8・〝ワンドの5〟正位置
彼らを研究所に迎えに来たのは、仙台空港に常駐する防災ヘリ「みやぎ」だった。深夜の緊急出動を手配したのは警察庁で、長官名での要請だという。
真っ赤な防災ヘリは、篠原らを収容して直ちに仙台空港に折り返した。4人の男女は空港に着陸後、ローターが止まるのさえ待たずにヘリから飛び出した。そして隠れるように一般乗降客とは異なる通路を進んだ。その先には北海道へ向かう小型チャーター機が待ち構え、慌ただしく飛び立っていったのだ。
全てがほんの数分間の出来事だった。
だが、その時点で〝罠〟はすでに開始されていた。
篠原たちは、仙台空港を離れていなかったのだ。
彼らは、ヘリコプターの中で着替えていたのだ。篠原たちはヘリ整備員の服装を借り、笠木はヘリ機長のユニフォームを着用した。そして仙台空港に隣接する消防航空センターに入り、身を隠していた
彼らは、最初からヘリに搭乗していた身代わりの警察官と入れ替わったのだった。彼らの行動を監視している〝組織〟の目をそらす、あるいは内部に潜むかもしれない〝スパイ〟を通じて逆情報を流す一手だった。
そして航空センターの応接室にこもった篠原たちは、密かに傭兵の動きを見張る長野県警や公安外事課からの情報を総合して敵の戦力分析を進めていた。
その間も純礼はタロットの〝予言〟を続けていた。
テーブルには1枚のタロットが出されている。
「〝ワンドの5〟の正位置……」
笠木と小声で打ち合わせを続ける篠原が振り返る。
「意味はなんですか?」
「葛藤、交渉、あるいは切磋琢磨……。この先は不安ですね……」
篠原は当然のことのように言った。
「順調です。それこそが僕が望んだ展開ですから。なんの困難もなく薬師寺を捕まえられるとは思っていません」
高山が篠原に問いただす。
「出たとこ勝負みたいな言い方じゃないですか⁉」
「プランは用意しました。そう……全部で10種類ほどで、それぞれにバリエーションがいくつか。相手の出方によって、その都度変化していくでしょう」
「そんなに……って、俺、聞いてませんよ!」
「話してませんしね。まだ僕の頭の中にあるだけです。もう少し練り込みたかったんですけどね。何せ、急ごしらえなもので」
「またそれだ……あ、でもそれって、本気で傭兵と戦うつもりじゃないですよね⁉」
「戦うなんて、もうたくさんです。そんな無茶をしなくてすむように、敵を追い払う策を講じています」
「こんなところに隠れて、どうやって追い払うんですか⁉」
「あっちが勝手に消えてくれる……はずなんですけどね」
しかし高山も、傭兵たちが篠原の思惑通りに動いていくにつれ、口数も少なくなっていた。
だが、不意に悲しげにつぶやく。
「まさか、シナバーが敵に寝返っていたとはね……」
篠原は笠木と具体的な打ち合わせを続けながらも、平然と応えた。
「あ、それ、嘘です」
「嘘って……何が?」
「シナバーさんは、裏切ってなんかいませんよ」
高山は、一瞬呆気に取られる。
「だったらなぜ⁉ なんであんな真似を⁉」
「実弾が飛び交うかもしれない戦場に連れて行けるわけないじゃありませんか」
「それでわざわざ……だったら誰が通信機を仕掛けたんです?」
「内部にスパイが紛れ込んでいたんでしょう。海外からの研究者も多いといいますから。ネクストチップスだって、特戦群の量子研究には関心があるでしょうしね」
「以前からスパイを送り込んでいたと……?」
「ないとはいえません。特戦群がいくら警備を厳重にしても、それを超えるスキルを持った者が必ず現れますので」
「でも、シナバーがやってないって、確実ですか?」
「シナバーさん自身が証明しました。彼女が犯人なら、僕ら程度では絶対に見抜けないでしょう。そもそも、好奇心――というより、見境なしの探究心に魂を奪われたような変わり者は、信頼できます。行動原理が明快で濁りがありませんから。僕の直感って、いつも正確でしょう? 人間の本性を見誤ったことも、あまりありません。100パーセントとは言いませんけど」
否定できなかった。
「そりゃそうですが……」
「とはいえ、正体不明のハッキング機器が発見されたのも事実です。どうやったのか分かりませんが、発見されることを前提にした罠ですね。僕らの内紛を画策したのでしょう。ですので、それを逆用させてもらいます。発見できていないふりをして、シナバーさんに偽情報を流してもらいます。できれば、研究所内のスパイ探しもお願いしたいものです」
「あ、それでシナバーを残したのか……」
「背中を任せられるバックアップ要員は必須ですから。僕らと一緒にいたらできないことも、いろいろとありますしね。適材適所ということです」
高山が気づく。
「それって、俺だったら実弾に晒してもいいってことですか⁉」
「だって、特戦群でも楽しそうだったじゃないですか。すっかり馴染んでましたよ。ですので、今後も朝比奈さんに張り付いてがっちりガードしてくださいね。実は、特戦群のボディアーマーやら拳銃も無断借用してきちゃったんで」
「やめてくださいよ!」
純礼がタロットを繰る手を休め、艶かしくほほえむ。
「またよろしくお願いしますね」
篠原も笑う。
「さすが警察官の鑑、研究所では大活躍でしたね。要人警護の覚悟はきっちり確認させてもらいました。あなたなら朝比奈さんを守り通せるでしょう」
「盾にしたいだけでしょうが!」
「それ、SPの基本スキルじゃないですか。近接戦闘技術も特戦群からお墨付きをいただきました。ネイビーシールズ並みだそうです。特に合気道、あれにはPMCもお手上げだろうということでした。実力を発揮する機会はない方が望ましいですが、いざとなったら躊躇は無用です。腕の一本ぐらいはへし折ってやってください。それと、シナバーさんにはやってほしいことが山盛りです。そろそろ連絡しようと思っていたところです」
そして篠原は秘匿回線でシナバーを呼び出した。
シナバーの怒った声がスマホからもれる。
『手伝えだなんて、あたしを疑っていたくせに!』
篠原は含み笑いを抑えられない。
「とんでもない。シナバーさんを守るためでした。嘱託の協力者を危険に晒しでもしたら、警察の威信に関わりますから……というか、すでに危ない目に遭わせてしまいましたが」
シナバーの声が和らぐ。
『それはあたしの責任でもあるから、もういいけど……じゃ、疑ってないんですか?』
「もちろん。そちらの責任者に代わってもらえますか?」相手が代わる気配がある。「特戦群の機材をシナバーさんに使わせてください。人的資源は貸していただかなくて構いませんので。前所長の仇討ちでもあるのですから、それぐらい目を瞑ってくれてもいいでしょう?」
女性の声だった。
『そのように要請を受けています。私たちにも力を貸していただけるなら、モグラ退治がはかどりますし。で、笠木所長もそちらに?』
笠木がスマホを取る。
「自分はもう所長ではない。警察の嘱託で、SATの指導教官だそうだ」
『復帰をお待ちしています。電話、シナバーさんに代わります』
笠木も篠原にスマホを返す。
「シナバーさん、スパイの捜査もお任せしますね」
『面白そうだけど、そんなの初めてですよ?』
「直感に従って、そちらの担当者を補佐すればいいんです。サイバー関連のスキルはトップクラスなんですから、アイデアを提供してあげてください。それと、メールを送ります。タイミングを見計らってやって欲しいことを書き出しておきました。僕たちの援護もお願いしますね」
『大忙しじゃないですか!』
「あなただから頼めるんです。また連絡します」
篠原はいきなり電話を切った。
高山が呆然と見つめている。
「あ、今の通話、暗号化した上で秘匿回線を使いましたので、ご安心を。シナバーさんにはこの先、状況に応じて手伝ってもらわないといけませんので」
「でも、手伝うって……あの研究所に閉じ込められたままで、どれほどのことができるんですか? 上から止められているんでしょう?」
笠木が答える。
「特戦群が動くわけではありません。まあ、表向きは、ということですが。秘匿回線さえ使えれば、さまざまな組織も動かせるらしいです」
「さまざま……って?」
「我が国の上層部の暗黙の了解があることは、すでにお分かりでしょう? 秘中の秘の特戦群を酷使できたぐらいですから、大方の官庁は言いなりじゃないんですか?」
そして、待ちに待った報告が入った。
囮のチャーター機が北海道へ飛び立った直後から、ネクストチップス別荘地の動きは慌ただしくなったという。ヘリが軽井沢に最も近い「信州まつもと空港」に向かい、そこから降りた巨漢の外国人たちがプライベートジェット専用格納庫に消えていたのだ。さらにヘリが数回往復したのち、40人乗りのプライベートジェット――ボーイング737をベースにしたBBJが、何かに追われるように松本を飛び立ったことが確認された。
行き先は新千歳空港だった。
「傭兵の大半が消えました。さあ、行動開始です」
篠原のアイデアによって、軽井沢に潜伏していた〝軍隊〟は北海道へ追い払われた。いったん新千歳空港に降りたBBJは、強引なフライトプランを理由に半日は再度の離陸を許さない手筈になっていた。
傭兵たちの行動は、これで大きく制限されることとなった。
ネクストチップスの別荘地に残る傭兵は、極めて少数になったはずだった。
午前1時前。
彼らは宮城県警が都合した小型遊撃車に乗り込んで、軽井沢へ向かった。
※
明け方前のワインディングロードには、ほとんど対向車もいなかった。高速道路を乗り継いで一気に走り抜けて群馬県に入り、国道18号線の碓氷峠に突入している。
数10年前はアニメやドラマでも人気を博した〝走り屋〟の聖地だ。
だが、峠攻めの腕を競うあう改造車やギャラリーが群れていた時代は、とうに過ぎ去っている。適正な取り締まりと、暴走を抑止する路面やキャッツアイ――反射式の道路鋲などの設置が冷や水を浴びせたのだ。
何より、若者たちは経済力を失って〝品行方正〟に過ごせる居場所に籠り、同時に車に対する情熱も維持できなくなった。過激なマニアはほとんど高齢者で、法規制を破ってまで公道を走ろうという跳ね返りは少数だ。
深い森の中をうねる斜面を抜ければ、軽井沢の市街地へ出る。
大きなヘアピンを下って前方が開けた途端、数個のヘッドライトが確認できた。
大型バイクの集団だ。おそらくは4台。
戦闘開始の合図だ。
しかし運転席の笠木は、その背後に潜む影を峻別していた。
「後続にも数台、ライトを消している」
街灯も多くはない峠でライトを点けないのは異常だ。異常な集団が急速に接近している。
助手席の篠原はすぐさまスマホをとった。
「シナバーさん、攻撃が始まりました。ここでは逃げ場がありません。プランDの準備を!」
『いつでもどうぞ。でも、純礼さんに占ってもらって!』
「何を?」
『相手の人数! それで分岐が変わるから。今ならまだプランDは早すぎ。GPSと車載カメラでそっちの様子は大体掴めてるけど、対処不能だと確認できるまで切り札は隠しておきたい!』
「了解」
その通話を聞きつけていた純礼は、素早くタロットを選り分ける。大アルカナの22枚を抜き出し、素早く切って7枚目を裏返す。
「〝悪魔〟です。大アルカナの15。敵は15人前後でしょう」
バイクの集団は直前に近づいている。
笠木が言った。
「確認できるものは6、7台だけです!」
前方から迫ったバイク集団は、遊撃車の横を通過した途端に方向を変え、背後から追いすがる。そしてライトを消した。
さらに月明かりの中、前方の道路脇の森の中から別のバイク集団が飛び上がってくる。
3台が前方に出て、並走しながら進路を塞ぐ。
遊撃車は黒塗りの大型バイク集団に取り囲まれてしまった。
周囲を素早く見渡した篠原がスマホに叫ぶ。
「バイクは15台前後!」
スマホが言った。
『それじゃ振り切れない! バイクの方が機敏だし……。〝戦術核〟も使いたい!』
「もうですか⁉」
『先手必勝! 間に合わないよりいいでしょう⁉』
「許可します!」
『任せて!』
と、遊撃車の周囲が上空からのスポットライトに照らされる。
純礼を守るように後部座席に座っていた高山が言った。
「ヘリまで⁉」
笠木は冷静だ。
「照明専用のドローンでしょう。スピードを落としますか?」
篠原は言った。
「このままで。前方のバイクに追突しても構いません。こんな時のためにバンパーを強化した遊撃車なんですから」
高山は泣きそうだ。
「やめてください! 卑しくも警察官なんですよ!」
「襲ってきたのは向こうです。あなたが交渉してくれますか? 彼ら、朝比奈さん奪おうとしてるんです。停まったら、武装集団相手に立ち回りをすることになります。守れますか?」
「だからって……」
前方のバイクは車体を大きく振って、追突を避けながらも進路を潰してしてくる。乱暴だが安定したテクニックは、素人ではない。
道路のうねりに合わせながらバイクの妨害を交わすのは容易ではない。車が大きく揺さぶられる。
唸りを上げるエンジン音が車内を満たす。次第にスピードも抑えられていく。
〝敵〟への配慮ではない。
安易にバイクにぶつかれば、車体に乗り上げて進路を外れる恐れも高い。路肩に突っ込むならまだしも、斜面を転げ落ちれば生死に関わる。
巧みに遊撃車を操る笠木がつぶやく。
「隙がないな……」
と、リアガラスに細かい曇りが広がっていく。
背後のバイクから実弾が打ち込まれているのだ。
気づいた高山が振り返る。
「撃たれてますよ!」
篠原は振り返った。
「撃たれてますね。もう遠慮はいらないってことです」
「だからって、何ができるんですか⁉」
「だからこその、戦術核ですよ」
高山が怒りを露わにする。
「バカな! 核ってなんだよ⁉ そんなもの、どこにあるんだ!」
「ご心配なく。ただの作戦名ですから。大体、日本に核兵器などありません。あったところで、たかが一警官が使えるわけがない。ただし、できれば持ち出したくなかったんです。被害が世界的になるかもしれませんので」
高山が呆然とつぶやく。
「世界的……? それって……戦略核じゃないですか……?」
笠木は必死に遊撃車を操りながらも、笑っている。楽しんでいるのだ。
「日本初の核攻撃に参加できるとは……自衛官としては、名誉なのかな?」
「アメリカさんには一矢報いられます。いろいろな意味で」
しかし、先手を打ったのはバイクの方だった。
進路を塞ぐ2台が一斉に倒れる。ドライバーは素早く路面を転がり、次の瞬間には立ち上がって暗い森の中に身を隠していた。
笠木が叫ぶ。
「掴まって! 避けられない!」
遊撃車がバイクに乗り上げて跳ね上がる。
笠木は必死にハンドルを操って車体を山側に向けていた。ガードレールを突き破る衝撃が車内に走り抜ける。
車は森に突っ込んでエンジンも止まった。
照明ドローンがホバリングして、木の間に挟まった遊撃車を照らし出す。
バイクの集団が素早く遊撃車を取り囲んでいく。バイクを降りた黒ずくめの傭兵たちが、拳銃を向けている。
そして遊撃車の窓に銃弾を打ち込んでいく。防弾の車体だと知りながら、銃撃を続ける。
実弾射撃をためらっていない、という意思表示だ。
途切れることのない着弾音の中で、高山が首をすくめる。
「どう切り抜けるんですか、これ⁉」
篠原は平然と、細かい傷で曇っていく窓の外を観察している。
「もはや打てる手はありません」
「無責任な!」
「そうではなくて、打てる手はすでに打ったということです」
笠木はやや不安げだ。
「間に合いますか?」
「間に合って欲しいものですね。せめて、時間を稼ぎましょう」
純礼はしかし、動揺も見せずにタロットを抜き出す。
「〝コインの6〟ですね」
篠原は振り返った。
「意味は?」
「今の状況なら……適切な対応で、取引が成立――といった意味でしょうか」
「望ましい結果です」
と、照明の向きがわずかに変わった。同時に銃撃が止む。
光の中に、バイクの後部から何かを取り出した4人の傭兵が進み出た。ロケットランチャーだった。
明らかに、過大な火力を誇示している。
笠木が感心したように言った。
「準備がいいことで……防弾仕様でも、至近距離であれを喰らったらまずいですね。銃撃で傷だらけだし、どこが破られるか分かりません」
篠原も時計を見て、うなずく。
「攻撃力も貧弱ですから、これ以上は抵抗できないでしょうね……。仕方ない、外に出ましょうか」
高山が叫ぶ。
「殺されますって!」
「少なくとも、朝比奈さんは殺されません。彼らの目的は朝比奈さんを捕えることでしょうから。抵抗しなければ、僕らが殺されることもないはずです」
「なぜ⁉」
「傭兵は利に聡いです。戦地でもない同盟国で無意味な殺人は犯したくはないはずです」
「要人警護を放棄するんですか⁉」
「ロケット砲が車内で爆発したら、全員焼死です」
「朝比奈さんも死ぬじゃないですか!」
「たとえ死んでも、直後なら血液は吸えるでしょう。それで人格が統合できるかどうかは分かりませんが。そもそも、死んでも構わないと思っているのかもしれませんし」
「そんなことはさせません!」
「どうやって? 体で防ぎますか? 仮にできたとして、あなたが死んだ後に朝比奈さんは拉致されます。結果は変わりません。死に損じゃないですか」
「だからって……」
篠原は平然とドアを開けてライトの中に進み出た。両手を上げる。
先頭の傭兵が日本語で言った。
「アサヒナスミレ ヲ ダセ」
彼らの情報網は、車内に朝比奈純礼がいることを確認しているのだ。しかしそれは、篠原らも想定していたことだ。
篠原が振り返って車内に命じる。
「全員、外に出て下さい。絶対に抵抗しないように」
外に出た4人は遊撃車の前に並ばされた。
まだ冷たい夜風が彼らを包む。
しかし、そのまま数分が過ぎていく。
両手を上げたまま痺れを切らせた高山が小声で言った。
「何を待ってるんですか?」
篠原がつぶやく。
「たぶん、黒幕の到着でしょう」
「薬師寺ですか? なぜ、ここで?」
「この場で朝比奈さんのスキルを奪ってしまえば、後はどうにでもできる――ってことでしょう。死体を埋める場所には困らないし、車に戻して爆発させれば事故に見えるかもしれないし……」
「そんな!」
しかし篠原は、恐れていない。
「時間がかかりそうで、何よりです。もう数分は欲しいなと思っていましたので……」
「俺らも埋められるんですか……?」
「間に合わなければ、そうなるかもしれませんね」
高山は泣きそうだ。
「人ごとみたいに……」
数分後に、黒塗りのベンツが到着した。傭兵たちが道を開ける。
しかしそこから降りたのは、薬師寺ではなかった。
篠原は驚かない。
傭兵の前に進み出た男が、篠原の表情を見て言った。
「俺が誰か、知っているみたいだね?」
篠原が答える。
「刑部真司。過去の記録は可能な限り読ませてもらいました。手練れの詐欺師で、民間の軍事戦略研究家。最先端の現代戦の研究も弛まずに進めていたようですね。生きていたんですね」
「なぜそこまで知っている?」
「あなたの住居は、警察が徹底的に調べましたから。機密まで含んだあの資料、どうやって集めたんですか?」
「詐欺師だからな。詐欺師なりの方法がある」
「馬鹿なことを聞きました」
「俺が来たことに驚かないのか?」
「可能性は織り込んでいました。城紀明さんは生きていましたので」
「奴は死んだのか?」
「正確には、殺されました。薬師寺に騙されたのでしょう」
「やっぱりな……俺の判断は正しかったようだ」
「薬師寺と手を組んだのですか?」
「あいつはバケモンだ。すでに数人分の人格と能力、知識や記憶まで身につけている。それを同時に操れるんだから、対抗したくても出来やしない。殺されるのを待つだけなんて、冗談じゃない。生き残る方法は、俺が奴の右腕になることだけだ。たとえ奴が同じ能力を持っていても、体が2つあればできることは飛躍的に増えるからな。戦略的に説得して、薬師寺も納得した。ウィンウィンだよ」
そして刑部は、シャツの襟を広げて首筋を見せた。
そこにはクッキリと吸血の跡が残っていた。
刑部は、自ら進んで血液を提供したらしい。しかも、吸血によって能力が完全に移転されることを認めたのだ。
と、その時だった。傭兵たちの動きが急激に慌ただしくなった。
耳元のインカムを抑えるようにしながら、誰かと連絡を取っているようだった。そして互いに通話する。
次の瞬間、上空からのスポットライトが消された。辺りが一気に暗く変わる。街灯は遠い。
残った照明は、森に突き刺さった遊撃者のヘッドライトの反射光だけだ。
そして、傭兵たちが武器を下ろした。
あたりを包み込んでいた緊張感が、山から吹きおろす風と共に消え去る。
明らかな〝武装解除〟だった。
その動きに気づいた刑部が傭兵たちを見回す。
「おい! 何やってんだよ⁉」
ロケットランチャーを肩から下ろした指揮官らしい男が、軽く眉を上げる。ただそれだけでバイクに武器を戻し、去っていく。
部隊は全員、無言で後に続いた。バイクのエンジン音が一斉にあたりを包み、そして去っていく……。
一糸乱れぬ撤退行動だった。
後には、うろたえる刑部と、その車だけがとり残された。
刑部は立ち去る傭兵部隊を呆然と見守るだけだった。
笠木が安堵のため息をもらす。
「間に合いましたね……まさか、本当にできるとは……」
我に返った刑部が篠原をにらむ。
「お前がやったのか⁉」
篠原は平然と答えた。
「僕じゃありません。考案し、指示したのは僕ですが」
「お前……何をした⁉ 何であいつらを追い返せたんだ⁉ どうやって……?」
刑部も、それを成したのは篠原だと疑ってはいない。
篠原が肩をすくめる。
「戦術核の使用、ですよ」
「核だと⁉」
「ただの作戦名ですけどね」
「は? なんで傭兵たちが消えるんだよ⁉ あいつらはネクストチップスから大金を受け取ってるんだぞ! 契約違反だろうが!」
「契約は解除された、ということです」
「なんで⁉」
「僕の同僚がすでに手を打っていましてね。警察庁を通じてあなたと薬師寺を詐欺罪で国際手配していたんです。手配したのは数時間前です。さらに、ネクストチップスCEOが手配中の詐欺師と関係しているという噂を、ニューヨーク証券取引所やネットニュースに流して不安を煽っておきました」
「その程度であいつらがビビったっていうのか⁉」
「そこまでが、布石です。そして決め手が、数分前の『オペレーションTNW(タクティカル・ニュークリア・ウエポン)』の発動です」
「だからなんだよ、それ⁉」
「農林中金保有のS&P500株やGPIFの保有株を大量放出させました」
「は? どういうことだ……?」
「経済は分かりませんか? 日本が持っているアメリカの株を一気に売り払ったんです」
「そんなことで、どうして……」
「ピンポイントでは打撃を与えられなくても、ネクストチップスはインデックスの最大銘柄――屋台骨ですからね」
「ネクストチップスを恫喝したってことか⁉」
篠原は冷たく笑っている。
「とんでもない。ただ、株は持ち手の都合で売られることもあります。単純な常識を再認識していただいただけです」
「それだけであのバケモノ企業が振り回されたっていうのか……?」
「化け物だからこそ――というより、化け物にしか通用しない兵器なんです。〝そこそこ〟程度の企業なら、消し飛んでしまうかもしれませんから。弱点を突くのは、戦略の基本でしょう?」
「反則だろうが……」
「そんなルール、誰が決めたんですか? 多国籍企業は国家も同然。国同士の争いなんて、強い方が勝手にルールを決めるものです。守りの穴を見逃したネクストチップスのミスです」
「くそ……腹立たしいな……」
「負けを認めることです。ファンドにとって最大の武器は情報です。ですから、『攻撃されている』という事実は、文字通り一瞬で世界中に広がります。サマータイム中なので、取引終了直前でしたけどね。それでもデイトレーダーや取引ソフトの介入で、市場は瞬時に暴走したはずです。ネクストチップスも暴落を恐れて、対応に追いまくられているところでしょう」
「それが〝戦術核〟……?」
「ウォール街が炎上したでしょう? 日本そのものが巨大ファンドなんですよ」
「そんなことまで⁉」
「民間企業が他国で傭兵を暴れさせているんですからね。防ぐためにできることは、全部します」
「じゃなくて! なんでそんな荒技が使えるんだよ⁉」
「朝比奈さんのお力です」
刑部は、その一言で全てが理解できたようだった。
「くそ……だから薬師寺はこの女にこだわるのか……」
「日本側のファンドの幹部にも、朝比奈さんの顧客がいたみたいですね。それとも、もっと上からの〝天の声〟だったのでしょうか。どのみち、タイミングを見計らって買い戻して利鞘を稼ぐんでしょう。数知れないハゲタカファンドを返り討ちにしてきたクジラファンドですから、たまには市場で暴れてもいいんじゃないですか? でないと、日本が甘く見られる一方です。それに、ウォール街だって、変動は儲けの大チャンスです。予期はしていなかったでしょうが、対策は常に用意しています。それこそウィンウィンでしょう?」
刑部は、羨ましそうにつぶやく。
「お前ら……なんであんなオカルト野郎と戦えるんだよ……ネクストチップスまで味方に引き摺り込むような怪物なのに……」
篠原が真剣に答える。
「たぶん、オカルトだとは思っていないからでしょう。僕は本来、量子物理学の研究者でした。科学者は、予測を裏切る実験結果を歓迎するものです。そこには必ず、新たな知見と革新のきっかけが身を潜めていますから。『あり得ない』と言って現実を拒否すれば、真理に近づく道は塞がれます」
刑部がわずかに首をかしげる。
「お前、何を言ってるんだ……?」
「怪物と戦う方法論、ですよ。オカルトとだからと切り捨てるのではなく、現実に起きている物理現象だと割り切りました。それなら分析できるし、対処法も考えられます。『なぜそんなことが起きるのか』という根本原理は無視しました。再現可能な因果関係だけを探れば、現象の振る舞いは見極められるかもしれない。封じる手段を発見できるかもしれない――量子のありように振り回されていた僕が身に付けた処世術、いわば自己保存の本能ですよ。正面からぶつかるだけの仲間は、深みに嵌って狂っていきました。それを見て学んだ、僕の人生訓でもあります」
刑部はもはや、篠原の言葉を聞いていない。
「お前らの手の内を読んでここまで追い込んだのに……」
「やはりあなたが作戦を指揮していたんですね」
「そこまで分かってたのか?」
「あなたの記録を読みましたから。詐欺の手口も、読み漁った戦術書も、だいたい頭に入っています」
「俺の先回りをしたのか⁉」
「そうできていれば、幸いです」
「確実に生きていると知っていたのか?」
「あなた自身が殺されているなら、薬師寺の中に同じ能力が潜んでいることになります。敵は、どっちみちあなたです。無駄にはなりません」
「バカな……こうもあっさり負けるなんてな……」
そして刑部は拳銃を取り出した。
篠原に向けて引き金を引く。
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