7・大アルカナ〈Ⅶ〉〝戦車(チャリオット)〟逆位置
医務室の治療台に仰向けで横たえられた城の死体は、全裸にされていた。
骨が砕けた首は異様な角度で傾いていたが、辛うじて繋がってはいる。血液が洗浄されていたために生々しさは幾分か和らいでいたが、下顎は砕けていた。
篠原が爆発でちぎれた皮膚を摘む。ラテックスの手袋をはめてはいたが、さすがに気味悪そうだった。
それを見守る医官がつぶやく。
「そこまで詳しく調べなくても……」
篠原はぼやいた。
「ですよね……でもこれも、仕事のうちですから。しかしキツイですね……死体には、そこそこ慣れているんですけど……」
笠木がうなずく。
「爆弾の損傷なんて、なかなか遭遇できないでしょうしね」しかし、篠原が〝何か〟を探していることには気づいている。「で、見つかりましたか?」
「さて……何を調べればいいものやら……」
そう言った篠原は、さらに顔を死体に近づける。
「目的はないんですか?」
「何か不自然な傷がないものかと期待しているんです」
「期待? 確信はない、と?」
「爆薬を使ってここまで損壊したのは、何かを隠す目的もあるんじゃないかと……」
「隠す……ですか?」
篠原は話しながらも城の皮膚を伸ばしたりし曲げたりしている。
「ずっと気になっていることがあるんです。調査記録や朝比奈さんの話を聞く限り、薬師寺が人格を奪う際には特に体に触れたりせずに……非接触で吸収したようなんです。接触するにしても、握手程度の軽いもののようで……。人体が持つ固有のエネルギーが発する変化――いわば電流が通る際に漏れ出る電磁波のようなものを解読したらしいのです。朝比奈さんは『波動を読んだ』と言っていました」
「波動って……実態はなんでしょうか?」
「科学的な定義は不明です。そもそもが、現代科学で扱える範疇かどうかも不明瞭な事象ですから。ただ僕は、光子のような素粒子の一種なのかもしれないと想定しています。でもそれがどのような存在であれ、あくまでも本体から投影された〝影〟であって、主体ではありません。情報量も圧倒的に劣るはずです。今になってその主体を殺しているのは、主体との〝深い接触〟によって人格を統合して完全なスキルを奪いたいからだ――というのが、今のところの僕の仮説です。軽い接触で充分な人格吸収が行えるなら、殺す必然性はありませんから。完全な人格奪取に〝特異な接触〟が不可欠だとしたら、それを隠すために殺したのかもしれません」
「接触の痕跡があると?」
「あると助かるな、と思っています。最初に死体にされた岩渕剛は訓練を受けたテロリストでしたが、皮膚を薬品で溶かされていました」
「証拠の隠滅⁉」
「その可能性があります。城との共通点です」
「薬師寺自身がテロリストと同等のスキルを身につけているわけですね?」
「まず、確実です」
笠木の目が真剣さを増す。
「そのスキルは、城に移すこともできるんでしょうか?」
篠原がハッと顔を上げる。
「なぜですか?」
「部下の報告によると、城自身も特殊部隊員に違和感なく溶け込んでいたというのです。身のこなしからは見分けがつかなかった、と。訓練された軍人と同等のスキルを持っていたようなのです」
「それは面白い……。報告書では、城は完全なインドア派です。軍事訓練などはもってのほかで、いわば引きこもりのサイバーオタクです」
「そうは思えません」
篠原がわずかに考え込む。
「だとしたら、薬師寺は他人に別のスキルを注入する能力まで持っていることになります。しかも城は、本来のハッカーでありながら、テロリストの能力まで発揮した、と……」
「しかも、ですか?」
「報告書を読んだ限りでは、人格が変わらなければ肉体の変化は起こさないようでした。なのに城は、2つの能力を同時に使ったようです。複数の能力を混在させられるなら、対処方を考え直さなければならないようです」
医官が加わる。
「篠原さんは東大出の天才だと伺いましたが……その種のオカルトを信じていらっしゃるんですか?」
「〝信じる〟という表現は、しっくりきませんね……ただ、見たもの、体験したものは素直に認めたいと思っているだけです。警察に入ってから、人間心理の不可解さは嫌というほど思い知らされました。最近は奇妙な現象に行き当たることもあります。最たる例が朝比奈さんです。占いを疑う気持ちはあるんですが、現実の世界が彼女の占いに振り回されていますからね……」
「それでも、理論的には割り切れませんよね」
「僕、量子物理学を研究していたんです。深みに入れば入るほど、奇妙なことが増えます。超弦理論では、11次元という古典物理学の枠を超えた領域も広がっています。そんな世界、常識の範疇で想像できますか? 時に、常識は無力なんです。それって、医学にはありませんか?」
「言われてみれば……理由がわからない現象は掃いて捨てるほどあるでしょうね。コロナウイルスに駆虫薬が効果があったとか、なぜだか理解できません」
「人間はまだ、本当のことは何も知らないということかもしれません」
と、篠原の手が止まる。両手に、ちぎれた皮膚が摘まれている。首の位置を変えて、その部分をつなぎ合わせてみる。
笠木が気づく。
「何か見つかりましたか?」
「もう一度、洗浄できますか?」
医官がアルコールのボトルを持って、身を乗り出す。
「どこを洗いますか?」
「僕の指の下……そう、そこに」
調査中に滲んだ血を洗い流すと、皮膚の裂け目に刺し傷のような赤みが、2つ見つかる。
医師が不安げにつぶやく。
「なんだか……獣に噛まれたような傷ですね……」
「獣、ですか?」そして、篠原は引きつったような笑みを浮かべた。「言いたいのは、〝バンパイア〟じゃありませんか?」
医官は困ったように顔を伏せる。
「医師ですから……あまりオカルトに流れるわけには……」
「今起きていることが、オカルトそのものなんです」
笠木が身を乗り出す。
「バンパイア、って……」
「大きな刺し傷――というより、咬み傷が2つ。映画とかでしか見たことはありませんが、吸血鬼そのものじゃないですか。しかも皮膚に穴が開いていたところに爆破の圧力が加わって、ここから裂けたようです。応力集中の結果でしょう」
医官がうめく。
「トイレットペーパーのミシン目……みたいなものですか」
「これが吸血の痕跡なら、噛んだのは数日以内でしょう。傷を残したのは、おそらく薬師寺です。完全にスキルを奪取するには、吸血鬼のように噛み付く必要があるのかもしれません。血液なら、波動より多くのデータを含んでいそうですから」そして気づく。「最初の死体も調べ直します」
※
小1時間後、彼らは小会議室の1つに集まった。
篠原が警視庁から取り寄せたデータを、テーブルに置いたタブレットに表示する。
「先ほど届いた、岩渕剛――最初の被害者の写真です」
笠木が身を乗り出す。
「テロリスト、ですね」
「本業は時計職人でしたが、手製爆弾を専門とする、かつての活動家です。死体の皮膚の表面は薬品で溶解させられましたが、ほら、首のこの部分にうっすらと出血の痕跡が見られます」
笠木がモノクロの画像を凝視する。
「これは……レントゲンですか?」
「MRI……正確にはMRAになりますが、強力な磁気で体内の血管を精査するシステムです。死者に用いることは多くありませんが、無理を押して首の周辺の検査をお願いしました。血管の破損が2箇所、城と似た部分に見られます。内頸静脈という太い脳静脈の付近です」
「これが〝吸血鬼の噛み跡〟ということですか……」
「大の大人が真剣に語るのは憚られますが……そうとしか考えられません。たぶん血液を吸うこと自体は目的ではなく、その成分が人格やスキルの吸収に不可欠なのでしょう。人格の移転とか、相手の精神操作まで可能かもしれません」
「噛んだ相手を操れる、と?」
「あなたの指摘通り、そう考えないと説明がつかない点が多すぎます。特に城の最後の行動は、自暴自棄で納得がいきません」
「蚊のように、吸血と唾液の注入を同時に行うのかも……」
「いい視点ですね」
「まさしくモンスターですね……」
「残念ながら、僕たちの相手は常識外の〝何者〟かと考えるしかないようです。しかし、噛みつかれなければ恐れることはないでしょう。おそらく……ですが」
笠木は面白がっているようだった。
「なんか、ハリウッド映画みたいですね。状況をうまく収められたら、映画にならないかな」
「この件はすでに極秘扱いです。下手に口外すると、人生を――というより、命を棒に振りかねませんよ」
「ですよね……」
と、数人の自衛官に付き添われて、私服に戻ったシナバーたちが会議室に入ってきた。
シナバーは、純礼に肩を抱かれている。
その背後に高山が付き添っていたが、スーツ姿に戻っても完全に自衛官たちに馴染んでいた。
シナバーが言った。
「ごめんなさい、遅くなって……」
純礼が添える。
「やっと震えが止まったみたい。怖かったよね……。シャワーの最中もずっと怯えてて」
「爆発とかした時は、別に平気だったんだけど……あ、死んじゃうのかな――とは思ったけど……。終わったら、急に怖くなって……」
「わたしの身代わりをさせて、ごめんなさいね」
「いいえ……自分で言い出したことだから」
篠原が席を立って、彼らを座らせる。
「シナバーさん、本当に申し訳ありませんでした。言い訳になりますが、爆破までするとは考えていなかったもので」
シナバーがうなずく。
「あたしもそう思ってました。なんの関係もないあたしを殺す理由なんかないし……。あの人、あんであんな無意味なことをしたんだろう……」
篠原は強引に話を変えるように、淡々と言った。
「検査の結果、犠牲者2人は首に吸血の痕跡があると判明しました――」
薬師寺に他者を操る能力がありそうことは、まだ確認されていない。悪戯に不安を煽ることはしたくなかったのだ。
シナバーが驚きの声を上げる。
「吸血鬼⁉」
だがその声は、お調子者にも見えるいつものシナバーのそれだった。恐怖はすでに過ぎ去っているようだ。
篠原は考えを変えた。
彼女は、現実を受け止め、それを乗り越えようとしている。乗り越えられるだけの精神的な強さと知力も備えている。だが、そのためには正確な状況の把握は欠かせない。
信頼すべきなのだ。
「そう呼べないこともありませんが……薬師寺はその行為によって、相手の人格を完全に吸収するようです。そればかりか、他者の人格を注入することも可能なようです」
「注入? どういうこと?」
「ハッカーにテロリストのスキルを付け加えたんです。すると、何が起きるか。例えば……引きこもりのニートをJリーガー変えることも可能なのかもしれません。肉体そのものは入れ替わらないので能力は完全には再現できないでしょうが、力も俊敏さも格段に上がります」
「ウソ……それ、チートじゃん!」
「確かに、無敵かもしれません。実際にITオタクのはずの城は、トップクラスの特殊部隊員にも遅れを取りませんでした。テロリストの訓練を受けた岩渕の能力を転移されたとしか考えられません。そしておそらく、朝比奈さんの奪取に失敗した場合は爆弾を起爆するように〝命令〟されていたのでしょう」
「命令? でもそんな大事なこと……人殺しの命令でしょう? 言っただけで従うものなのかな……?」
「言葉ではなく、心に直接指示を埋め込んだと考えられます」
「心を操った……ってこと?」
「すべては仮説の域を出ませんが、そうでも考えないと納得がいきません」
「でも、『家族が殺される』って……」
「だから、なのです。報告書には、『城には家族がない』と書かれていました。あの状況でシナバーさんを殺す意味があるとも思えません」
シナバーがうめく。
「それじゃ、嘘を信じ込まされて……?」
じっと聞いていた高山がため息をつく。
「どんどん現実離れしていきますね……」
「これこそが僕らが直面している現実だと覚悟してください。現実なんて、それほどあやふやなものなんです。量子の振る舞いを知っていれば、別に驚きません。感嘆はしますけれどね」
純礼はしかし動揺を見せていなかった。その手にはいつの間にか、タロットが握られている。
そして、1枚をテーブルに出す。
「戦車の逆配置……」
篠原が問う。
「何を占ったんですか?」
「私たちの今後です。24時間以内で」
「意味は?」
「暴走や失敗、そして困難を意味します……」
篠原はわずかに笑みを見せた。
「困難は想定済みです。ですが、失敗すればあなたが犠牲になってしまいますよ?」
純礼の口調は穏やかだ。
「それが宇宙の意志なら、わたしには逆らえません」
「諦めるんですか?」篠原は身を乗り出し、手を伸ばしてタロットの上下を反転させる。「これならどうですか?」
「戦車の正位置は、勝利や達成を告げますが……カードを操作するのは、邪道です」
「でも、運命は変えられるものなんでしょう?」
高山がうなずく。
「やられっぱなしというのは、面白くないですからね」
篠原がうなずく。
「朝比奈さんを守り通せば、僕らの勝ち。薬師寺を捕まえられれば、完全勝利というところです」
シナバーが言った。
「で、敵はその吸血鬼だけなんですか?」
「もうお分かりでしょうが、薬師寺は私的な軍隊を動かせます。提供しているのはネクストチップスでしょう。企業体としては関与していないとしても、CEOは敵だと断定します」
高山がため息をもらす。
「ですよね……。ってことは、日本のお偉いさんたちも手が出しにくい、と?」
篠原がうなずく。
「世界を牛耳る巨大企業に公然と楯突こうという気骨ある人物は、今の日本には皆無でしょう。しかも、ネクストチップスは今後もしつこく襲ってくるでしょう。ここまで手の内を晒した後で退けば、逆に弱みを教えただけの結果に終わりますから。一企業が自衛隊に――つまりは日本政府に牙を剥いた以上、朝比奈さんを奪うまでは終わらせられないでしょう。さらに言いにくいことですが、もうすぐここを出ていかなければなりません。以後は自衛隊の援助は得られません」
「どうして⁉」
答えたのは笠木だった。
「上からの命令です。事態が拡大して秘匿しきれなくなることを恐れたのか、さらに上から圧力がかかったのか……。ネクストチップスともなれば、合衆国政府にもモノが言えるでしょうからね」
「オカルトが国際問題化したってか⁉ とは言っても、頼みの綱の自衛隊まで……」
しかし笠木は淡々と言った。
「自分はあなた方に同行します」
「なぜ⁉ 命令違反になるのでは?」
「私的理由です。お気になさらずに」
篠原がうなずく。
「ですので、今後頼れるのは警察組織だけです。しかも事件自体を公にはできないので、大規模な援護は望めません」
シナバーがつぶやく。
「それじゃ、純礼さんを守れないんじゃ……」
シナバーは、自分が死の縁に追いやられたことをはっきり理解している。
篠原はため息をもらす。
「それでも、です。日本の進路を左右する権力者が占いによって未来を選択していると知られるわけにはいきません」
「それでうまく行ってるなら構わないのに」
「結果が正しいかどうかは、問題ではないんです。政権や大企業を批判したい人々は、ほんの小さな傷さえこじ開けて大問題に見せかけます。テレビや新聞を動員して、トカゲをゴジラだと信じ込ませることもできます。我が国の歴史には、そういう実例が山のように積み上がっています」
「でも、占いが選択の助けになったことは事実なんでしょう? そもそも占いなんて、どっちにするか迷った時に頼るものだし」
篠原がうなずく。
「僕が警察に転身したのも、サイコロを振った結果ですからね」
叫んだのは高山だ。
「そうなのか⁉」
「言ってませんでしたか?」
「本当にサイコロを振ったのか?」
「奇数が出たんで、転身しました」
「なんでサイコロなんか……?」
「迷ったからです。どっちが正解か迷うというのは、どちらを選んでも成功の確率は同じだという意味です。僕には未来は見えません。だったら、サイコロでもあみだくじでも構わないじゃないですか」
「だからって、サイコロって……?」
篠原は真剣そのものだ。
「量子の不確定性が議論され始めた頃、アインシュタインは『神はサイコロを振らない』と言ってその研究を否定しました。ニュートン力学の壁を破った彼でさえ、量子の世界には入り込めなかったんです。そんな量子の不確実性も、次第に正体が暴かれてきています。いわば、アインシュタインの復権ですかね。だから僕は、現実に起きていることを否定しません。否定はしませんが、神ならざる僕ごときは、迷うし、サイコロも振ります」そして、笑う。「占いなら、少しは正解の確率が高まるかもしれなかったですね。特に純礼さんの占いなら」
答えたのは純礼だ。
「おっしゃる通り、わたしの占いが全てを決めてきたわけではありません。経験豊かな指導者たちは、常に幾つかの選択肢をテーブルに並べています。優劣を付けられない、あるいは予測が拡散しすぎて判定に窮した時にだけ、占いを加えるのです。いわば、〝孤独な決断〟を完成させるための最後の一押しです。最初から占いに全てを委ねるような無責任な人物なら、大成できるはずもありません。わたしの占いは弱者の拠り所ではなく、強者の〝トリガー〟にすぎません」
篠原がうなずく。
「それでも、現実がマスコミに歪められることもあります。朝比奈さんの存在が暴かれれば、政権攻撃の道具にされかねません。ですので、証人保護以上の人材を割くわけにはいかないのです」
高山がうめく。
「それにしちゃあ、お偉方はうろたえてるじゃないですか。実際、あっという間に自衛隊にまで担ぎ出してきたんだから」
「朝比奈さんはさまざまな秘密を握っていらっしゃいますからね。中には他国に知られてはならない個人的な秘密もあるでしょう。とはいえ、過剰な警戒を見せれば、逆に日本国が占いの重要性を認めたことになってしまう。ジレンマなんです」
笠木がうなずく。
「これで状況は飲み込めたようですね。では、次はどんな手を打ちましょうか?」
篠原が引き取る。
「逃げるか、攻めるか、です」
シナバーがつぶやく。
「攻めるっていっても、相手の居場所は?」
「直感にすぎませんが、薬師寺本人はおそらくネクストチップスの別荘に匿われているでしょう」
高山が問う。
「根拠は?」
篠原の説明は淀みない。
「最も安全な場所だからです。当初僕は、ここにに攻め入ってくるのは薬師寺本人だと予測していました。城ともう1人の人格である刑部真司――この男は詐欺師なんですが、2人はすでに殺されていると考えていましたから。刑部は趣味の範囲内ですが、戦略の研究家でもあります。ハッカーと戦略家の能力を完全に手に入れているなら、残るは朝比奈さんの能力だけです。ならば傭兵に守られながら朝比奈さんに肉薄し、この場でスキルを奪うだろうと考えたんです。特戦群との直接対決を選んだ以上、必ず勝てるという自信があったはずですから」
「なるほど」
「しかし送り込まれたのは、城でした。城を研究所に入れることでシステム深部へのハッキングを行わせ、自衛隊の上層部を脅す材料を手に入れたわけです。これで僕らは特戦群という守りの要を失いました。城が使い捨ての手駒にされたのなら、刑部もまだ生かされている可能性が高い。薬師寺は安全な場所で全体をコントロールしているはずです。ですので、次に僕らの前に立ちはだかるのは刑部ではないでしょうか」
シナバーがうなずく。
「その説に賛成。だったら、どう対抗すればいいのかな……」
高山が笠木を見る。
「あんたが雇われ兵だったら、次はどんな手を打つ?」
笠木はわずかに考えてから言った。
「ターゲットを安全地帯から追い出すことに成功したのだから、追跡して包囲、力押しで奪う……ですかね。戦力差が圧倒的になりましたから」
「だったら、どう対抗する?」
「相手の裏をかく? これがチェスなんかのゲームだったら、包囲されたフリをしながら敵のキングに刺客を送ったりします」
篠原が笑う。
「それ、採用です」
「採用って?」
「薬師寺を狙いましょう。攻めるんです」
高山が叫ぶ。
「そんな無茶な!」
篠原は冷静だ。
「だったら逃げますか? 彼ら、追ってきますよ」
「しかし……」
「それで、どこへ逃げますか? この研究所以上に安全な場所が、どこかにあるんでしょうか? いつまで逃げればいいんですか? ゴールは、どこなんでしょうか?」
「ですけど……」
笠木も不満げだ。
「それはちょっと……今も言ったように、戦力差が――」
「少数精鋭なら、可能になりませんか? 戦力の大半は、僕らの追跡に投入されるはずです。別荘に残るのは、たぶん最小限のCEOのボディガードだけです。薬師寺をCEOから引き離せれば、チャンスは生まれます」
高山の顔に明らかな恐怖が浮かぶ。
「でも、どうやって⁉」
「それはこれから考えましょう」
「これだから、この人は……のこのこ付いてくるんじゃなかった……」
「その前に、1つやっておくことがあります」
シナバーが篠原を見る。その目は、輝いていると言っていい。
シナバーは、『好奇心に殺されても構わない』とうそぶくような女なのだ。
「やっておくことって、なに?」
篠原がシナバーを見据える。
「あなたの処遇ですよ」
「え? あたし⁉ 処遇って……?」
「あなたはここに残ってください」
「やだ! あたしも行きたい!」
「それはできません」篠原の視線は、なぜか冷たかった。「あなたは危険だ。敵の手先の可能性がある」
シナバーは目を丸くした。
「どういうこと⁉」
「城はあまりに簡単に深部へのハッキングを果たしました。電子戦班の抵抗もものともしませんでした」
「システムの情報が漏れたんじゃないの?」
「それでも、内部から何者かが手引きしなければなし得ないほど短時間に、です。なので、調べていただきました。そして、シナバーさんが使った休憩室の端末の裏側に、不審な通信装置が差し込まれていたのが発見されました」
笠木が後を引きとる。篠原と打ち合わせは済ませていたのだ。
「その端末はほぼ使われていませんが、システムには接続されています。リアルタイムでのハッキングの入り口にされたのです。そこからマルウェアを送り込まれた痕跡も残っていました」
シナバーは一瞬息を呑んで、言葉を失った。そして、かすれた声を絞りだす。
「ウソ……。だって、あたし……純礼さんと一緒だったのに……」
「1人になるチャンスはあったはずです。個人用の部屋ですから監視装置はつけていませんが、いずれ証拠も出るでしょう。ですので、今後数日間はこの建物内で監視させてもらいます」
「でも……なんでわざわざ遠隔でバックドアを仕掛けるの? 物理装置を残しておくなんて、バカじゃん」
「マルウェアがセキュリティ班に無効化されたら、直ちに次の手を送り込む必要があります。だから彼らは、力任せにでも研究所に近づかなければならなかったんです。遠距離からでは、通信が不安定になりますから。仕込んだのは、あなたしか考えられない」
「あたしだったら通信機なんて必要ないし、痕跡も残さない!」
しかし、笠木の厳しい表情は変わらない。
篠原がため息をもらす。
「残念です。シナバーさんは信用できると思っていたんですがね。処分は事件が終わってから、警視庁の規定に従って行われることになるでしょう」
「なんで……? しのさんだって、あたしならそんなヘマしないって分かってるでしょう⁉」
「残念です」
「あたし……命まで狙われたのに……」
「だからこそ、疑わしいんです。あなたは爆発の瞬間まで冷静に見えました。人質にされて『殺す』と脅されていたのに、です。絶対に死なないと分かっていなければできないことに思えます」
「だって、純礼さんの占いが! 絶対安全だって!」
高山がシナバーを見つめる。
「裏切ったって、本当なのか……?」
「違う! そんなことしない!」
篠原が断じる。
「議論の余地はありません。ただでさえ危険な作戦です。疑いのある人物を連れて行く余裕はありません」
「そんな!」
「大丈夫、ただこの研究所で軟禁されるだけです。今はまだ、疑わしいというだけですから。ただし、女性自衛官に見張られることになります。無害なやりとりなら、僕たちと通信することもできます。あるいは、ここでできることの援助はお願いするかもしれません。あくまでも疑いが晴れれば、ですが」
「そんな……」
笠木が内線で女性自衛官を呼ぶ。
「来てほしい。大河内さんを保護することになった。それと、私は本日付けで警視庁に移籍する。なので今から群長と所長の席は副群長に移行する」
シナバーが連れていかれると、計画が細部まで練り込まれた。
彼らが研究所を出たのは夜明け前だった。
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