第16話 先輩の視線

放課後の2年3組。体育祭まであと2週間。机を寄せ合って作られた即席の作業スペースで、太郎と花子は借り物競争の最終チェックリストを確認していた。二人の額には薄っすらと汗が浮かんでいる。


「よし、これで大丈夫そうだな」太郎が安堵の表情で言う。チェックリストの最後の項目に、小さなチェックマークを付ける。


「うん!みんなも楽しめそうだよね」花子が明るく答える。その目は期待に輝いていた。


教室の中では、他の生徒たちも思い思いの準備に励んでいる。横断幕を作る者、衣装を縫う者、みんなが一丸となって体育祭に向けて頑張っていた。


その時、教室のドアがゆっくりと開いた。キィという軽い軋み音と共に、すーっと風が入ってくる。


「失礼します」


艶やかな声が響き、東雲翔子が姿を現す。その端正な顔立ちと凛とした佇まいに、教室内が一瞬静まり返る。まるで時が止まったかのようだった。


「あ、東雲先輩」太郎が慌てて立ち上がる。椅子が軽く床を擦る音が、静寂を破る。


「こんにちは、えっと...鳴海くんだったかしら」東雲が微笑む。その笑顔に、太郎は思わずドキリとする。「準備は順調?」


「はい、なんとか...」太郎が答える。声が少し上ずっているのが自分でもわかり、すこし顔を伏せる。


「それで、今どんな準備をしているの?」東雲が興味深そうに尋ねる。その大きな瞳が、太郎と花子を交互に見つめる。


「はい、借り物競争の最終チェックを...」太郎が説明しようとするが、言葉が詰まる。


「2年3組は借り物競争の担当だったわね」東雲が近づきながら言う。その優雅な歩み方に、クラスメイトたちの視線が釘付けになる。


「どんな項目があるの?見せてもらえる?」


太郎は少し躊躇いながらもリストを差し出す。東雲はリストに目を通しながら、時折頷いている。その表情からは、何を考えているのか読み取れない。


「なるほど、面白そうね。特に『気になる人』なんて項目があるのね」東雲の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


その時、教室のドアが再び開く。今度は少し勢いよく、バタンという音と共に。


「あれ?」


美咲が驚いた表情で立ち止まる。その大きな目が、東雲を見てさらに丸くなる。


「どうも、生徒会長の東雲です」「か、神崎美咲です」


二人が自己紹介をすると太郎が「神崎には実行委員の準備を手伝ってもらってるんです」と東雲に説明する。


美咲は少し戸惑いながらも近づく。その足取りには、わずかな緊張が見て取れる。


「あっ、そうだ」東雲が唐突に言う。その声音には、どこか企んでいるような響きがある。「借り物競争に新しい項目を加えるのはどうかしら?例えば...『キスしたい人』とか」


「えっ!?」太郎、花子、美咲が同時に声を上げる。三人の顔が見る見る真っ赤になっていく。


「冗談よ」東雲がくすくすと笑う。その笑い声が、妙に教室に響く。「でも、みんなの反応を見てると、なんだか面白そうね」


東雲の視線が三人の間を行ったり来たりする。まるで何かを探っているかのように。


「さて、他の準備は順調?」東雲が話題を変える。その声には、さっきまでの冗談めいた調子はない。


太郎たちは慌てて他の準備状況を説明し始める。言葉が躓みそうになりながらも、借り物競争の全体像を伝える。東雲は熱心に耳を傾け、時折鋭いアドバイスを与えていく。その的確な指摘に、三人は感心せずにはいられない。


「素晴らしいわ」東雲が満足げに言う。その表情には、本物の称賛の色が浮かんでいる。「みんな、よく頑張ってるみたいね」


「ありがとうございます」太郎が答える。その声には、少し自信が混じっていた。


「それじゃ、私はこれで」東雲が立ち上がる。その動作には、どこか猫のような優雅さがある。「また来るわね。楽しみにしているわ」


東雲が去った後、教室に少し緊張した空気が流れる。まるで、誰もが息を潜めていたかのように。


「なんか...緊張したね」花子が小さな声で呟く。その声には、安堵と疲れが混じっている。


「うん...」美咲も頷く。その大きな目には、まだ戸惑いの色が残っている。


太郎は黙ったまま、二人の様子を見つめる。東雲先輩の出現で、なんだか状況が複雑になってしまった気がする。胸の中に、言葉にできない何かがモヤモヤと広がる。


「でも、アドバイスはためになったよ」太郎が言う。自分を奮い立たせるように。「もうちょっと頑張ろう」


花子と美咲も同意し、三人は再び準備に取り掛かる。しかし太郎の心の中では、これから体育祭当日まで、いったい何が起こるのだろうかという思いがあった。期待と不安が入り混じる複雑な感情が、彼の胸の中でうねりを上げている。


そして、彼にはまだ気づいていなかったが、この日を境に、彼と花子、美咲との関係は、微妙な変化を遂げようとしていたのだった。春の陽光が差し込む教室に、新たな青春の1ページが刻まれようとしていた。

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