2・〝ソードの10〟 正位置
純礼は驚いたように見えた。
「それはそれは……」
なのに、やはり緊迫感は感じられない。取ってつけたような反応だ。
篠原がわずかに目を細める。
「その意味……お分かりですか?」
純礼はいきなりタロットを手にした。素早く切って、1枚を出す。
「ソードの10……」
カードの絵柄は、倒れた男の背中に10本の剣が突き刺さっている。
「またカードですか」
「多重人格の作家が逃亡中の殺人犯。その人格の元になった1人が、やはり人格を取り込まれているわたしの目の前で殺されていた……そういうことですよね?」
「まさしく」
高山が2人を見下ろして、つぶやく。
「おかしな占い師さんだって聞いてましたけど……」
純礼は〝占い師〟と呼ばれても特別な反応は見せなかった。内心では嫌っていても、職業上の〝看板〟なのだから当然だとはいえる。
高山に対しては『理解できそうもない相手に説明しても無駄だ』と即断したようだ。篠原に〝宇宙の叡智〟を解説したのは、『篠原は特殊だ』と察したからに違いない。
篠原が純礼に尋ねる。
「1枚だけでも何か分かるんですか?」
純礼の意識には高山は入っていないようだった。
「ワンオラクルは最も直截的で力強い読み方です。託した問いに、カードが反応します。事柄の本質をピンポイントで見抜きます」
「何を尋ねたんですか?」
「その方が殺された意味、です」
「カードの答えは?」
純礼がカードを束に戻す。
「ソードの10は〝死と再生〟です。死はわたしが目撃しました。では、再生は……?」
篠原も息を呑む。
「どこかで再生すると?」
「当然、物理的な意味ではありません。しかし魂は、肉体の死によって解放されたともいえます。では、その魂は今、どこに?」
「あなたはどう考えますか?」
「再生が可能だとすれば、薬師寺氏の中で……でしょうか」
「岩渕氏の人格は何年も前から薬師寺氏の中に共存しています」
「でもそれって波動の〝盗み見〟のようなもので、いわば劣化コピーですよね? わたしが奪われた人格と同じように」
「まあ、あくまでも本体は岩渕氏本人ですからね。過去の取材時に人格をコピーしたなら、それ以降の経験や知識も反映されないはずです。とうてい完全な人格とは言えないでしょう」
純礼が気づく。
「あ! ということは……本来の人格を殺して1つに融合した、とか?」
篠原はうなずく。
「魂の融合、ですか……。それ、考えられますね」そして考え込む。「ですが、単に殺すだけでは本人が消滅するだけかも……」
「でも、近くにいるだけ人格がコピーできるのだから、直接的な接触ならもっと強く同化できるのではありません?」
篠原の目が輝く。
「可能性はありますね。殺人は、完全な人格を得るための過程だったのかも……」
「殺すことで、融合するということ?」
「融合するためには殺さなければならなかった、ということになりますね」
「それって……何かの儀式のようなものかしら」
高山は、2人の会話をぼんやり見守っている。というより内容が奇抜すぎて、意思疎通が行われていることが理解できずにいた。
篠原が純礼を見る。
「歯を折ったり、薬剤で溶かしたりっていうのは、暴力的な猟奇殺人です。儀式っぽくありませんよね」
「確かに、怖すぎ。儀式だとするなら、悪魔の儀式ね」
「そんな痕跡はホテルには残されていませんでした。何をしたのか、占えませんか?」
「〝死と再生〟以上の結果は見えないと思います。見ても良いものなら、すでに何かのサインをもらえています。カードが見せるのはヒントだけで、細部や全体像を知らせてくれることは滅多にないんです」
「そこは自力で答えを出せ……ってことですか」
純礼がうなずく。そして、考える。
「殺す前にどこかに触れて、魂を吸い取った……とかは考えられますね」
篠原が、冷静に分析する。
「ただ触れるだけでは、弱い気がします。最初にコピーした際も、握手ぐらいはしているかもしれませんから」
「では、どんな?」
「……魂の吸収という仮説が当たっているなら、もっとハッキリした……具体的な行為の可能性が高いと思います」
「たとえば?」
「カニバリズム……とか、でしょうか」
「はい?」
「思いつきに過ぎませんけど。かつて〝人喰い〟と蔑まれた一部の部族にあったとされる宗教観です。倒した相手を戦士として敬い、魂の融合を求めてその肉を食う――というような考え方があったようです」
「食べる……? それが具体的な行為ですか?」
「極端な例ですが、たとえば食べる場所が脳や心臓なら……魂の吸収と相手の死は切り離せません。殺さなければ統合できないわけです。それを隠すために、皮膚を溶かそうとしたとも考えられます」
呆然と話に聞き入っていた高山が、反応した。
「それ……管理官の直感ですか?」
「はい。でも直感は、知識と経験と想像力の統合が起こす高次の脳機能です。当てずっぽうとは違いますから」
「ご遺体、欠損部分がないか検証してもらいます」
篠原もうなずく。
「よろしく」
高山は部屋の角へ向かって背を向けると、スマホを使って小声で指示を送った。相手はおそらく検死の担当者だ。
純礼からは笑顔が消えている。
「怖い……」
「あなたは、正しく怖がるべきなんです。幸い今回は、犠牲にならずに済みました。しかし死体の前に呼び出されたということは、あなたも犠牲者のリストに載っていると考えてください」
「ですよね……なんで助かったんでしょう……?」
「何かの手違いが起こったのか、意図したことなのか……」
「手違いなら偶然でしょうけど、意図……って?」
「たとえば……薬師寺氏は、自分が集めた人格の主体を殺そうとしていることを警察に知らせたかったのかもしれません。いわばあなたは、警察に対するメッセンジャーだったのかも……」
「それって、どうして……?」
「理由は分かりません。まだ情報が少な過ぎます。しかし、もしも死体の肉を切り取っているのなら、表面を溶かしたところで検視官は必ず発見します。ホテルの部屋にも、指紋を消そうとした痕跡はありませんでした。本気で隠そうとしているなら、あまりに杜撰です。だとしたら、僕たち警察を誘導するための〝罠〟だったとも考えられます」
「警察を操ろうとしている……?」
篠原は何かを決意したようだ。
「他の人格についてもお話ししておいた方が良さそうですね」
純礼がうなずく。
「ぜひ」
「殺された岩渕は、強力で精密な手製爆弾を作製できるテロリストです。もう1人は城という高度なスキルを持ったクラッカー――悪意を持ったハッカーで、ブラックハット・ハッカーなどとも呼ばれる犯罪者。さらに、刑部という手練れの詐欺師が加わっています。刑部は軍事オタクで、戦略の研究もしていたようです」
「なんだか、変な組み合わせ……。でも、なんで占い師のわたしが混じっているのかしら……」
「僕の直感ですが、あなたの能力は占いというより、未来予知に近いようです。それを期待したのではないでしょうか」
「わたしは宇宙の意思を汲み取るだけですが……だとしても、それで何をさせたいの?」
「薬師寺氏がこれらの人格を意図的にコピーしたのなら、当然目的があるはずです。これらの技能が一緒になったら、一体何ができるでしょう?」
篠原の言葉に高山が反応する。
「また、直感ですか……」
篠原は穏やかに言った。
「でも。結構当たるでしょう?」
「当たるから嫌なんです……テロリストとハッカーに、戦略家って……。まるで特殊部隊みたいじゃないですか……」
篠原がうなずく。
「そこに朝比奈さんの予知が加われば、もはや超能力軍団と呼べるかもしれません。テロも犯罪も、思いのままになりかねません。薬師寺氏は、その力を使って何かを成そうとしている恐れがあります」
「何か……とは?」
「具体的には分かりませんが、金銭目的の強盗のようなありふれた犯罪ではありませんね。そんな小さな目的なら、人を殺してまで超自然的な能力を手に入れる必要はないでしょう。特に岩渕はかつて活発に活動していたテロリストです。日本を震撼させるようなテロもありうると覚悟しておかなければなりません」
純礼が驚く。
「たった1人で?」
「4人の人格の完全な融合を許してしまえば、です。確かに1人では、できることは限られるでしょう。しかし、知識や技術で補える領域は大きい。詐欺師が加わってるなら、他人を操って悪用することも考えられます。もしも薬師寺氏の意図通りの多重人格者が完成してしまえば、軍隊でさえ手が出せない化け物になるかもしれません」
高山が言った。
「大袈裟すぎませんか?」
篠原は真剣だ。
「現代の戦争は敵勢力を混乱させることから始まります。最大の武器はハッキング。たった1人の天才がシステムの穴を発見すれば、通信や交通などのインフラを混乱させることが可能です。要衝を抑えれば、信号機を操作するだけで全国の流通網を麻痺させられるかもしれません。送電網の電圧を操作して工場の精密機器を機能不全に陥らせることもできます。それだけで国家経済は大打撃を受けかねません。どこを狙えば最大の効果を得られるかを見抜くには、大きな視点を持った戦略家の頭脳が必要になります。そして偽情報で相手を撹乱するためには、詐欺師こそが適任です。ディスインフォーメーションとも呼ばれる情報撹乱は、まさに諜報組織や特殊部隊が担う軍事行動です」
「そうは言っても……」
「単に可能性の問題ですけどね。しかし日本以外の軍隊は、常に電子戦を研究しています。実際に北朝鮮はハッキングで多額の資金を調達していますし、中国のハッカー部隊は数万人を擁しているともわれます。我が国に対するその種の脅威は、絶対に排除しなければなりません。だから僕らは、『薬師寺氏が保有する人格は4人とも命を狙われている』という前提で行動します」
高山は反論できなかった。
純礼は納得がいかないようだ。
「でも、なぜ4人もの人格が必要なんでしょう……?」
「それも不明です。しかし、不要なスキルを集める意味はないでしょう。逆に考えれば、誰か1人でも欠ければ薬師寺氏の狙いは達成できないことになります。目的の達成には4人の全人格を手に入れる必要があるはずです」
「でも、すでに占いの能力は奪われているかもしれませんよ?」
「それは岩渕氏も同様でした。なのに、殺された。殺さなければならなかった」
「今はまだ不充分だということ……?」
「完璧な一体化を求めているのでしょう。より完全な能力がなければ成立しない〝何か〟を企てていると考えられます」
「完全な能力? スキル以上の何かまで欲していると?」
篠原がわずかに考える。
「でしょうね。殺人という重罪に値するほど不可欠な過程なのですから……」そして、うなずく。「なるほど、全ての記憶まで奪い取れると考えておくべきかもしれません」
「記憶を⁉」
「仮説です。……というより、ただの思いつきです。それも、最悪の思いつきです。確証はありません」
「でも……」
「非接触でスキルの一部が奪えることはほぼ確実です。そのスキルは、経験や知識の積み重ねの上に成り立っています。そこには、記憶の一部も含まれているでしょう。程度は不明ですが、記憶の転移はすでに行われていると思います。仮にカニバリズムが完全な魂の融合をもたらすのなら、もっと複雑で精密な記憶が強奪できても不思議ではありません。一般には人の記憶は脳に宿ると信じられていますが、それが全てだと証明された訳でもありません。臓器移植によってドナーの記憶が転移したという話も事欠きません。薬師寺氏が真の超能力を持っているなら、常識で対抗しようとすることこそ非常識でしょうから」
「だからって……」
篠原は純礼の目を見つめた。
「あなたは職業柄、我が国の重要人物の内面を伺い知る立場にあります。国家的な機密情報のみならず、おそらくはスキャンダラスなプライベート情報にまで接することができるはずです。そんな情報こそ手に入れたいと欲する者は、少なくないでしょう。高級官僚の生々しい恥部や偏った性的嗜好が分かれば、トラップにもかけやすいですから。人を操るには、効果的な梃子です。一部の経済人の知識があれば――例えば絶対に知られてはならないパスワードが手に入れば、世界経済を操ることもできるかもしれません」
「わたしは死んでも話しません!」
「しかし完全な記憶が奪えるなら、あなたの意志は抑制にならない。薬師寺氏はその知識を使って、日本という国家を脅すことも、あるいは他国に機密を売ることもできるでしょう。特にワイドショーが喰いつきやすいような情報なら、地位が高い者ほど恐れます。他国が脅迫する手段としても最適です」
「本当にそんなことが⁉」
「すべては仮説です。馬鹿馬鹿しい空想です。しかし薬師寺氏は科学的な分析で、空想を超える能力を持っていると証明されています。すでに空想の世界の住人なのです。僕の役目は最悪の事態を封じること……最悪を防ぐには、まず最悪を想定しなければなりませんから」
高山がおびえたようにうめく。
「ほら、もう妙な空気になってる……。だから篠原さんとは組みたくなかったんですって……」
「僕が事件を起こしてるわけじゃありません」
「でも、あなたが引き寄せてる気がします……」
純礼はいつの間にかカードをシャッフルしていた。身に馴染んだ無意識の行動であり、心を落ち着かせる儀式のようにも見える。
だがその声には、恐怖は現れていなかった。
「薬師寺さんは、わたしも殺そうとしているんですね……」
篠原の答えに迷いはない。
「必ず防ぎます」
「お任せします。でも、命を狙われているのに、その理由が分からないなんて……謎すぎますね」
「朝比奈さんは、なぜそれほど落ち着いていられるんでしょうか? まるで、他人のことのように話されている。僕には、その方が謎ですが?」
純礼はにこやかにほほえんだ。
「あなたの他にも、守ってくれる方々が現れるでしょうから。お話しした通り、職業柄知り合いは多い方ですので」
「それは認めます。僕が警護に回されること自体が異例ですから」
高山が問う。
「誰の指示だったんですか?」
「総監直々の命令でした。しかし、もっと上がざわついている印象でしたよ。朝比奈さんがおっしゃる通り、お知り合いが多いようなので」
高山が純礼を見下ろす視線に困惑がにじむ。
「そんなに上って……あなた、どれほどの秘密を握ってるんですか……?」
と、篠原の胸ポケットでスマホが鳴る。抜き出して画面を見ると、高山に言った。
「メッセージが来ました。署長室に総監が着いたそうです。朝比奈さんの〝ご友人たち〟との擦り合わせが終わったのでしょう」
「総監が⁉」
「僕も呼ばれましたので、ちょっと朝比奈さんのお相手をしていてください」
「俺がですか⁉」
「占っていただくといいですよ。僕ら庶民では手が届かない優秀な占い師さんなので」
「だって、相手をさせられた刑事はみんなビビらされたっていうのに……」
「それだけ当たるってことでしょう。では、よろしく」
篠原は席を立って応接室を出ていく。
高山は仕方なさそうにその席に座って、純礼を見つめた。
「俺のことは占わなくていいですから」
それでも純礼は、カードを出す。
「もちろん、料金はいただきませんよ」
「やめてください!」
テーブルに出されたカードは、大アルカナ〈13〉の〝死神〟だった。
※
10分後に応接室に戻った篠原は、かすかにため息をついた。
「高山さん……どうしてそんなに憔悴しているんですか?」
面白がってもいるようだ。
高山が篠原を見上げる。
「興味本位でこの方に占ってもらった連中……ぐったりしていた理由が分かりました。俺、近々死ぬそうです」
純礼がほほえむ。
「生物学的な死を迎えるとは限りませんけどね。一般的には、より良い再生を促す〝比喩的な死〟だと考えられています。ただし、スネに傷がある方々ですと、そのまま冥界から戻れないこともありますが」
高山がソファーから腰を浮かせる。
「篠原さん、代わってください! 俺、忙しいんで!」
篠原は手で制した。
「そのままで。高山さんにも手伝っていただくことになりましたから」
「手伝うって……何を⁉」
「朝比奈さんの護衛です。重要参考人の保護、ということで」
「護衛って、どこかに行くんですか? てか、なんで刑事の俺が⁉」
「僕だって警護の適任者だとは思えませんが、総監直々の指示です。異論は挟めません。今、上層部が受け入れ先の調整を進めています。どの程度時間がかかるか分かりませんので、それまでは半蔵門のホテルで待機です」
半蔵門には、警視庁が所有する高層ホテルがある。運営は帝国ホテルに任されているために設備やサービスは民間の高級ホテルと大差はないし、一般客にも解放されている。
「だって……俺、場末の刑事ですよ。所轄をたらい回しにされてる一兵卒だ。総監が命令するほど重要な方なら、警備部の猛者を目一杯付けてあげればいいじゃないですか。手練れのSPだって揃えられるでしょうに……って、そうすべきです!」
「僕も一応はそう進言しました。でも、総監が折れてくれません。『SPみたいな大仰な組織を動かすと逆に朝比奈さんがここにいるって教えるようなものだ』と言って、聞いてくれないんです」
「能力の問題ですって! 地べたなら何日でも這ってみせますが、要人警護なんてしたことありません!」
「僕も同じです。なに、受け入れ先が整うまでの短時間ですから。朝比奈さんを無事お渡しすれば、それでお役御免です」
それでも高山は不安げだ。
「だからって……」
「目立たないことが絶対条件らしいんです。上層部は、朝比奈さんの重要性を誰にも知られたくないようです。実業家だけならともかく、政治家や官僚までが占いを頼っているというのは一種のスキャンダルですから。その上、殺人事件が関わってますので。特に、マスコミには知られたくないそうです。一般人がSPに守られてるのを記者連中に見られたら、あれこれ詮索されかねないじゃないですか」
「俺の問題じゃありません」
「でも、命令には逆らえないでしょう? それに、高山さんと僕は〝親しい〟間柄ですしね」
高山はようやく気づいた。
「あなたが俺を指名したんですか⁉」
篠原が目をそらす。
「これでも結構人見知りなんで……初見の方とは組みたくありませんから」
「って、何日間か絡んだことがあるだけじゃないですか!」
「それでも、高山さんの人間性は充分に理解できました。信頼できる方じゃないと、任せられませんので」
高山も諦めるしかなかった。
「他には誰が付くんですか?」
「まずは僕たち2人で」
「うわ……なんだか、嫌がらせみたいだな……」
「心外ですね。熟考した結果ですよ」
「特別手当とか、出るんですか?」
「僕の権限で相談はしてみますが、所詮公務員ですからね。よほどの危険がない限り、期待はしないでください」
高山の視線が純礼に向かう。
「他殺死体の発見者で、猟奇殺人犯とも関係がある――って噂されるほどなのに……たった2人って、貧弱すぎです……」
「今は、です。それにその噂、マズイです。どこで聞きましたか?」
「どこでって、あっちこっちですよ」
「絶対に外に漏れないように署長が目を光らせているはずですが」
「内輪の世間話です」
「そんなところにアンテナを張っている記者も多いですからね。箝口令を厳しくするように進言しておきます」
高山が気づく。
「あれ、半蔵門って〝うち〟のホテルですよね。今、かなり警備が厳しくなっているはずですが?」
「ネクストチップスのCEOが滞在する予定になっていますからね。多国籍企業の代表格のトップがお泊まりなら、どれほど監視を強めても誰も疑いません。重要人物をこっそり匿うには都合がいいでしょう? ですので、ホテルに入ってさえしまえば、ほぼ任務完了だと思います」
「ほぼ……? その言い方、気になるな……」
「警備方針は途中で変更になることもあるでしょうから」
「そうは言ってもね……CEOとやらがねじ込んできたガタイの良い〝警備員〟との調整が大変だったって耳に入りました。奴ら、軍人上がりでしょう?」
「たぶんPMC――民間軍事会社でしょうね。当然、実戦経験もあるはずです」
「戦争屋か……。やり合った連中が『大統領のシークレットサービスと違って目付きが飢えてる』って言ってましたからね……。そんなところに連れてっていいんですか?」
篠原がほほえむ。
「だから僕は、高山さんを指定したんです。早耳だし、勘もいいし、注意力が鋭い。それでこそ所轄刑事の鑑です。それに署長が、逮捕術や合気道の腕前は師範クラスだと太鼓判を押していました。警護任務には最適じゃないですか」
「誉め殺しですか?」
「実力を正当に評価しているだけです」
「それよりも、放っておいて欲しいんですけど……定年も遠くないことだし……」
「CEOも朝比奈さんの噂を聞きつけて、うちうちに『ぜひ占ってほしい』と申し出てきたそうです。同じホテルなら、好都合です。あ、これこそ絶対に内密に。世界の株価に大変動を起こしかねませんから」
ネクストチップスは世界的な巨大複合企業体で、最先端半導体の設計を中心に宇宙産業や医薬品開発、ネットメディアや大規模農業にまで手を広げている。株価だけを見れば、世界有数の規模を誇る。そのCEOが〝占い〟に興味を持っていると知られれば、産業界に激変をもたらしかねない。
篠原の恐れは杞憂とは言えなかった。
「あ、なんでそんなこと俺に教えるんですか⁉」
篠原は平然と言い放った。
「これで高山さんも重たい守秘義務を負ったわけです。この部屋から解放されてあれこれ聞かれても、何も話せません。同僚はもとより、飢えた記者連中が群がるでしょうけど」
「計算づくですか……」
「それより僕と一緒にいる方が気楽じゃありませんか?」
「もう逃げられないってことですよね……」
「まずはホテルに着くこと。目と鼻の先ですから、恐れることはないでしょう。中に入ってしまえばガードは鉄壁ですから」
「だといいんですがね。元首相の暗殺を許してしまう国ですので……」
篠原の声が沈む。
「それは言わないことにしておきましょう。僕ら警察官全員が背負うべき十字架ですから。それに、事件が解決するまで朝比奈さんが滞在するのは、ネクストチップスが所有する別荘のようです。広大な敷地の私有地なので、安全性は担保されます。2日後にCEOが別荘に向かうので、同行させていただくよう調整しています。僕たちも別荘滞在中は同行する手筈が進んでいます」
朝比奈はかすかな笑いを堪えながら、2人の会話を聞いている。大まかな警備方針はすでに署長から知らされていたようだった。
しかし高山は驚きを隠せない。
「あれ⁉ ホテルまでじゃないんですか⁉」
「ね、変更もあるでしょう? 誰もついて行かなかったらまずいじゃないですか」
「俺の都合はお構いなしですか⁉」
「高山さんはお一人暮らしだと聞きましたが?」
「そうじゃなくて! 何日も現場を離れるわけには――」
「調整済みです」
「っていうか、なんで俺の私生活を知ってるんですか⁉」
「奥さんとは離婚、娘さんは北海道で家庭を持っている。ペットもいないし、大した用事がなくても署内で寝泊まりしている、とか」
「ストーカーですか⁉」
「今の僕はあなたの上司なんですよ。部下の事情を知っていても不思議はないでしょう」
「だからって……。俺、絶対に場違いですって……」
「大丈夫。あっちもネクストチップスが用意した警備員で溢れかえっているでしょうから。彼らとは仲良くできると思いますよ。向こうは軍隊経験者がほとんどでしょうけどね」
「ほら、場違いだ……。でも、なんだってそんなに大掛かりに?」
「朝比奈さんがそれほど重要な人物だということです」
「重要って……言っちゃなんですが、たかが占い師さんでしょう?」
「実力は思い知ったんでしょう?」
高山は、一瞬言葉に詰まる。
「それは、まあ……」
「言ったでしょう? 朝比奈さんの占いは、多くの政治家や経済人に重用されているんです。つまり、国を動かすこともあるということです。それは、国家機密に近づく可能性があることも意味します。その知識を他者に奪われるわけにはいかないんです」
「国家機密だなんて、大袈裟な……。そこまで心配しなくても……。所詮、真偽も定かじゃないオカルトじゃないですか」
「例えオカルトだとしても、それが現実に国家運営に影響を与えるなら軽視はできません。かつてヒットラーもオカルトに傾倒していたと言いますしね。超自然的な事象が歴史を動かした事例など、数え切れません。人類は神話の時代から占いに判断を委ねてきたんです。それに、人間は機械じゃありません。たとえ嘘だとしても、信じ込めば普段出せない力も発揮します。政治家や経済人なら、気の持ちようというか……気迫や胆力は実力を倍加させるじゃないですか?」
「そんな重要人物だったら、余計に外して欲しいんですけど……。荷が重すぎます」
「まあ、そう言わずに。共に窮地を乗り越えたこともある仲じゃないですか」
「勝手に仲間に引き込まないでください!」
純礼は穏やかにほほえんだまま、言った。
「常識的にはオカルト的なものが忌避されることは理解しています。一方で、恋愛相談や不安を忘れたくて占いにすがるお客が多いのも、また事実です。占いは太古から宗教や政治の中心にありましたし、現代の日本でも一大産業です。科学の進歩が世界を激変させている今でも、です。人の心は、理屈だけでは動かないものなんです。その程度の価値は認めてくださいな」
高山がすがるように純礼を見る。
「こんな爺さんじゃ不安だって、あなたからも言ってください!」
「わたし、不満はありませんよ」
「俺が不安なんです!」
篠原が話を逸らすように言った。
「朝比奈さんも恋愛相談とか受けるんですか?」
純礼も高山を無視する。
「そのような方々は町場の占い師さんにお任せしています。一見さんのお相手ができるお店も持っていませんので。もちろん、テレビなどでご活躍の同業者さんのような魔女っぽいヴェールもつけませんし、水晶玉も使いませんしね。こんな占い師、信用されると思いまして?」
高山は何を言っても無駄だと諦めたようだった。がっくりと肩を落として、つぶやく。
「そんなんで、なんでお客さんが付くんですか?」
「真に権力をお持ちのお客様は、見た目などには頓着しませんから。それに、『不安だ』という程度の困り事なら、ご自分で解決してしまいます」
「だったら、どうしてあなたを頼るんですか?」
「頼る……というのは少し違うでしょうね。わたしのお客さまの多くは、選択肢の価値が同等になったときにだけ、指針を求めていらっしゃるのです。あらゆる選択肢を検討して絞り込み、それでも決めきれない時の最終手段なのです。確かに、上流社会で囁かれる噂を聞きつけ、自然と顧客は集まります。しかし占いに全てを任せ切るようなお客さまほど、支払いは渋いし、自分を大きく見せようとして情報を漏らしがちです。そういった方々は、そもそも選択肢を正しく比較する能力が欠けているようです」
「支払いって……料金はいくらほど?」
「内容やお相手によって変わりますが、実業界の方のご依頼なら、億単位のことも」
高山の表情がこわばる
「億、って……」
「限られたお客様の場合だけ、ですけど」
「……そうは言ったって、嫌いな相手でもお客なのでしょう?」
「お付き合いは大切ですから。わたしも仕事として占わせていただいていますので、ご紹介があれば断ることはできません。残念ですけど」
と、応接室のドアが開く。
現れたのは署長だった。1人で中に入ると、ドアを閉める。
席を立とうとした高山に向かう。
「そのままで。新たな情報が届いた」
高山が中腰のままで慌てて言った。
「その前に! 自分、この任務には明らかに力不足です。このお嬢さん、重要人物なんでしょう? しかも世界企業のCEOの別荘で護衛とか、英語もできない自分じゃ務まりません! 署長だって自分がガサツな人間だってご存知でしょう?」
しかし署長は高山の言葉を制した。
「篠原君の要望だからね。それに、ここだけの話にしてほしいが、君たちには数10人単位の専門家がバックアップに付く。警護だと気づかれないように、常に遠巻きにガードする手筈を終えたところだ。監視ドローンも投入する。進言通り、囮の車列も準備した。そろそろ出発できる体制が完成する」
高山が呆然とつぶやく。
「半蔵門に行くだけなのに、囮まで……? 目立ちたくないんじゃありませんか?」
説明したのは篠原だった。
「関わるメンバーには『テロリストに狙われている外国要人警備の訓練』だと伝えてあります。幸い、CEOの来日予定が目眩しになってくれます。何事もなければそれで良し。訓練は常時必要だし、スキルはそれなりに上がるでしょう」
「金かけ放題ですね……。なんでそこまで……?」
「それだけの価値があるからです。薬師寺氏がすでに1人を殺害しているのはほぼ確かです。正確な情報はありませんが、人格の元になった人物が死ねば100パーセントの能力を発揮できるとも推定されます。これもお話したでしょう?」
「だからって、そんな馬鹿なこと、簡単には信じられません。どこまでオカルトにしたいんですか⁉」
「薬師寺氏の脱走事件の報告書と高次脳科学研究所から取り寄せたデータからの類推です。現段階では仮説でしかありませんが、僕は相当確度が高いと考えます。でなければ、岩渕氏を殺す理由が見当たりませんから」
「だけど……だからって、そこまで過剰な警備が必要なんですか⁉」
「この話は、高山さんにも知っていて欲しかったから打ち明けたんです。岩渕氏は、爆発物や銃器にも精通しています。テロリストとして最前線に立てる訓練も受けています。今の薬師寺氏は、その能力を完璧に使いこなせると考えるべきでしょう」
「相手はたった1人でしょう? やっぱり恐れすぎです」
「だから、その中に何人ものプロフェッショナルが潜んでいるんです。あなたが見抜いた通り、たった1人で洗練された犯罪集団――あるいは特殊部隊並みの実力を備えることになりかねません。協力している組織もあるかもしれません。著名な作家である薬師寺氏自身が破格の資産家ですから」
「本当にそんなバケモノがいるんだったら、それこそ俺にお嬢さんを守れって言うのは無理筋ですって!」
篠原はわずかにうなずいた。
「誰にとっても困難な仕事になる予感がします」
高山が息を呑む。
一瞬の沈黙ののちに、署長が言った。
「その2人――ハッカーと詐欺師だが、依然として行方が掴めない。さっき報告が入ったところだ。彼らはすでに殺されている可能性が高い」
篠原が言った。
「だとしたら、もはや3人とも薬師寺氏に取り込まれたと想定しなければなりません。全力で朝比奈さんの奪取に動いてくものとして対処します」
その瞬間、純礼が握ったカードの束から1枚がテーブルに飛び出した。それも純礼の反射的な行動のようだった。
視線が集まる中、純礼がカードを裏返した。
画面いっぱいに木の棒が整然と並んでいる絵柄だった。
「ワンドの8……」
篠原が言った。
「意味はなんでしょうか?」
「急展開。恐ろしいほどのエネルギーが人智を超えるスピードで噴出しています」
「良い意味でしょうか?」
「表しているのは状態です。このスピードに対処できればチャンスに、しかし乗り遅れれば振り落とされるでしょう……」
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