5・〝ワンドのエース〟逆位置
福島側の受け入れ準備が整うまで周辺を遊弋したヘリは、空がうっすら白み始めた頃に研究所に接近した。
特戦群の研究所は、広大な森の中にぽつんと建てられた大企業の保養施設、あるいは大規模倉庫のような建物だった。大きく旋回すると、その先に廃墟のような市街地が続いているのが見分けられた。
窓の外を見下ろした高山がつぶやく。
「自衛隊って、金持ちなんですかね……」
笠木はうなずいた。
「全体としては今でも貧乏所帯ですが、自分たちの部門は確かに優遇されてますね。中共との緊張は一時ほどではありませんが、常態化しています。シェルターや弾薬の備蓄も確実に拡充されていますし、軍用技術や兵器開発にも資金が回されるようになりました。まあ、アメリカ国防省からの凄まじい圧力があってのこと、ではあるんですけどね」
「それでもこんな大きな施設を持っていただなんて……」
「最も進化したのが、この施設です。周辺の森全体は特戦群の訓練地で、実弾も気兼ねなく使用できます。研究所の地下を警備するという意味合いも兼ねています。地下3階分の施設では、サイバーセキュリティの高度化や人材育成も行っていますし、量子技術を基盤にした研究開発も始まっています。同盟国や企業の軍事技術研究者も開発に加わってもらっています。いわば、合衆国における国防高等研究計画局――ダーパのような機関になりつつあります」
「そんなもの、いつの間に作ったんです? しかも秘密に、でしょう?」
笠木が窓の外を示す。特に何かを隠す様子もなく、隊の秘密を世間話のように打ち明けた。
「当初は帰還困難区域が自衛隊に押しつけられたような感じでしたが、怪我の功名ですかね。表向きは民間施設を装って整備しましたが、誰も近づかない地域なので反対デモもありませんでした。あっちが浪江町の国道114号線で、その南側の廃棄施設を密かに改築しました。汚染地域なので長い間交通が遮断されていましたが、実際には風向きの関係で放射線量は温泉湯治程度にしかなりません。改修工事が秘密裏に行えた理由です。数年前の大規模改修で地下深くに先端軍用技術研究所を新設しただけではなく、演習地内のデジタルテレビ中継局を実験的な通信システムの送受信地にも流用できました。最近では研究分野も広がっていて、電子戦兵器から新素材までカバーしています。ここでなら公表しにくい実験も行えますので、重宝します。お付き合いのある民間企業の試験地としても便利に使われています。近くに無人になった市街地域もあるので、自動運転車の試験などにも利用しています。特に米軍関係者は複合素材に興味を持っていて、研修に来る専門家を捌くのに苦労するほどです。ここから国道399までの広大な南側山間地が、試験場や演習地になっています」
篠原は意外そうだ。
「僕らにそんなに話を聞かせてしまっていいんですか?」
「先ほど、あなた方の素性のチェックが終わりましたから。セキュリティークリアランスには、細心の注意を払っています。まだ最深部の研究はお見せできませんが、そこ以外なら自由に見ていただいて構わないというレベルです」
「なるほど、〝受け入れ準備〟とはそういうことだったんですね」
「気を悪くなさらずに」
「いえ、当然の手順です」
高山が言った。
「俺も調べられたのかな?」
「日常の素行、思想信条、交友関係、銀行口座などなどは念入りにチェックさせていただきました。ただ、以前お付き合いがあったスナックのママさんと完全に切れてらっしゃると確認するのに、少し手間取りました」
「おい! それ、黙っててくれよ!」
「もちろんです。あなたがスパイ行為を疑われるような行動をなさらない限りは、娘さんに知られるようなことはありませんので、ご安心ください」
「脅迫ですか⁉」
篠原が穏やかに諭す。
「日本もそこまで進歩したってことですよ。あなたでさえそこまで調べられるなら、怪しい人物が入り込むのは困難でしょう。喜ばしいことと考えてください」
笠木がしみじみとつぶやく。
「ようやく、ここまで来られました。それでもまだ、充分とは言えませんが。スマホのカメラを出したまま『中を見せろ』とゴリ押ししてくる議員も後を絶ちません。大半は、中国との関係が深いことを隠さないような方々ですがね」
「ご苦労は理解できます」
ヘリは研究所に隣接したヘリポートに降りて彼らを下ろすと、再び飛び去った。
まだ日は登っていないが、周辺はうっすらと明るくなっていた。吹き寄せるそよ風には、森の匂いが感じられる。
篠原らは笠木に先導されて、広大な駐車場の傍らの歩道を進む。駐車場に停まっている車は多くはなかった。その先に、3階建てほどの建物が広がっている。
笠木の背後を歩く高山が尋ねた。
「車、少ないですね。職員は何人いるんですか?」
「詳細は秘密ですが、研究員や周辺業務の要員が200名ほど。特戦群の訓練要員を除いて、です」
「そんなに! 確かに広そうな施設ですけど……」
「シェルターも兼ねていますから、地下の方が深くなっています。施設内に居住施設がありますので、基本的に通ってくる所員は少数です。〝陸の孤島〟のようなものでしょう。なので市街地とのシャトルバスを運行しています」
「それで機密保持は大丈夫なんですか?」
「大丈夫にすることもまた、重要な訓練ですから。詳細はお教えできませんが」
「だったらこんな大きな駐車場は必要ないのに……」
「広い更地は、何にでも使えます。非常時は滑走路にもできます。最悪、ここから大陸にミサイルを撃ち込むことも必要になるかもしれません」
高山は驚いた表情を隠さなかった。
その間篠原は、純礼の背後をカバーしながら周囲を冷静に観察していた。
純礼は、好奇心を隠せない少女のように辺りを見回している。
エントランスが近づく。
無駄な装飾がない倉庫のような外観の研究所は、遠目以上に大きかった。しかし、警備員らしい姿は見当たらない。
高山がつぶやく。
「秘密の研究所の割に不用心じゃないですか?」
篠原が答える。
「あっちこっちに監視カメラが隠されていますよ。それこそ、過剰なほど」
「え⁉ どこに?」
先頭に立つ笠木は当然のことのように言った。
「手練れの刑事さんでも見つけられないということは、担当者に伝えておきます。喜ぶと思います。篠原さんは本当に発見できたんですか?」
「いいえ、論理的帰結です。これほど秘匿性が高い施設なのに、警備が見当たらない。だったら見当たらないようにしているとしか考えられない。上空からもドローンや無人攻撃機で監視しているんでしょう? というか、施設に接近しようとするドローンを攻撃するシステムも配置しているんじゃありませんか? 指向性エネルギー兵器、とか」
笠木が肩をすくめる。
「だからあなたが欲しいんです。おっしゃる通り、敵ドローンの探知と無力化は重要な研究課題です。ですので、ここでも実験の最終段階を迎えています。中共やロシアがちょっかいを出してきたら、それこそ格好の実証実験の対象にしてやります」
「そこまでできるなら、量子研究の現場を退いた僕が出る幕などないでしょうに」
「とんでもない。今の成果があるのも、あなたが基盤を整えてくださったからです。特に地下の暗号班からは、『何がなんでも協力を取り付けて欲しい』と泣きつかれています」
「僕の知り合いもいるのかもしれませんね」
「もちろん。なぜ研究から離れて警察に?」
「怖かったんですよ。のめり込む性格なんで、取り込まれてしまいそうでね。狂っていく同僚の姿を見せられたら、とてもとても」
「確かに、量子研究者には奇人が多いようですがね」
「奇行程度なら笑い話ですみますが、深みに捕らえられると戻れなくなります。数学や理論物理には、そういう魔力があるんです。悪魔が棲んでいる――そう、本気で怯えました。特に量子力学と相対性理論を統合すると期待されている超弦理論になると、ほとんどオカルトの世界ですから。それに、人間の心理の研究には警察の方が適しています。好奇心は失くせないものでね、ちょっとアプローチを変えてみたくなったんです」
そして彼らは研究所の自動ドアをくぐった。
白を基調にしたエントランスはシンプルだが、清潔なホテルのロビーを思わせる。奥にはラウンジ風のスペースが設けられ、早朝にもかかわらず10人以上が寛いでいた。スーツ姿やカジュアルな服装の人々に混じって、制服姿の自衛官も目につく。
1人の女性自衛官が、篠原たちに気づいて走り寄ってくる。
「しのさん、お久しぶり! たかちゃんも!」
〝シナバー〟だった。
高山がつぶやく。
「いつから〝ちゃん〟付けになったんだよ……」
篠原が答える。
「シナバーさんも来ていたんですね。自衛隊に入隊しましたか?」
「これ、コスプレ! 本物を着られるんだから、せっかくだし、お願いしたの。……あれ? 本物でもコスプレに入るのかな?」
しかし高山は、笑いを噛み殺していた。
「相変わらずだな。だが、女子高生の制服の方が似合ってるぞ」
高山が初めてシナバーに会ったときは、確かにセーラー服を着ていた。
「わ、おっさん趣味」
「昭和のおっさん、だからな」
笠木がうなずく。
笠木はヘリに乗っている間にシナバーに関する詳しい情報を受け取っていたようだ。
「しかし、シナバーさんの才能は本物ですよ。ウチのセキュリティー班と議論してやり込めたそうです。というか、みんな『刺激的だ』と感激したようです。型にはまった正統派ではなく、現場の斬り合いを臨機応変にくぐり抜けてきた野武士のようだ、と」
篠原と高山が同時に言った。
「知ってます」
篠原が続ける。
「でもなぜ、シナバーさんまで呼んだんですか?」
篠原はシナバーは必要だと考えていたが、それは警視庁からの助言やサポートを期待してのことだった。
「あなたの推しが強かったからです。〝敵〟がサイバー戦に精通しているなら、有能な民間人の協力も必要かと考えました」
「ホワイトハッカーのリクルートですか? もしかして、彼女にも目を付けていましたか?」
「警視庁の情報もそれなりに入ってきますのでね。関心を持って見守っていたことは事実です。電子戦班も、『ぜひ欲しい人材だ』と言っています」
「セキュリティ班とは別なんですか?」
「セキュリティは研究所を守るだけ。電子戦班は撹乱や攻撃がメインで、実行部隊とも緊密に連携します。実際に戦場に出ることも想定した部隊です」
シナバーが笑う。
「電子戦の人たちと模擬戦もやってます。電子戦室ってところまでは入れてもらえなかったから、ラップトップの中だけのハッキング対決。あの人たち、すぐに強くなるから勝ちにくくなってきたけど」そして純礼に握手を求める。「占い師さんなんでしょう! ぜひあたしも占ってください!」
純礼が穏やかにシナバーの手を握る。
「お時間があったら、ね」
「あたし、占いにも関心があるんです」そして身を寄せ、辺りを見回して声を落とす。「こんな秘密施設に匿われるって、とんでもない重要人物ですよね。超能力とか、あるんですか?」
純礼が苦笑する。
「とんでもない。しがない占い師ですよ。ただ、ちょっと偉い方達に知り合いが多いってだけ」
「やっぱり、ね。国家機密の宝庫ってことなら、この警備も当然かもですね」
「大袈裟ね」
「大袈裟なのは、ここで守られるってこと。知ってます? ここにいる人たちって、ほとんど拳銃を持ってるんですよ。制服の人は全員あなたの警備員。あっちこっちに武器を用意してあるみたいだし。警察と違って、鍵なんかかけてないし。いつでも臨戦体制なの」
それを聞きつけた笠木が、篠原に耳打ちする。
「彼女にそんなことを教える許可は与えていません。たった数時間で、あれです。あの観察眼と勘の良さは、天性のものでしょうね」
「だから推したんです」
「彼女といいあなたといい、学んでも身につかないような才能をお持ちだ。そういう人材は、ぜひリストアップしておきたいんですよ。自衛官にはならないとしても、いざという局面では協力をお願いしたいので」
「敵にならないように、という側面もあってのことでしょう?」
「否定はしません。それでも、敵の接近から保護する必要はありますから。我が国にとって有益な人材は、守り抜かなければなりませんので」
※
夜がふけるまでは、彼らはそれぞれに許された範囲での自由を認められた。
シナバーは篠原と共にセキュリティ班に取り巻かれ、高山は屈強な特戦群隊員ともに武道場で汗を流した。純礼もまた女性自衛官たちに案内されて施設を巡りながら、求めに応じて占いを披露した。
そしてそれらは、すべて地下ブロックの電子戦班でモニターされていた。
いわば、敵を誘い出す〝餌〟でもあったのだ。
提案したのは篠原だった。
朝比奈純礼が特戦群に匿われたことは、おそらく隠し通せない。ならば、それを利用すべきだという判断だった。
所内の隅々までが監視カメラでモニターされていることは自明だ。薬師寺が襲撃を始めるにせよ、特戦群とは戦えないと諦めるにせよ、内部へのハッキングは必須になる。そして最も必要なのは、純礼の行動の把握や居場所の特定だ。
敵はその情報を求めてデジタルスペースを彷徨うことになる。
その痕跡を電子戦班が追尾できれば、敵の思考と行動を先読みして攻撃に転じ、根本から断つことも可能になる。
それは電子戦班にとって、極めて高度な実戦訓練だった。
夜、彼らは2階の小さなラウンジに集まって寛いでいた。
純礼もすでに女性自衛官の制服に着替えている。本人はその着心地に不満をもらしていたが、篠原の強い要請を断ることはできなかったのだ。
小さなテーブルを挟んで、シナバーが純礼に占われている。その一言一言が、シナバーには突き刺さったようだ。
シナバーがつぶやく。
「結婚は40歳を過ぎてから、か……。あと15年、寂しい一人暮らし?」
純礼がほほえむ。
「一人暮らしが寂しいなんて、誰が言ったの? たくさんの殿方と自由にお付き合いできるのに。あなた、そんなに怖い服を着てても、可愛いんだから」
「あたし、〝そっち〟はあまり得意じゃなくて」
「今が面白いんでしょう? だったら、とことん楽しめばいいのよ。あなたはあれもこれも、っていう人じゃない。興味がなければ近づかないし、興味があれば止まらない。他人の評価なんて眼中にない。誰も手綱をつけられない暴れ馬、みたいなものかしら」
「やだ、それじゃよけい結婚が遠のいちゃう!」
「そもそも、本当は結婚になんか関心はないんでしょう?」
「まあ、今のところはね」
その会話を高山が苦笑しながら眺めていた。高山自身は、2度と占わせないと心に決めている。
篠原が身を乗り出した。
「聞いてみたかったことがあるんですが」
純礼が嬉しそうに身を乗り出す。
「何を占います?」
「そうじゃなくて、あなた方の世界での考え方なんですけど」
「どんな?」
「たとえば、パラレルワールドとか」
シナバーが目を輝かせる。
「あたしも聞きたい!」
シナバーは、明らかに結婚の話より興味を持っているようだった。
純礼がシナバーを見つめる。
「それが、あなたの婚期が遅れる理由。好き嫌いがはっきりしすぎているからよ。常識は気にしない人だし。長所でもあり、欠点でもある。そもそも、〝婚期〟なんていう単語はあなたの辞書にはないのでは?」
シナバーが小さく舌を出す。
「ですよね……。結婚は、やっぱり今の暮らしに飽きてからですよね」
「それでいいのだと思うわ」
篠原が続ける。
「物理学の世界では、超弦理論から導かれる11次元の世界にはパラレルワールドが実在するという議論があります。シュレディンガーの猫という思考実験では、箱の中の猫の生死は観測するまで決まらないとされています。しかし、実は生死双方に宇宙が分岐して、観測者がそのどちらかに行ったにすぎないという考え方もあります。数学的に矛盾しない宇宙は、いくらでも存在を許されるという研究者もいます」
「『数学的宇宙仮説』ですか?」
篠原とシナバーが同時に身を乗り出す。
「ご存じですか」
「名前だけは。長い数式とか、難しい理屈はまるっきり理解できませんけど」
「あなたの話を聞けば聞くほど、理論物理学の世界との共通点があるように思えるんです。その最たるものがパラレルワールドかな、と。あなた方はどのように考えているのでしょうか?」
「スピリチュアルな世界でも、考え方は様々。共通な点は、人は、考え方次第でパラレルワールドを移動できるといった点でしょうか」
「考え方で?」
「方法も様々、理屈もいろいろですが、存在を否定する方はいないでしょう。しかし、証明しろと迫られれば『信じなさい』と答えるしかありません。そう言ったお話をご商売にしているお仲間もいますし」
「あなた自身はどう考えます?」
「人は常にパラレルワールドを行き来しているものだと思います」
「常に? 今も、ということでしょうか」
「もちろん」
「僕も、ですか?」
「学者さんから警察官への転身なんて、『世界の乗り換え』そのものではありませんか。あなたは、今のわたしが存在するパラレルワールドに移動してきたんです」
「でもそれだと、なんでもこじつけられるのでは?」
「だから、証明のしようがないんです。でも、『量子力学を研究し続けているあなたがいる宇宙』は実在しない――ということもまた、証明はできませんよね」
「確かに。それは悪魔の証明です」
「だからわたしたちは、空間も時間も、自由に変更できるんです」
高山がたまりかねたように鼻で笑う。
「時間も、ってか?」
「おや、高山さんは信じられませんか?」
「すまんね。頭が硬くて話についていけなくて……。だからって、時間が変えられるっていうのはちょっと……」
「嘘でも冗談でもありませんよ」
「タイムマシンでも持ってるのかね?」
「持ってますよ。ただし、わたしが、ではありません」
「だったら誰が?」
「わたしも、あなたも、全ての人が持ってます」
「は? 俺がって……どういうことだ?」
高山の目が篠原に向かう。対応に窮して、助けを求めたようだ。
篠原が肩をすくめる。
「僕を頼らないでくださいよ。その話、楽しんでいるんですから」
「あなたまで⁉」
「時間は、そもそも実態のないものですから」
「はい? 時間はない、と?」
「時間とはエントロピーの増大、つまりは状態の変化を便宜的に定義しているにすぎません。早い話、海の底と山の頂上では時間の流れが変わります。SFで描かれるように超高速で宇宙旅行をすれば、浦島太郎が現実になります」
「相対性理論、でしたっけ。そんな話は聞いたことはありますが、俺らの暮らしとは無縁じゃないですか」
「とんでもない。GPSは今やどんなスマホにも入っていますが、正確な場所を知るには特殊相対性理論などによる補正が欠かせません。時間が様々な条件によって変化するからです。そして、補正は現実に行われています」
純礼が言った。
「初期の仏教では、時間は未来から過去へ向かって遡っているという考え方もあります」
「未来からって……逆でしょう⁉ 宗教なら何を言ったって構わないとはいえ、馬鹿にしすぎです!」
篠原がほほえむ。
「量子力学の世界でも、そう主張する研究者が増えていますよ。無数の可能性を重ね合わせた未来の中の1つが現在に現れ、現れた瞬間に過去になっていく、と。それもパラレルワールドの考え方です。量子の位置は観測するまで確定しませんが、今この瞬間の観測が過去の量子に影響するという実験結果もあります。これなどはタイムマシンの一種と言えるかもしれません」
「ついていけない!」
シナバーも、面白そうに高山を眺めている。
「3対1」
「勘弁してくれよ……」
純礼が高山を見つめる。
「駆け出しの頃、厳しい訓練をされませんでしたか?」
高山は逃げられないと観念したようだ。
「そりゃ、当然だ。警官だからな。道場で骨折させられたこともある」
「その頃、教官をどう思っていましたか?」
「若かったからな……正直、憎んでいたかもな。やめようと思ったことも数えきれない」
「それで、今はその教官をどう思っていますか?」
「もちろん、感謝している。厳しく鍛えてもらったおかげで、命拾いしたことも1度や2度じゃない」
純礼がうなずく。
「過去が書き換えられたじゃありませんか」
「は? どういうことだ?」
「あなたは何かのきっかけで、考え方を変えたんです。その途端に、教官を憎んでいた過去から、感謝する過去へとパラレルワールドを移動したんです。あなたのタイムマシンを使って、過去を改変したともいえます。同じマシンで、未来も選べるんです」
高山はポカンと口を半開きにした。
篠原は納得ができたというようにうなずく。
「なるほど、そういうことなんですね。あなた方の考え方が掴めた気がします」
しかし高山は不満そうだ。
「なんだか、言いくるめられたような気が……。だがそんなものがタイムマシンと呼べるのか? それこそ、証明しようがない。ただの気の持ちようだろうが」
「その通りです。でもあなたは、この現象がパラレルワールドではないと証明できますか?」
「証明って……そりゃ、常識で考えれば……」
「スピリチュアルなお仲間の間では、わたしのような捉え方が常識。それこそがパラレルワールドが実在する証拠なんです。常識は1つではないということです。まあ、信じるか信じないかは、あなたのご自由ですが」
シナバーが言った。
「それって、面白い視点ですよね。あたしも少し調べてみたくなりました」
「なんでも聞いてくださいね」
高山がつぶやく。
「お前まで……。だって、女なのにゴリゴリの理系だろうに」
「理系なのに、たまたま女なの。それにほら、篠原さんだって目がキラキラしてる」
「篠原さん……あんたまで……」
篠原がうなずく。
「理系こそ、考え方を柔軟に維持しておく必要があるんです。過去の定説がひっくり返ることなんて、しょっちゅう起きていることですから。実際に、量子的な揺らぎは分子レベルのみならず、数10キログラムという大質量の物体でも観測され始めています。その度に、定説は書き換えられます。宇宙が姿を変えます。これからも、何度も変わっていくでしょう。10年後には、朝比奈さんの理屈が数式化されているかもしれません」
純礼が笑う。
「そうしたら、本当にこの肉体で過去へタイムトラベルできるかもしれませんね」
「その時は、ぜひご一緒に」
彼らの歓談はそのまま数時間続いた。
2階のラウンジには、いつの間にか笠木も加わっている。
そして夜10時過ぎに、襲撃が始まった。
笠木の携帯が振動する。
「笠木だ」
『動きそうです。直接研究所に突入してくる気配があります。現在は市街訓練地域に分散して進行中のようです』
「通信傍受ができたのか?」
『内容はまだ解読できていません。しかしおよそ10名が連絡を取り合っています』
「ドローンでの確認は?」
『高度な探知対策が施されているようです。最新の赤外線遮断スーツを装着していると思われます。今、設定を調整して探知できるように試みています。ただ、動体検知には時折反応があります。遅すぎる移動速度に耐えきれない者もいるようです』
動体検知センサーには、一定速度以上の移動がないと反応が現れない。侵入者たちはその機能を知って、あえて動きを遅くして行動しているのだ。
「接触はしたのか?」
『これまでは様子見でしたが、敵のパターンはおよそ掴めました。反撃してよろしいですか』
「許可する」
『対象の通信を潰します。以上』
篠原が、通話を切った笠木に言った。
「通信、解読できませんか?」
「軍用の量子暗号を使われてはね……」
「手が出せませんか?」
「それでも得られた情報は多いですよ。何より、相手がそういう連中だと確認できました。最新装備を備えた軍人、あるいはそれに準ずる組織で確定です。我が日本には、そんな組織は特戦群しかありません。米国のPMCだと考えるのが自然です。薬師寺だけでは動かせるはずのない者たちです。彼らを雇うだけの権力と資金力を持つ後ろ盾も得ている証拠になります」
「それは……」
「そもそもの計画では、ネクストチップスの別荘地に隠れる予定だったのでしょう? CEOが滞在予定なら、相応の警備員も拡充しているはずです。PMCを呼び寄せていてもおかしくありません」
「やはり、彼らですか」
「予測していたんですか?」
「不自然さは感じていました。警備厳重な別荘地にたまたま匿ってもらえるというのは、話がうますぎる気がしまして」
「さすがですね。テロまがいの大袈裟な破壊活動は、あなた方を怯えさせる布石だったのかもしれません」
「確かに、潜り込める穴蔵が欲しくなりました」
「真っ先に我々に声を掛けていただいたのは、正解でした。瞬時に正解を導けるというのは、驚くべき才能です」
「それは、朝比奈さんを守りきれてから聞きたい言葉ですね」
「理由は不明ですが、CEOは薬師寺へ協力することを決断したのでしょう。しかも中途半端な関与ではありません。自身とネクストチップスの存亡をかけた決断だったに違いありません」
「退けられますか?」
笠木は不敵に笑う。
「正体不明の敵に対するより、格段に戦いやすくなりました。つまりこれは、最新装備を駆使して優劣を競う〝実戦訓練〟になったということです。こちらも独自の量子技術を駆使しますが、力比べですね。時間は多少かかりますが、引けは取らないはずです」
「攻めてきますか?」
「らしいです。10人ほどが動いているようですね」
「想定以上のチームですね。単独か少数精鋭で来るかと思っていました」
「日銀テロの規模から考えれば、これでも最低限の人数でしょう。しかもその程度で特戦群に喧嘩を売れるのは、PMCの中でも相当の手練れだと考えるべきです。中には特殊部隊からの転身組も多いですから」
「武器もそれなり、ということですね」
「自衛隊のクレイモアは紛失を調査しましたが、欠損はありませんでした。隊の備品管理は徹底していますから、それは信頼できます。海外から持ち込まれたものだとすると、武装に不足はないと想定できます」
「スティンガーも考えすぎではなかったということですね」
「もっと過激なものもあるかもしれません」
「どうやって税関をすり抜けたのか……」
「ネクストチップスならプライベートジェットの行き来も多いですから、不可能ではないでしょう。戦闘員も密入国しているようですし」
「死人は出ないでしょうね?」
「相手の出方によります。しかし彼らでも、同盟国の〝軍隊〟を襲って死者を出す危険は冒せないでしょう。米軍は中共軍やロシアも相手にしなくてはなりません。軍人同士の確執を生んで、日本との同盟を危うくするわけにはいきませんから。おそらく実弾は使用しないでしょう。銃を使うとしても、ゴム弾のような殺傷力の低いもので、ナイフなどの接近戦がメインになると思います」
「ゴム弾、ですか?」
「とは言っても、馬鹿にできませんよ。当たりどころが悪ければ骨折もしますし、ゴーグルを吹き飛ばされれば失明することもあります。脳震盪で気絶、ぐらいのことは普通に起きます。着弾のエネルギーは実弾と大差ありませんから。負傷者は避けられないと覚悟していますが、彼らにとっても和解の余地を残しておくことは不可欠です。あからさまな殺傷兵器を使えば、軍の友好関係は破綻します。PMCも元軍人が主体ですから、その一線は越えられないはずです」
「だから〝実戦訓練〟なんですね」
「特戦群の訓練で負傷者が出るのは、日常ですから。『訓練にPMCの力を貸していただいた』という言い訳は、日米双方にとって格好の逃げ道になります。ネクストチップスがたとえ国家を超える力を誇る企業体だとしても、米国軍に喧嘩を売るような不義理はできないでしょうから」
「では、馴れ合いの芝居になる、と?」
笠木に笑顔はない。
「ご冗談を。PMCにとっては大きな収益がかかったミッションでしょう。自分らも、朝比奈さんを奪われるわけにはいかない。国家の根幹が揺らぎかねないのでしょう? 戦争とは違ってルールは設けますが、意地と実力を叩きつけ合う真剣勝負ですよ」
「ルール?」
「命は取らない。それだけです。相手が再起不能になっても責任を問われることはない、ということでもあります」
その会話を横で聞いていた純礼は、無意識に両手でタロットを切っている。
笠木が純礼に言った。
「では、予定通り移動しましょう。高山さんとシナバーさんは、すみませんがセーフルームで待機をお願いします」
※
笠木に先導されて地下の電子戦室に移動した篠原は、薄暗い室内に張り詰めた緊張を嗅ぎ取った。その後ろで、純礼が室内を物珍しそうに眺めている。
室内前面の大型ディスプレイには研究所周辺の地図が映し出されていた。
10名以上の隊員が、入り口に背を向けて座っている。彼らが見つめるコンソールの明かりが、その顔をうっすらと照らし出していた。通信傍受、静音ドローンの操作、監視カメラ解析、戦況予測などの任務を分担していると説明されていた。それぞれ小声で、ヘッドセット越しに連携をとっている。
電子戦部隊にとっては、まさに貴重な実戦訓練の場となっていた。
ディスプレイの旧市街地――市街戦演習地に、赤い点が1ダースほどプロットされていた。その周囲には、同数の青い点が輝いている。
笠木は、最後尾で全体を見渡している班長に近づく。
「状況はどうだ?」
「群長。敵はおおむね把握できました。今のところ、演習地を進攻する一団以外は発見されていません」
「お客さまの前では〝所長〟と呼ぶように。一点突破か……接触は?」
「向こうが巧みに避けています。こちらの配置が完璧に掴まれていますね。反撃の端緒が掴めません」
「航空支援があるのか?」
「そのようです。米軍の攻撃型ドローンや監視衛星まで動かしているかもしれません」
「米軍の全面支援を取り付けられるとも思えんが……。やはりあちらさんも近接戦闘訓練のつもりなのかもしれんな」
「しかし、攻撃にまで使われると厄介です」
「まさかミサイルを撃ち込んではこないだろうが……念のために、陸将からインド太平洋軍に話を通してもらう。PMCが無理強いしているなら、手を引くだろう。篠原さんたちはここで待っていてください」
そして笠木はいったん室外に出た。
篠原の目は前面ディスプレイに釘付けになっていた。
青い点が近づくと、弾かれたように赤い点が離れていく。青は赤を阻むようにして、後退させようと動く。まるで、敵対する昆虫の集団がせめぎ合っているようだった。
それでも全体としては着実に研究所に近づいていた。
地図上は、小さなビルや民家などが入り組んだ市街地だ。身を隠す場所は多く、それゆえに市街戦の訓練に使用されているのだ。高い視点からの情報、特に赤外線感知データがなければ考えにくい動きだった。
特戦群の対赤外線センサー対策も無効化されているようだ。
篠原は班長に尋ねた。
「彼ら、研究所に近づいて何をする気でしょうか? 陽動ではありませんか?」
「そう考えています。他方向の監視も怠っていません。まだ撃ち合いにはなっていませんが、向こうも実弾を装備している前提で行動しています」
と、1箇所で交点が接触した。
「あれは⁉」
隊員たちの会話が急に頻繁になる。班長のヘッドセットにも状況報告がなだれ込む。
「ナイフ戦のようです。敵1名、行動不能にしました。しかしこちらも重傷を負ったようです」
「危険ですか⁉」
「短時間なら対処できます。状況終了までは保つはずです。応急処置の訓練も重ねていますから」そしてニヤリと笑う。「ただし負傷者は、ビールをおごらされることになるでしょうね。給料1ヶ月分――ぐらいですかね」
そこに笠木が戻る。
「米軍の支援は遮断した。司令官が平謝りだったそうだ」
篠原が言った。
「現場の先走りですか?」
「民間に転身した元上司に頼まれれば、嫌とは言えないこともあるのでね。迷惑ですが、それも米軍です。……とはいえ、ここまで強引だとは想定外でした」
「米軍の規律は、その程度のものなんでしょうか?」
「担当者もいずれはPMCに転身するかもしれません。恩を売っておきたいんでしょう」
「だとしたら、この先も危ないのでは?」
「PMCの暴走ならともかく、米軍の支援で自衛隊基地を攻撃したと分かれば間違いなく国際問題になります。期せずして、米軍との交渉に使えるカードが手に入りました」
「航空支援は遮断できても、敵の武装も定かではないのでは……?」
「ガチンコの実戦訓練ですから、あらゆる事態を想定しています。それで負ければ、特戦群は1から鍛え直しですね」
純礼がぽつりとつぶやく。
「負けは困ります」
笠木は純礼を見る。
「もちろん、最悪の場合です。そして我々は、最悪をねじ伏せる訓練を積んできました。期待していただいて構いませんよ。しかし、アメリカの正規軍まで引っ張り出したとは驚きです。朝比奈さんは想定を超える重要人物だ、ということなんですね」
途端に光点の接触が激しくなった。
班長が報告した。
「銃撃戦、始まりました」
と、光点のいくつかが点滅し始める。室内の緊迫感が跳ね上がる。
笠木が説明する。
「点滅は行動不能です。当然向こうもボディアーマーを着用していますから、死者は出ていないでしょう。ちなみに、アーマーの性能は素材技術に強い日本の方が優っていると思います。軽いですが防弾性能はレベルⅣで、ライフル徹甲弾でも貫通できません。ただし、状況が長引くとナイフの傷での失血死は考えられます。こちらの損傷も軽微とは言えなさそうですしね……」そして班長に向かう。「我が方に致命傷を負った者はいるか?」
「現在のところ、敵さんは意図的に殺傷を避けているということです」
篠原がつぶやく。
「互いに腰は引けている――か……。読み通りですね」
と、班長の口調が緊迫する。
「研究所の反対方向から接近してきた敵を1名、狙撃しました」
笠木が確認する。
「絶命したか?」
「進行は止めましたが……動いていますね。ゴム弾ですし、心臓を狙わせました。アーマーがあれば致命傷にはなりません……おそらく」
「不満かもしれないが、PMCとはいえ、おそらく米国籍だ。迂闊に殺すわけにはいかない。後続は?」
「今のところ単独進攻のようです」
さらに室内の会話のトーンが上がる。
「本館へのハッキング、一気に増加しました。内部の監視カメラのデータを漁っているようです。複数で目標を探索していますね」
「始まったな。陽動も含まれるだろう。ザコは確実に見分けるように」
「これ、最高の訓練ですね!」
篠原が純礼の手を取る。
「では、観戦はここまでにしましょう。退避です」
「分かりました」
その手には、1枚のタロットが握られていた。
篠原がそれに目をやる。室内の薄暗さにもかかわらず、気づかない間に状況の展開を占っていたようだ。
「カードはなんと?」
「〝ソードの7〟の正位置。向こうは何か、奇策を使ってくるようです」
篠原が表情も変えずにうなずく。
「でしょうね」
と、モニターに異変が起きた。班長が報告する。
「敵軍、後退を開始しました」
笠木がニヤリと笑う。
「奇策上等。そうでなければ訓練にすらなりませんから」
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