3・〝ワンドの8〟正位置
しかし篠原は、ホテルへの移動を深夜に遅らせると決めた。
高山は「日が落ちたらすぐに移動すべきだ」と言い張ったが、聞き入れられなかった。
篠原の判断基準は明確だった。
蔵前署から半蔵門までは数キロに過ぎないが、日常的に一部分が渋滞している。しかもゴールデンウィーク直前で混雑状況も平時とは傾向が違う。
そこに巻き込まれれば動きが鈍る。仮に薬師寺が襲撃を企てているとすれば、速度が鈍る場所を狙うのが自然だ。
薬師寺には、爆弾テロを含めて奇策を繰り出せる能力が備わっている。純礼を生きて捕らえるために、陽動工作を仕掛けてくる恐れがあるのだ。
たとえばいくつかの交通の要衝を爆破すれば、警察力の多くはその対応に迫られて分散する。純礼を襲い、逃亡する隙も作りやすい。すでに死者を出している以上、周辺に人的被害が生じる可能性も排除できない。渋滞中の車両や無関係な民間人を巻き込んで被害を拡大させることは、機密保持上も好ましくなかった。
警察は、純礼の警護と事件の隠蔽を両立させなければならない。
おそらく薬師寺も、それを知っている。混乱の拡大は警察にとっての鬼門だからこそ、薬師寺には隙をこじ開ける妙手になり得るのだ。
さらに進んで考えるなら、混乱の拡大こそが薬師寺の〝目的〟だという可能性が捨てきれない。純礼が殺人現場で襲われなかったのは、あえて警察に保護させて関わる人物を幾何級数的に増やすためだったとも疑える。
薬師寺の真の目的は、警察組織の権威を失墜させることなのかもしれないのだ。
己の存在を世に知らしめる最初の布石として、警察が純礼を保護するように仕向けた可能性が捨てきれない。
篠原はそれを恐れた。
薬師寺が超自然的な能力を持っていることは、読み込んだ資料からも否定しきれない。篠原の頭脳は究極の合理性を備えていたが、だからこそ公的機関の研究結果を認めるしかなかったのだ。
極微小な世界での素粒子の振る舞いは人智を超える。それはまさに〝超自然的〟な自然だ。その〝非常識〟が身に馴染んでいた篠原にとっては、オカルトもまた〝非常識〟の一形態に過ぎなかったのだ。
対応策は、報告書を記憶し終えた時点で出ていた。
薬師寺が〝敵〟であるならば、頭脳戦と対テロ戦を同時に進行させる必要がある。そして最終目的は〝敵〟の逮捕――。
警備が厳重な警察署やホテルはさすがに狙われにくいだろう。その分、危険は移動中に集中する。
そのために囮の一群を10分前に出発させ、空いた裏道を縫ってホテルに向かわせる計画を立案した。その後に、目立たない車両1台だけで幹線道路を堂々と進む。警察署が監視されているなら、囮に喰いつく可能性は高い。たとえ囮が見抜かれても、主要道路を普通に走る車は見逃されやすいという判断だった。
しかも純礼を収容している本隊の移動中は、通信も極端に制限する予定になっていた。〝ハッカー〟に通信傍受のスキルがあることが想定されていたからだ。
通信制限下で行動を連携させることは、まさしく高度な警備訓練でもあった。
たった1人の要人を守るには、あまりに大袈裟なプランだと篠原自身が分かっていた。意図して過大な体制を組み、署長に直接進言したのだ。
篠原には、署長にも隠していた別の目的があった。
これほどの規模の警護体制は、所轄署長の独断で承認できるものではない。特に朝比奈純礼の顧客は、俗に言う〝上級国民〟がほとんどだ。警視総監や国家公安委員長レベルまで話が上がるなら、決定まではそれなりの時間がかかり、軋轢も生じるだろう。
それを〝体感〟したかったのだ。
過剰な陣容を提言すれば、不自然すぎる警護体制を国家の上層部がどう扱うかが見極められる。その対応の度合いによって、日本国にとっての〝朝比奈純礼の比重〟が測れる。
純礼の〝正体〟を、篠原なりに定義することが狙いだった。
結果、計画は二つ返事で了承された。
すでに蔵前署長には、朝比奈純礼を守るためなら無理を押し通せる権限が与えられていたのだ。
純礼を取り巻く〝ソサエティー〟が、そして日本政府が、彼女をどれほど重要視しているかが正確に計測できた瞬間だった。
そして、移動開始の時間が訪れた。
篠原が席を立つ。
「行きましょう」
純礼は、応接室を出る直前にも1枚のタロットを選び出していた。
「戦車の逆位置――」
カードを見た瞬間、純礼の表情は不安げに変わった。
それきり口をつぐんだ純礼に、ソファーから腰を上げた高山が問う。
「その意味、聞いてもいいですか……」
それまでの数時間、応接室で散々相手をさせられていた高山は、純礼の占いを無視する気力をすっかり奪われていた。
「今は聞かないほうが……」
応接室のドアを開いた篠原が促す。
「是非教えてください」
ソファーから立った純礼が仕方なさそうにつぶやく。
「失敗、暴走、そして困難……」
「何を聞いたのですか?」
「次の一手……その結果を尋ねました」
篠原は振り返らないまま廊下に出る。深夜の廊下に署員の姿は見当たらない。
「避ける方法は?」
淡々としたその口調からは、純礼の占いを信じているのかどうかも読み取れない。
純礼が歩きながら、器用にカードを選び直す気配があった。
「今度は、悪魔の正位置……この運命からは、逃れられないようです」
「何をしても、ですか?」
「おそらく。強いカードばかりが出ますから……」
篠原は2人を先導しながら、きっぱりと言った。
「どうせ逃れられないなら、変更なしで行きましょう」
後を追う高山がうめく。
「だからって、罠に飛び込むみたいじゃないですか……」
「すっかり朝比奈さんの信者ですね」
「茶化さないでくださいよ……」
「逃げても無駄なら、立ち向かうまでです」
篠原は、計画強行がどんな結果を迎えるかで、純礼の能力が本物かどうかを図ろうともしていた。
屋外駐車場に出て目的の車両を見た高山が、つぶやいた。
「これ……機動隊の小型遊撃車じゃないですか! てっきりパトでサイレン鳴らして行くのかと……」
車は、真っ黒に塗装されたランドクルーザーだった。
「さすがにそれは目立ちすぎです。この遊撃車なら、見た目は一般の車両と変わりませんから」
純礼が問う。
「ゆうげきしゃ……って?」
後部ドアを開けて純礼をエスコートした篠原が説明する。
「防弾性と機動性を備えた特殊車両で、銃対――銃器対策部隊の装備です。アメリカ大統領専用車の〝ビースト〟には遠く及びませんが、僕らが手に入れられる中では最高に頑丈な車です」純礼を乗り込ませると、自分は助手席に入る。「運転は高山さんにお願いします」
高山は仕方なさそうに運転席に乗る。
「こんな車、運転するの初めてなんですけど……」
「運転は、普通のSUVと変わらないそうですよ」
エンジンをかけながら言った。
「だからって……よくもこんなものを持ってこられましたね」
「でしょう? 僕もびっくりです」
「人ごとですか⁉」
「朝比奈さんを守るためだといえば、なんでも通ってしまうみたいですね。高山さんも試してみたら面白いですよ」
「試してはみたいですけど……それより、無事に家に帰りたいです。定年まで穏便に過ごしたいですから……」
そして、ゆっくりと駐車場を出ていく。
篠原は後席の純礼を振り返った。
「手は尽くしましたが、本当に襲われた時はまずそこで伏せてください。窓ガラスは防弾性能がありますが、万一ということもありますから」
純礼は、車に乗ったことで落ち着きを取り戻したようだった。
「分かりました。よろしくお願いしますね」
篠原がほほえむ。
「あなたは警護するに値する方だと確信できましたから」
それは、最後の瞬間には自分の命を捨ててでも純礼を守るという覚悟の表れだった。
高山が諦めたように言った。
「ルートは?」
「変更なしで。江戸通りを皇居へ向かってください。目立たないように、安全運転で」
「了解です」
車が速度を上げる。12時近くの通りは、さすがに交通量も少ない。数分で浅草橋を過ぎて馬喰町に入る。
遊撃車の後方に、追尾してくる警察車両は見えない。
だが周辺の横道には数10台の覆面パトカーが隠れ、あるいは遊弋しながら周囲を警戒しているはずだった。彼らは、囮車両の警備を終えたばかりのチームだ。
薬師寺は囮には喰い付かなかった。なんの波乱もなく、ホテルまで到着してしまったのだ。
純礼の襲撃は諦めたのか、あるいは囮だと悟られてしまったのか――。
結論はまだ出せない。
薬師寺は、純礼のスキルをコピーしている。占いの精度は本人に及ばないかもしれないが、〝未来予知〟まで身につけているなら囮が見抜かれている恐れもあった。
全てが未知数なのだ。
遊撃車の警備体制は、すでに〝フェイズ2〟に移行しているはずだった。
覆面たちの〝援護班〟は遊撃車の進行に合わせて位置を変えながらも、近づきすぎることがないように厳命されている。篠原自身にも、その正確な居場所は教えられていない。知らないということが全体の動きを自然に見せる最も有効な手段だと、篠原自身が進言したためだった。
ある意味、純礼自身が薬師寺を誘き出す〝生き餌〟でもあった。
純礼を奪われる訳にはいかない。一方で、薬師寺を野放しにすれば警護は無限に続く。真の安全を確保するには、薬師寺自身を捕らえるか〝消去〟するしかないのだ。
覆面パトカーの大量投入は、薬師寺を一気に取り囲んで身柄を確保する体制でもあった。そのためにあえて包囲の中に入り込ませることも想定されている。
そのための〝フェイズ2〟だ。
薬師寺が襲ってくるなら、包囲網を悟らせるわけにはいかない。
高山は張り詰めた表情を崩せないまま、車を進める。自然に体が前のめりになっていた。
首都高の高架をくぐって車線が狭まった時に、異変は起きた。
100メートルほど先の歩道に、酔っ払いらしい集団がたむろしていた。2つの団体がいがみ合っているようだ。何か、もめているらしい。
警察が周辺を警備していることを悟らせないために、排除できなかったようだ。
と、黒いコートを着た黒マスク姿の男が、肩を押されてよろけるように車道に出る。そして、ヘッドライトの先に立ちはだかった。
高山が急ブレーキをかける。
「危ねえぞ!」
男はコートのフードを目深にかぶり、明らかに顔を隠している。
篠原が冷静な声で言った。
「襲撃です」
その声を聞いたように、男はコートの前を開いた。そこから一見して大口径だと分かる大きな銃を取り出して、構える。
銃身が異様に短い。
明らかに酔ってはない。しかも、銃の扱いが馴染んだ身のこなしだ。
高山が叫ぶ。
「ショットガン⁉」
薬師寺は、追ってきたのではない。待ち構えていた。すでに、包囲の中にいた。
そして、〝武装集団〟を操っている。
〝敵〟は純礼の移動時間と経路を正確に把握し、罠に飛び込むのを待っていたのだ。
篠原の予測は完璧に外れた。
篠原は瞬時に命じた。
「グレネードランチャー! 銀行の先の一通を逆走して!」
男が構えた銃は、榴弾――自ら爆発して破片を撒き散らす小型の砲弾を発射できる武器だった。
車が傾いてタイヤを鳴らす。一方通行に逆らって、ビルに挟まれた狭い路地に鼻先を向ける。車がすれ違うのがやっとの道幅だ。
幸い、深夜の横道に駐車している車両はない。
高山がうめく。
「なんであんなもん⁉」
ショットガンは一般的に散弾銃とも呼ばれる。日本でも狩猟用の所持はありえるし、暴動鎮圧用のゴム弾を装備したものなどは警察の一部にも装備されている。だが、グレネードランチャーなら破壊力が遥かに勝る。至近距離での発射なら、弾薬の種類によっては一撃で乗用車を破壊することも可能だ。
警察でもSATのような対テロ部隊は保有しているかもしれないが、高山でさえ確かな情報は持っていない。
篠原が後席に命じる。
「伏せて!」
純礼はシートに腹ばいになった。遠心力で、頭がドアに押し付けられる。
と同時に、車の側面に激しい衝撃と爆発が起きた。グレネードランチャーから発射されたのは、殺傷力が高い〝実弾〟だ。
車体が大きく揺らぎ、横転するかと思えるほど傾く。しかし車はすぐに体勢を取り戻し、ビルの間の横道に突入した。
側面のガラスに無数の傷が走っていた。
高山が叫ぶ。
「なんで無事なんですか⁉」
「そういう車です!」
と、後席の純礼が叫ぶ。
「止まって!」
「それじゃ襲われる!」
「罠です!」
篠原が後席を振り返る。純礼はタロットを一枚握りしめていた。車内で揺さぶられていながらも、占いを続けていたのだ。
篠原の決断は一瞬だった。
「ブレーキ!」
「なんですって⁉」
そう言いながらも、高山は思い切りブレーキを踏み込んでいた。
全員の体が前にのめる。
純礼はタロットの束を手放し、ドアの内側の手すりにしがみついた。
同時に、前方で巨大な爆発が起こった。轟音が車内を満たす。
路地を威圧するようにそびえて立っていたビルの両側に、あらかじめ爆発物が仕掛けられていたのだ。
一瞬、フロントガラスの前が炎で真っ赤に染まり、あっという間にガラス全体が細かい傷に覆われて白く曇る。大砲で散弾を撃ち込まれたような傷だった。
そして、濃い雲のような灰色の塊が目の前に湧き上がる。爆破による塵芥だ。
防弾ガラスでなければ車内が血の海になっていたかもしれない。
爆発音に耳を塞がれる中、高山が悲鳴を上げた。
「なんですかこれ⁉」
さすがに篠原も息を荒くしていた。
しかし、爆発の瞬間を見逃してはいない。一瞬で分析を終えていた。
「クレイモア! 何発も点火したようです!」
クレイモア地雷は対人用の指向性殺傷兵器だ。
湾曲した金属の箱の中に700個の鉄球が詰め込まれ、C4爆薬によって一定方向に打ち出す構造になっている。1発では戦車や装甲車を破壊する威力はないが、複数が両側から挟撃すれば並の車なら潰れかねない。
しかも路地は狭い。爆発の圧力も高まる。ブレーキをかけなければ、遊撃車でも窓を破られていた可能性はある。
轟音が去っても、篠原の耳には残響が渦巻いていた。
正面の視界は、濃い硝煙と埃で塞がれている。ヘッドライトを反射して、まるで灰色の壁のように見えた。
その下に無数の鉄球が転がって光っているのが、かすかに見てとれた。
高山が放心したようにつぶやく。
「東京のど真ん中で……ってか、そこ……日銀の真ん前ですよ⁉」
篠原の声に動揺は感じられない。
「近すぎて、盲点なんでしょう」
「警備派出所だってあるのに!」
「暗殺すら防げなかった国の緩みです。あの罠に突っ込んでたら、この車でも危なかった。タロットに感謝です」
「人ごとじゃないでしょう!」
と、背後に衝撃が走った。
黒コートの襲撃者が追ってきている。2発目の榴弾を打ち込まれてガラスが曇っている。視界が悪い中での射撃が、たまたま命中したようだ。
篠原が振り返る。
「朝比奈さん、逃げ道はありますか⁉」
純礼は散らばったカードをかき集めた直後だった。1枚を引き抜く。
「前方は安全! ……たぶん」
「車を出して!」
高山は視界を塞がれたまま、ゆっくりと車を進めた。途端に車がガクガクと激しく揺れる。
「やばい! スパイクベルトです!」
スパイクベルトは、タイヤを一気にパンクさせるための器具だ。たくさんの〝釘〟を生やした蛇腹などを路上に広げ、侵入禁止区域に突入する暴走車両を食い止める。
篠原が命じる。
「この車はパンクしません! 突っ切って!」
車を出しながら、高山が叫ぶ。
「なんでこんな攻撃ができるんです⁉ 軍隊並みじゃないですか!」
だが、視界はまだ曇ったままだ。
「罠に追い込まれたんです」
「だからって、みんな殺す気ですか⁉」
「車を止めて朝比奈さんを拐う計画でしょう。防弾性能も知ってるようです」
と、背後に3発目の榴弾が撃ち込まれる。後部のガラスが、大きく撓む。
「救援班は何やってんだ⁉」
しかし車は何かに乗り上げて、行く手を阻まれた。
路地に風が吹き込んで、埃が薄くなる。前方には瓦礫がうず高く散らばっているようだった。まるで、ミサイルを撃ち込まれた戦場の街のようだ。
対人兵器のクレイモア地雷だけで起こせる惨状だとは思えない。
篠原が関心したようにつぶやく。
「壁、壊しましたか……。よくもまあ、ここまで大掛かりにできたものです」
クレイモア地雷で鉄球を散乱させると同時に、ビル本体も破壊したようだった。そのためには、さらに多くの爆薬を広範囲に仕掛ける必要がある。両側の建物の側面を剥ぎ取って路地を塞ぎ、〝標的〟を足止めするのが目的だろう。
実際、その先は遊撃車でも乗り越えられそうになかった。
罠は、完璧に機能している。
だが、警備厳重な日銀本店の目と鼻の先で、ここまで重層的な破壊活動を準備できたことが信じ難い。使われた装備のみならず、高度なスキルや組織力を持つ犯罪的集団が日本に存在するとも思えない。
しかも、足止めは罠の〝初手〟に過ぎない。
直後には、確実に朝比奈純礼の略取という段階が続いている。それは援護班が周囲を取り囲んで阻止するだろうが、大胆不敵な計画が実行された事実は変わらない。
薬師寺は、ワンマンではない。すでに〝実行部隊〟を動かせるのだ。
〝敵〟が実体を現した、ともいえた。
だが状況は、篠原が想定した〝最悪〟をさえ超えている。
篠原が後部座席にうずくまった純礼を見る。
「占ってください! 徒歩で前に進んでいいですか⁉」
純礼は慌てて1枚を引き出す。不安げに言った。
「大丈夫でしょう……」
篠原が確認する。
「前方は安全なんですね⁉」
さらに新たなカードを抜き出していた純礼の答えは、今度は自信に満ちていた。
「安全です!」
篠原は即座に決断した。
「車を捨てます!」
高山が叫ぶ。
「それじゃグレネードの餌食に!」
純礼が言った。
「カードを信じて!」
「背後は援護班が抑えます! 朝比奈さん、助手席側のドアを開いて! ドアだけですよ! まだ外には出ないで!」そしてスマホを出す。「篠原です。通信制限解除、即時周辺封鎖を! 罠に追い込まれて車両での前進不能。これから日銀前へ出ます!」
高山の声は悲鳴に近い。
「危険ですって!」
「朝比奈さんを信じて!」
純礼がドアを開くと、篠原はその影に隠れるように助手席から外に出る。硝煙と埃の臭いが激しく襲いかかる。そしてシートを倒して純礼の手を引く。
「前から出てください!」
背後の黒コートが複数の警官に取り囲まれる気配があった。援護班が集まっている。
これで純礼を奪われる可能性は低くなった。
篠原が高山に命じる。
「迎えは援護班よりパトカーがいい! 指示を出して!」
高山が反射的に車載マイクを取る。
「――日銀前にパトをよこせ!」
そして位置を指定する。周辺の地理に明るい高山の指示は的確だった。
「高山さん、銃はありますね⁉」
高山が車を出る。
「もちろん!」
「襲われたら射殺してください!」
「なんだって⁉」
「頭を狙って! 相手はプロです。ためらえば殺されます!」
先頭になって進む篠原は、純礼の手を引いて背中に引きつけた。前方からの攻撃は、自分の体で防ぐという体勢だ。
高山が純礼の背後に付いた時には、黒コートが取り押さえられる叫び声がビルの間に反響していた。
だが、彼らに襲いかかる〝敵〟はいなかった。
援護班の集結を察知して逃走したようだ。
前方の埃の中を、篠原が純礼の手を引いて瓦礫を踏み進んでいく。
高山が叫んだ。
「なんでパトなんですか⁉」
篠原は振り返らずに答える。
「ここまで大騒ぎになったら、山ほどパトカーが集まります。そこに紛れた方が目立たない!」
広い通りに出ると、すでにパトカーが待ち構えていた。
3人が後部座席に転がり込むと、運転席の警官が呆れたように振り返る。
「篠原警視……ですよね?」
3人の衣服が埃まみれなのは、暗い室内でも見て取れる。純礼の黒スーツは特に灰色の汚れが目立つ。ホームレスのようにさえ見えたのだろう。
「篠原と高山警部、そして警護対象です。すぐに出して」
「了解です」
車が発車すると制服警官が言った。
「すごい音がしてましたけど……なんなんです?」
篠原がため息をもらす。
「死ぬかと思いましたよ……ガス爆発でしょうか」
「本当に⁉ これがガス爆発……?」
篠原が反射的に嘘をついたのは、事態の複雑化を防ぐためだった。だが、これほどの破壊活動を完全に隠蔽することは難しい。この警官が後日、事件に尾鰭をつけて言いふらさないという保証はない。
警察幹部が要人警護中に偶然ガス爆発に巻き込まれるというのは、あまりに都合が良すぎる。
警官には真実の一部を告げて口止めした方が効果的だろうと考えを変えた。
「実は……テロに巻き込まれたようです」
「こんな場所で⁉」
「こんな場所だからでしょう。テロリストは、力を誇示するために要衝を狙うこともあります」
警官は先回りして答えた。
「了解です。これ、機密ですよね。自分は誰にも喋りませんから」
「ぜひ、そうしてください。僕たちの会話も聞かないことにしてください」
「当然です。どこに行けばいいでしょうか? 病院ですか?」
「とにかくここを離れて」
「半蔵門へ送れという指示がありましたが?」
「忘れてください。すぐにホテルに向かうのは危ない気がします」
篠原は、直感を信じる男だった。
すでに周辺の道路には、パトカーの赤色灯とサイレンが目立ち始めていた。
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