第36話 柳先生と沙彩先輩
手紙を置いたはいいが、冴木先生が社会科準備室に戻らないまま、花火が始まる可能性がある。
そういうわけで近くの廊下に身を潜め、冴木先生が社会科準備室に入るのを確かめることにした。
身を潜めて三十分後、先生が入室したのを見届けることができた。
「はぁー、良かった。目立つところに置いたから見つけてくれるはず。これでもう、後戻りはできないぞ」
三十分も不安な時間を過ごすんだったら、手渡したほうが確実だったし、時間を無駄にせずにすんだ。
けれど、恋愛は人を臆病にさせる。理性を崩す。情緒を混乱させる。
「人は恋に落ちる。それは避けようがない。空から落ちてきた雫に濡れるが如く。……ふふふ、倒置法を使ってしまった」
詩人気分で、階段を駆け下りる。
花火開始は六時。今は、四時十分。そわそわして落ち着かず、校内を歩き回る。
大ホールは文化部の展示コーナーになっている。人が少ないので、その人がすぐに目に入った。
華道部の生け花を見ている、若い女性。
透明感のある白い肌と、大人びたクールな横顔。手足が長い華奢な体型。
思い出の中にある人を彷彿とさせるが、ベリーショートの黒髪には違和感がある。
その人は天使の輪が光る艶々の髪が自慢で、鳩尾あたりまで髪を伸ばしていた。
その人だと断定できずに横顔を眺めていると、女性がこちらに顔を向けた。彼女は私と目が合うと、生け花に引けを取らない美しい笑顔を咲かせた。
「友那ちゃん?」
「やっぱり!
中学校の吹奏楽部でひとつ上の学年だった、雨川先輩。私はクラリネットで、雨川先輩はフルートだった。
顔を合わせれば話す程度の関係だったが、四年越しの再会ということで、私と先輩は手を取り合ってはしゃいだ。
「友那ちゃんがいるなんて知らなかった」
「先輩は今、なにをしているんですか?」
「少し前まで飲食店でバイトをしていたんだけど、やめた」
明るい表情と弾む声から、私は、結婚するからやめるのだろうと予想した。だが、はずれた。
「赤ちゃんができたんだ。今、三ヶ月」
「ええーっ!! びっくりなんですけど!!」
文化部の展示コーナーには、生徒が数人いるのみ。私たちは人目を気にすることなく、女子トークに花を咲かせる。
雨川先輩は高校を卒業してすぐに、六つ年上の会社員と結婚した。結婚後の名字は、五十嵐。中華レストランでバイトをしていたが、つわりがひどく、油物のにおいに吐いてしまい、やめたそう。
私は雨川先輩と呼ぶのをやめ、沙彩先輩と呼ぶことにした。
沙彩先輩はカーキ色のワンピースを着ている。そのワンピースの下のお腹に赤ちゃんがいるのかと思うと、命が宿り育っていくことの神秘さに感動する。
私は沙彩先輩の結婚相手や結婚生活、妊娠ライフなどを笑顔で聞きながらも、頭では別なことを考えた。
──沙彩先輩って、柳先生と付き合っていたんだよね? 先生がわいせつ罪で捕まったこと、知っているのかな?
高宮実里は嘘をつく人ではない。おもしろおかしく誇張して話す人でもない。
「沙彩先輩は、柳先生のことが本気で好きだった。でも卒業後しばらくして、フラれちゃって。沙彩先輩、自暴自棄になって、いろんな男と遊ぶようになって。見ていられなかった」
そのように私に話してくれた。実里が真実を話したと信じているにもかかわらず、沙彩先輩に尋ねてみたい欲求に駆られているのは、単なる好奇心。
ただの好奇心で、幸せの中にいる人につらい過去を思い出させるのは気が引ける。
そういうわけで私は、柳先生に触れないことにした。中学校の吹奏楽部の話になっても、柳先生の名前を避けた。
それなのに、沙彩先輩のほうから名前を出してきた。
「柳先生が生徒に手を出して、先生を辞めたこと、知っている?」
「え……あ、はい……」
「笑っちゃうよねー。あの人、背が低かったし、顔も微妙だったじゃん。大人の女性にモテないからって、生徒と疑似恋愛していたんだよ。歪んでいるよね」
毒を含んだきつい言い方に賛同する気になれず、私は曖昧に微笑んだ。
「発覚しちゃった子、学校行きづらいだろうな。あんな人に人生を狂わされちゃって、可哀想。でも、同情はできない。だって、妻子がいるのをわかって関係を持ったわけだから。すごい子だよね」
沙彩先輩は口先だけで笑うと、しばし沈黙した。それからポツリと。
「なんてね、私も人のこと言えないけれど。柳先生と深山先生が付き合っているのを知りながら、柳先生と関係を持ったし」
「えっ……」
「やっぱり、驚くよね。ごめん。誰にも話さないという約束で、柳先生と付き合ったんだよね。でもなんか、黙っているのが馬鹿らしくなっちゃって……。先生は最初から、生徒に本気になるつもりはないって言っていた。深山先生と結婚するって。でも私は、深山先生より私のほうが可愛いし、スタイルもいいし、若いし、おしゃれだから。奪えるって、思っていた」
実里に打ち明けられたときも衝撃が大きかったが、真実はさらに強烈。
沙彩先輩は、深山先生の存在を知っていたのに、柳先生と付き合った。奪うつもりでいた。
柳先生と沙彩先輩の間になにがあったのか知りたかった。だけど、知らないほうが良かった。
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