、その滑らかさと質感は写真越しでも圧倒的に伝わってくる。薄い眉毛もきちんと整えられている。
眉毛が見た目に大きく影響する、ということを知ったのは社会に出てからである。それ以来は美容院で髪を切ってもらうついでに眉毛も整えてもらっていた。それだけだ。しかし、そんな俺に対して、おそらく彼女は美容院、いや、眉毛の専門サロンに通っていたのではないだろうか。彼女の眉の綺麗さは、美容院でついでにやってもらってできるレベルをはるかに超えていた。
ここまでくると他のパーツは言わずもがなである。目はしっかりと大きく黒目がちで、しっとり濡れている。涙袋もある。
鼻筋も程よく通っており、笑っているから当たり前だが、口角も上がっている。おそらく彼女の口角は笑っていない時でも常に笑った時のように自然と上がっているのだろう。彼女の笑みからはそんなふうなことが感じられた。控えめに開かれた口からは白くつややかで綺麗に並んだ前歯が見えている。
顎はやや小さく、頬には程よく肉が付きわずかに赤みがさしている。
正直、予想を大きく上回っていた。田口の言葉を疑っていたわけではないが、まさかここまでとは思わなかった。
これは本当にマドンナだ。同じクラスになった男子はさぞ嬉しかっただろうし、女子はこの輝きに心底嫉妬しただろう。
俺はその三年間、一度も接点がないままやり過ごしたという訳だ。
「ちょっとでもかかわってたらなぁ……」
という声がまさかアラサーの俺から漏れているなんて気づきもせず。しばらく彼女の顔を見つめていた。
クラス写真を見終えると、あとは一年間ごとのアルバムページを見ていく。
まあ分からないでもないが、というよりもはやそりゃそうだよな、と納得してしまうが、彼女を切り取った写真がやけに多かった。さすがにカメラマンもあからさまにひいきしてはいけないと思ったのだろう、彼女をメインにした写真というのは極力抑えられていたが、別の誰かを正面にしながらもその端っこの方で強烈な輝きを放っている彼女がよく目についた。それほどまでに彼女はどの画角から撮っても崩れなかった。
そう言えば田口も言ってたっけ。スカウトされる彼女を見たやつがいたって。
そりゃスカウトされるよな。俺がその立場だったらスカウトするもんな。
それほどまでに彼女は一般人の枠を軽々超えていた。
だからこそ思う。
「なんでお前は死んだんや?」
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