1・大アルカナ〈Ⅰ〉〝魔術師(マジシャン)〟正位置
女は妖艶な笑みを浮かべ、素早くカードを切った。7枚目を表にしてテーブルに置く。黒いパンツスーツ姿は、一流企業の社長秘書のようにも、高級娼婦のようにも見える。
警察署の応接室で、しかも殺人事件の重要参考人として保護されている一般女性の態度だとは思えない。
「マジシャン……それがあなた、ね」
篠原直之は驚いたように女を見つめた。
ソファーの対面に座って自分の名前と階級を告げただけなのに、次の瞬間には女の手にタロットカードが現れていたのだ。
「いきなり占いですか?」
しかも、ほんの数分間とはいえ、女はたった1人にされていた。なのに怯えてもいなければ、緊張してもいない。
所轄警察の応接室はさほど広くも、豪華でもない。しかし、取調室ほど狭く寒々しい部屋でもない。殺人被害者の第一発見者であり、犯人の可能性が残る女の立場からすれば、相応しいのは取調室だ。
篠原が女に抱いた第一印象は、その程度の知識や想像力は備わっているはずの〝常識的な大人〟だ。
しかし女は、それが当然だというように、寛いでいる。
女はさらに笑みを広げた。
「ライダー版タロット――これがわたしのコミュニケーション手段ですので、悪しからず。あなたこそ、警察官僚様のイメージとは大違い」
篠原は苦笑した。
女の言葉を認めるしかなかったのだ。
篠原は若い。自分でも、背広がリクルートスーツのように馴染んでいないと思っている。髪も長めで、今も寝起きのままのように整っていない。『まるでひ弱な文学部の大学生だ』と陰口を叩かれていることも耳に入っている。
警視という肩書きがいまだに落ち着かない。
だが、女のペースに呑まれるわけにはいかない。応接室の使用が許されているというだけで、〝普通の容疑者〟ではないとも理解している。
警戒心は研ぎ澄まされていた。
「準備が不充分なままここに来るように命じられたもので、すみませんね。お1人にしてしまって、心細かったでしょう?」
実際は同室しているべき刑事たちが逃げるように部屋を出て、再び入るのを嫌がっているのだ。
「とんでもない。わたし、嫌われてしまったかしら?」
篠原も、女が〝特殊〟であることは覚悟していた。だが、百戦錬磨の刑事たちがそこまで避ける理由が納得できない。曖昧な言葉しか選べなかった。
「そんなことはないと思いますが……。では通常の手続きから――」
女は最後まで言わせなかった。
「朝比奈純礼(あさひなすみれ)。年齢は……まだ20代だということにしておいて。職業は占い師。さらに趣味で、公言を憚られるような副業を少々。というか……わたしにとって愛を交わすことは、深層を占うために必要なことではあるんですけどね。で、殺人事件の現場に居合わせて保護を求めました。でも、さっきまでいた刑事さんは、わたしが犯人だと疑っているみたい。わたし、やってませんから」
篠原は呆れたように純礼を見つめた。
純礼は目を逸らすことなく、単純な答えを何度も繰り返させられたことに軽い抗議を訴えている。
すでに先手を取られていた。
「もちろんです。朝比奈さんは重要参考人として保護されているだけです」
「今はまだ、でしょう?」
篠原は、かすかなため息をもらした。鼻面を引き回されるのは望ましくない。
「では、僕を占ってください」
「はい?」
今度は女が怪訝そうな表情を見せた。目の前の男が、〝普通の警官〟ではないと確信したようだ。
真剣な眼差しに変わる。
「何を占います?」
「僕、という人間を」
純礼は挑戦的な微笑みを浮かべた。〝マジシャン〟のカードを手札に戻してテーブルに広げ、腕を素早く回してシャフルする。
口調が、顧客を前にした占い師のそれに変わる。
「では、『生命の樹』とも呼ばれるスプレッドで。これはあなた様の本質を見極めることを目的とした並べ方です」言いながら純礼はカードをまとめ、切っていく。「1枚目は性格、2枚目は行動理念……」
そしてテーブルに次々にカードを並べていった。
篠原は純礼の手元をじっと見つめている。
純礼が最後に出した10枚目のカードは、やはりマジシャンの正位置だった。
純礼自身がわずかに息を呑むのが分かった。
篠原が言った。
「最初と同じカードですね」
「強いのね……」
「細工はしていないようでしたね」
純礼が驚いたように篠原を見つめる。
「細工? なぜそんな必要が? カードは宇宙の意思に繋がる媒体です。人が捻じ曲げていいものでは……いいえ、捻じ曲げられるものではありません」
篠原も純礼の真剣さを嗅ぎ取った。
占いを信じているわけではないが、純礼の言葉に嘘は感じられない。本人が信じ切っていることは間違いない。
「で、僕はどんな人間でしょう」
「極めて理知的で、精密な頭脳の持ち主。なのに……いえ、だからこそ、かしら。無意味な決まり事には抗う。言うなれば、型にはまらないチェスの名手みたいなもの。定石に縛られず、盤面と局面を上空から見渡して100手先までを想定する――そんな人間離れした力を持っています。特に総合力を示す10枚目が、マジシャンですから。しっかりシャッフルしたのに……。間違いないでしょう。優れた手腕、類い稀な創造力、限りない可能性、卓越した洞察力、何よりも底知れない潜在力――破天荒な自由人だと思いますよ。だから、奥さんも彼女もいない。普通の女にとっては、面倒臭かったり怖かったりするタイプですから。なので、ゴールデンウィークの予定も特になし――といったところでしょうか」
「当たるものですか?」
「当たってます?」
「女性関係に関しては、正解です。でも、ゴールデンウィークの予定が立てられないのは、警官の多くも同様です。宿の予約なんて、今さら間に合わないでしょうし」
「そのほかは?」
篠原の困ったような表情は、多くの部分で思い当たる節があることを匂わせている。
「自分自身についてはあまり客観評価をしたことがないもので」
「わたしも、自分の占いを評価したことはありません。それは、お客さまがすることですから。ただ、ありがたいことにお客さまが途切れたことはありません」
「頼られているんですね」
「でも、当たるも八卦――とかいう占いとは、かなり違っていると思います」
篠原が純礼の表情の変化を読む。
「占い、という言葉がお嫌いなんですか?」
「まあ、それが職業上の分類ですから、甘んじて受け入れています。職業としている以上、世間様の常識に合わせている方が波風が立ちませんので。あなたも〝占い師〟と呼んでくださって構いませんよ」
「やはり好んではいないのですね」
純礼の目が真剣さを増す。
「そこに気づいてくださる方は、ほとんどいません。しかも、会ったばかりなのに」
「世に言う〝占い〟とはどこが違うのでしょうか?」
純礼がわずかに身を乗り出す。
「カードの本質は、〝宇宙の叡智〟に近づく手段です。真理は、ただそこにあるもの。タロットは、そのほんの一部を覗き見る〝窓〟にすぎません。いわば、目をつぶって象の体を手で探るようなもの。牙を触るか脚を触るかで、象の印象は全く異なります。ですが、象は、象。本質が変わることはありません」
「なるほど……一般的な占いのイメージとは、確かに違いますね」
純礼は驚いたように言った。
「馬鹿にしたりしないんですね。あなたは堅物だ、と噂していた方がいましたが」
「もうそんな情報まで手に入れましたか」
「占いにとっても補足情報は貴重ですから。自然と注意力は磨かれます」
「僕は理系出身だし、所轄とは馴染みが薄いし……体育会系の警察の中では異質で、疎まれているんじゃないですか」
「やはり理系でしたか。それなら、余計に不思議。占いなんて信じないのでは?」
「僕が信じるのは、再現可能な事象です。あなたはすでに、多くの署員を驚かせているようです。まずそれを認めただけです」
「あなたは当たり前のように言いますが、事実を認められない人が大半なのですよ。人は、常識や先入観に縛られる生き物ですから」
「たぶん、かつて僕がいた世界ではオカルトにしか思えないような物質の振る舞いが当たり前だったからでしょう。この世界が11次元でできているという理論が真剣に追求されています。世間から見れば、奇人の吹き溜まりでした」
純礼の目が輝く。
「11次元! スピリチュアルな世界を信じるわたしたちの間では、多次元宇宙やパラレルワールドは当然のこととして語られています。魂が成長して宇宙の真理に近づくことを、次元上昇とも呼んでいます。霊的な大陸であるレムリアは5次元の世界で、テレパシーで会話をしているとも言われています」
篠原は純礼の言葉を真剣に受け止めている。
「その解釈が正しいかどうか、僕には判別できません。しかし、多次元宇宙は数学的に扱われる命題ですし、超弦理論は宇宙の法則を統合する可能性を秘めています。テレパシーも脳の機能として科学的に研究されています。どれもかつてはキワモノ扱いでしたが、解明が進めば進むほど、いわゆるオカルトとの共通性が注目されていることは事実です」
純礼が訂正する。
「スピリチュアルとオカルトは同一ではありませんが」
しかし、不快そうな表情は見せていない。
「どう違うんですか?」
「オカルトは目に見えない、あるいは常識では理解できない超常現象全般を指すことが多いようです。ですので、ホラー映画のような騒がしいものまで含めてしまうことがあります。スピリチュアルはその中の、精神世界に関わるもの――肉体を超えた、霊や宇宙的な存在にかかわる事象に特化していると言えばいいでしょうか」
「宇宙的、ですか……。だから感覚が似ているのでしょうね。僕らが生きている3次元の世界は、11次元のデータが『量子もつれ』によって投影されたホログラムのようなものだという数学的研究もあります。スピリチュアル的な解釈は、直感的に宇宙の深淵を体系化しているのかもしれません。僕らはそれを数式で解読しようとしているだけなのかも」
「本当に常識に縛られないんですね」
「研究者の中には、究明の果てに神に目覚める者も多いと聞きますから。タコツボのような世界に潜り続けて正気を失うより、はるかに健康的です」
「でもそれ、素敵です。わたしたちも、人は魂を磨き、次元を上昇していける存在だと信じていますので」
「意味が同じかどうかは分かりませんが、抵抗はありませんね。むしろ、分かり合えそうです」
「だから、なのですね……」
「何が、ですか?」
「あなたは、2度もマジシャンを引いています。確率的にはとても低いことです。つまり、宇宙が確信しているということ。凄まじいほど強いエネルギーを放っているし、次元も波動もとんでもなく高い。普通じゃありません」
「買い被りでしょう。ですが、変わり者であることは否定できません」
「訂正したいのなら、宇宙に言ってください。でも、出世頭なのでしょう?」
「それもタロットで分かったんですか?」
「いいえ。実は『変わり者の警官がいる』ということは、かつて小耳に挟んだことがあって……。東大理Ⅲ出身で宇宙物理学専攻なのに、警察官に転身したとか。あなたのことでしょう?」
「訂正です。専門は量子力学でした」
「やっぱり、ね。見た瞬間から、他の刑事さんとは違うと感じていました」
「警官ぽくないって、いつも言われます。だからでしょうか、同僚の友人はほとんどいません」
「なのに、なぜ警察に?」
「質問は僕がする立場なんですが?」
「いいじゃないですか。時間はあるんでしょう?」
「まあ、それはそうですが……」
「警察って、そんなに魅力があるんですか?」
「魅力があるのは、人間です。数学や理論物理にのめり込むと、人間はおかしくなったりします。僕は理論より、そんな人間の不思議さに魅せられたようです」
「で、犯罪者の心理を知りたくなった?」
「なぜ分かるんですか?」
「カードに出てますから」
篠原は再びため息をもらす。
「そんなものなんですかね……僕としては、占いは盲信できないんですけどね」
「宇宙の意思、ですよ。納得してくださるまで深掘りしても構いませんけど?」そしてまた謎めいた笑みを浮かべる。「ただし、広いベッドが欲しいですね。それと壁が厚い部屋……かしら。わたし、声が大きいらしいので」
篠原は肩をすくめた。
「それ、署内じゃ御法度ですね。いつか、チャンスがあったら」
「チャンスは作るものでしょう?」
純礼はまるで、舌なめずりでもしているようだった。
篠原は無理やり話を変える。
「どうして僕のことを知っていたんですか?」
「噂を聞いただけ。占いをしていると、いろんな方とお知り合いになれるもので。高名な経済人はもとより、政治家とか、官僚様とか」
「信頼されているようですね」
「失望させたことは少ないようです」
「そこから情報を?」
「占っていると、いろんなことが分かったりしますので。特に、夜は」
「だから、応接室なんですね」
「今しろ、と? ここの壁、声は漏れなくて?」
篠原が苦笑する。
「そうじゃなくて、お知り合いに有力者が多いから応接室に通されたんでしょう? 上司から指示を受けた時には、あなたは取調室にいるものだと早合点していました」
「わたしが要求したわけじゃありません」
「しかし、粗末には扱えない人物だという情報は署内に広がってます」
「余計なこと喋らないように、閉じ込めておきたいのかしら?」
「でもあなたが〝余計なこと〟を知っているというのは、情報漏洩の一種ですよね?」
「でも、喋りません。占い師にも守秘義務があると思っています」
「なのに、僕のことは知っていた? 誰からお聞きになったのですか?」
「守秘義務」
「おやおや……でも、名前を聞いただけで、僕がその人物だと分かったんですか?」
「だって、こんない強いカードは並の人物には出ません。篠原さん、警視庁でもかなり高い地位にあるんでしょう?」
「警視ですが、管理官という立場も与えられています」
「管理官?」
「捜査本部を指揮する責任者、といったところです。ですが僕はまだ見習いで、管理官補佐と呼ぶのが正しいでしょうね。『実際に事件に接して見聞を深めろ』という段階です。まだ大きな事件は任せられないので、管理官の名前には相応しくない遊撃隊的な役割を与えられることがほとんどです」
「そうはいっても、幹部なのでしょう?」
「中途入署とはいえ、キャリアですから」
「やはり出世頭ね。その若さでは、普通は手が届かない地位ではありません?」
「公務員試験の成績は良かったものでね。不定期の転身でしたが、警視庁幹部は喜んでくれたみたいです」そして肩をすくめた。「今は後悔してるようですけど」
「自由人ですものね。官僚組織にとっては双刃の剣」
「風当たりが強いと感じることは、ありますね」
「でも、辞める気はないんでしょう?」
「仕事が面白くなってきたところなので」
「わざわざ下町の警察署に送り込まれてくるだなんて、お気の毒に。なんでわたしの世話を命令されたのか、当ててみましょうか?」
篠原が笑いを堪える。
「ぜひお願いします」
「わたしがこんなだから。普通の刑事さんじゃ、持て余すからでしょう?」そして、ニヤリと笑う。「他の皆さんみたいに」
「ビンゴです。変わり者には変わり者を付けるしかないって、上から泣きつかれました。しかも、機嫌を損ねるとあっちこっちから苦情が出かねない、と。ここ、蔵前署っていうんですが、署長が悲鳴をあげたそうです」
「わたし、迷惑なことはしてないはずですけど?」
「占い……おっと失礼、タロットリーディングというんでしたっけ」
「占いで構いませんよ」
「方法はどうあれ、署員のプライベートまで暴き出されたら気まずくなるばかりですから」
純礼はついに笑い声をあげた。
「だって皆さん怖い顔の方たちばかりで、和ませてあげたかったんですもの。でも、表層をサラッと撫でただけよ。当人の許可なく深掘りはできませんから」
刑事たちが逃げ出した理由が氷解した。
「困った人ですね……まあ僕なら署員と絡むことも少ない立場ですから、ご自由に弄んでください。ただし、何度か組んだ知り合いがいないわけではありません。繊細な部分は、ぜひ守秘義務ということで」
「わたしを守ってくださるなら」
「それが僕に下された命令ですから」
「でも、本当にわたしの身も危険なのかしら?」
「殺人現場の目撃者なんです。自覚してください」
純礼が疑い深そうに首を傾げる。
「それだけで? なんだか、この建物全部がピリピリしているように感じるのですけど」
「でしょうね。『あなたに危害を加えさせるな』という指示は、かなり上層部から降りてきたようです。みんな、理由は知らなくても、あなたが重要人物だということは察しています。例外づくしの扱いですから。それだけに、警備は万全です」
「安心しました」
「では、本題に入って構いませんか?」
「本題? わたし、何か疑われているんでしょうか?」
「いいえ、重要参考人で変わりありませんよ。ただ、意外な事実が1つ、見つかってしまいまして」
純礼は含み笑いを消さないまま、わずかに首を傾ける。
「意外な?」
「それこそが、あなたを守らなければならない真の理由です」
「やっぱり、他にも理由があったのね」
「本橋努という人物をご存知でしょうか?」
「さて……。仮に知っていたとしても、占いのお客様ならお話しはできませんよ? 多くのお客様は、競合と覇を競うためにわたしにお声がけくださいますので。個人事業主にも、企業秘密はありますから」
「では、薬師寺柾さんなら? 本橋は彼の本名なんです」
「あら、高名な小説家さんですね」そしてわずかに息を呑む。「先生、何かしらの事件を起こして捕えられていたのに、どこかに姿を消してしまった、とか……」
「そんな情報はお持ちなんですね。事件の内容が不可解すぎて、報道されないように手を尽くしたとされているんですが」
「公にできないお話が耳に入るルートも少なくありませんから」
「薬師寺氏も顧客だったのですか?」
純礼は返答をためらわなかった。
「いいえ。ぜひベッドを共にとお願いしたんですが、断られました。取引の関係というなら、むしろわたしが顧客側だったかもしれません。薬師寺先生のご著書には好きなものが多かったので、無償で何度かお会いしていただきました。『新たな作品の取材で占い師のテクニックや日常を知りたい』というお話しをいただいたもので」
「いつ頃ですか?」
「わたしがまだ駆け出しの頃でしたから……もう10年ほど前にはなるのでしょうか」
「薬師寺氏にまつわる事件の情報はどこまでお持ちでしょうか?」
「それは……少々困った質問ですね。情報源をお教えすることにもなりかねませんので」
「捜査の一環として、僕たちも知らないとならないのですが……」
「参考人にも強制されるのでしょうか?」
「そういうわけではありません。ただ、万一容疑者と認定されれば強制力が生じます。黙秘権は与えられますが、あなたにとって不快な状況を招く恐れもあります」
「でしたら、容疑者になるまでは口を閉ざしておきましょう」
篠原は仕方なさそうに小さくうなずく。
「では、事件の概要は僕の方からお話ししましょう」
「わたしに関係があるのですか?」
「非常に濃厚な関わりがあります」
純礼の表情から笑いが消えた。
「お聞きします」
「数年前に数件の連続猟奇殺人が発生しました。いずれも薬師寺氏の小説に描かれていたのと同様の無残な殺され方をしていました。で、重要参考人としてお話を伺ったところ、薬師寺氏に中には4人の人格が潜んでいていたことが判明しました」
純礼の声のトーンが上がる。
「多重人格ということですか⁉」
「嬉しそうですね」
「興味深いじゃないですか! わたしのお客さんの中には、そんな方はいないですから」
「普通は、出会うことなどない種類の人物です」
「でしょうね」
「で、状況から見て、本人を含めた5人の中のいずれかの人格が犯行を行なったことは疑いようがありませんでした。どの人格が殺人犯なのか、突き止めなければ起訴も処罰もできません。そもそも現行の法規制の中で、肉体を持たない人格にどう対応すればいいのかも不明瞭です。事件解明の第一歩として『高次脳科学研究所』での隔離検査を行うことになったのですが――」
「あ! いつぞや大きな火災を起こしたという!」
「それです。正確には火災や事故というより破壊活動だったようですが、それも不可解な点ばかりで公表が憚られました。マスコミが事件を歪めて報道すると、パニックを起こしかねないという判断でした。面白半分の誇大表現で視聴率を稼ごうとするテレビ番組もありますのでね」
「実際にはどんな事件だったのですか?」
「施設のあちこちが破壊され、死者も何人か出ました。当初は薬師寺氏が超能力を持っていて破壊活動に用いたとも疑われていました――」
純礼の目がさらに輝く。
「超能力! どんな能力なんですか⁉」
「ほんと……嬉しそうですね」
「いわゆるオカルト全般にも抵抗がありませんから。というか、大好物」
「超能力に思えた事象の多くは、自害した所長が仕組んだ物理的な仕掛けだったと判明しています。手の込んだトリックや爆発物も多用されていました。そもそも職員の間に確執や愛憎が入り組んで、殺意にまで高まっていたようです。薬師寺氏という特異な研究対象が加わったことがきっかけで、内紛が表面化したようです。ただし、薬師寺氏が奇妙な能力を持っていることは詳細な医学検査で証明されています。多重人格も単なる思い込みなどではなく、人格が変わると体内の組成すら変化することが計測されました」
「体まで変化するんですか⁉ 『超人ハルク』みたいに?」
篠原も純礼の無邪気さに釣られて笑った。
「質量が大きく変わることはあり得ません。ヒーロー映画やアニメではないので、基本的な物理法則が破られることはないようです。ただ、血液成分や脳の活動領域が急速に変化したことは確認されました。変化する量は、肥満や老化でも起こりうる程度に過ぎません。しかし、変化のスピードが常識を超えていたそうです」
「それも超能力?」
「数年かけて変わるなら普通でも、数分で移行したのですから超能力だともいえますね。体内組成の組み替えが起きたことは実証されています。多重人格の副作用のようなものだと考えられたようです。しかし、それ以上の解明は進んでいません。事故で中断したままです」
「事故の際に薬師寺先生が姿を消した、と?」
篠原がうなずく。
「半年ほど前のことです。公には『薬師寺氏は火災の混乱に便乗して逃亡した』とされていますが、不可解な点は解消されないままなのです」
「不可解、とは?」
「僕の直感です。ここに来る前に、1000ページほどの報告書を読んできましたが、どうにも納得がいかなくて……」
純礼が怪訝そうな顔を見せる。
「来る前、って……わたしが保護されてからまだ3時間ぐらいしか経っていませんよ? それからあなたに指示が行ったなら……たった数時間で1000ページ?」
「そういうの、得意なんです。読むのは早い方だし、記憶も自然にできますから」
「それでもまだ準備が不充分なの?」
「普段なら、情報収集にはもっと時間をかけます」
「やっぱりあなた、特別な才能をお持ちね」
「僕のことはさておき、薬師寺氏の多重人格はファンクショナルMRIなどの最先端医療機器を投入した分析でも確定されていました。その検査を進める途中で、彼の周辺で不可解な事件が多発したわけです。なのに、事件の全容はいまだに解明し切れていない。だとするなら、奇妙な事象の中に薬師寺氏が手を下したことも含まれている可能性は残ります。本当に超能力と呼べる力も存在し得るのではないか、と思えるのです。というより、いわゆる超自然的な能力を想定しないと筋が通らないこともあって――」
「やっぱりオカルトじゃないですか! ……でも、それがわたしとどういう関係が?」
「薬師寺氏の中に潜んでいた人格の1つが、あなたなんです」
純礼が息を呑む。
「はい? ……どういうことでしょうか?」
「薬師寺氏の中には、あなたの人格も宿っていたのです」
「うそ……」
「嘘ではありません」
「だって……多重人格って、現実の苦痛から逃避するために架空の人格を作り出すことじゃないんですか?」
「通常はそのような現象が多いようです。しかし薬師寺氏の場合は、極めて特徴的な違いがあります。空想の人物と同一化するのではなく、現実に生きている他人の人格を吸収、あるいは模倣できるようなのです」
「どうしてそんなことが……? それこそ超能力じゃないですか!」
「その通りです。ですから完全に解明できるまでは、迂闊に公表できなかったのでしょう」
「そうはいっても、どうやって……? 先生とは何度かお話ししただけなのに……」そして気づく。「そういえば、警察の方から先生との関わりを尋ねられたことがありました! 1年ほど前でしたか……」
「薬師寺氏の人格を同定する調査の一環だったと思います。オカルト的でスキャンダラスなので、極めて小規模に、かつ慎重に行われたようです。これもマスコミに嗅ぎつけられると、大騒ぎになりかねませんから。ですので、調査対象の当人にも目的は隠されていました」
「わたしの記憶さえ曖昧なくらいですものね……。でも、どうすれば他人の人格を盗んだりできるんでしょう……?」
「方法は不明です。薬師寺氏に限っては可能なのだ、としか言いようがありません。むしろ僕がお尋ねしたい。どうしたらそんな離れ業が可能なのか、あなたの世界ならどのように解釈できるでしょうか?」
「わたしの世界?」
「オカルト――いや、スピリチュアルですか、そういった考え方では、いかがでしょうか?」
「スピリチュアルというより、それこそ超能力の部類だと思いますが……例えば、人体が発する波動を読み取った――とかはあるかもしれません」
「波動、ですか? さっきも僕の波動が高い、とか言ってましたね」
「生命エネルギーというか、魂の波動が高まると、より宇宙の真理に近づけます」
「いわゆる〝オーラ〟とか〝気〟のようなものでしょうか?」
「オーラと混同する方も少なくありませんが、違いはあります。オーラは人が持つエネルギーそのもので、波動はその動き――と解釈するのが一般的でしょうか。大きな仕事を成せるような方は当然波動が高く、嘘いつわりに塗れたような方は低いものです。個人差が大きい指標でもあります」
「それが人格の奪取に関係している、と?」篠原が気づく。「あ、そうか。オーラが電流だとすれば、波動はその周囲に生じる電磁波のようなものか……」
純礼がうなずく。
「たぶん、似ていると思います。電磁波を読み取れれば、電流の変化も調べられますよね?」
「薬師寺氏は、その波動を感じ取る能力が並はずれているということですか……」
「波動を解析する能力を持っているなら、そこから人格を盗み取ることもできるかもしれません。ただの思いつきですけど」
「その仮説が正しいなら、確かに非接触で人格をコピーできそうですね」
「わたしの人格がこっそり奪われていただなんて……不愉快。というより、怖い」
「方法はともかく、朝比奈さんが薬師寺氏の中にいることは科学的に検証されています」
「本当に怖い……では、他の人格も実在する誰かから奪ったのでしょうか?」
「そうです。やはり小説の取材だと称して、特殊なスキルを持った人物の人格を意図的に集めた可能性があります」
「どんな方々の?」
「それは一応、まだ秘密ということで。警察にも守秘義務がありますから」
純礼は拗ねたように、わずかに首を傾ける。
「さっそく意趣返し?」
「僕にはそんな意地悪をしている余裕はありません。今回の殺人事件に話を戻しましょう。被害者は身元不明の男性で、あなたが訪れたホテルの浴槽で死んでいた――」
「馴染みのお客様からメールでお招きいただいたもので」
「そのお話は裏を取りました。発信者当人は何も知らないということ、そしてハッキングの痕跡が明確に残されていたことも、確認済みだそうです。ですから発信者の氏名は、僕にも秘密にされています。高名な方なのでしょう?」
「守秘義務」
篠原も苦笑する。
「その方があなたに危害を加えないという確信がおありなら、僕は何もうかがいません。ただし、死体の姿は極めて異様でした」
「わたし、浴槽の中を見ただけでびっくりして、よく見られなかったんです。変な匂いもしてたから……」
「歯を砕かれ、皮膚全体が溶剤で溶かされていました。あなたにまでそのような危険が及ぶ恐れがあるなら、僕の立場も変わります。身柄保護が第一だと命じられていますので」
「溶かすって……被害者の身元を隠すため……なのでしょうか?」
「そう判断されています。今も身元調査に行き詰まっています。ですが部屋には、多くの指紋が残されていました。そのいくつかが、データベースにあった薬師寺氏と一致したのです」
「だから先生が殺した、と……?」
「逃亡中の猟奇殺人犯ですから、真っ先に疑われるのは当然でしょう」
と、応接室のドアが開かれた。
入ってきたのはいかにもベテラン刑事という風態の、初老の大柄な男だった。現場を歩き回ることで日に焼け、風雨にさらされた木の彫刻のようにゴツゴツした印象を与える。
篠原と目が合って、顔をしかめる。困ったようにつぶやいた。
「やっぱり……。本庁の管理官クラスがお目付役だって聞きましたが、こんなヤマならあなたが出てくるに決まってますもんね」
刑事が肩を落として、ため息をもらした。
対して篠原は、面白がっているようだった。
「高山さん、お久しぶりです」
高山と呼ばれた刑事が部屋に入ってドアを閉める。
「俺はあんまりお会いしたくなかったんですがね……。あなたと絡むと、奇妙な事件に巻き込まれる気がしてね……」
「まあ、そう言わずに。これも仕事でしょう?」
「普通の仕事ではなくなってしまうのが困るんですって。で、やっぱりあなたの〝直感〟がガイシャを当てたんですか?」
「判明しましたか?」
「DNAは誤魔化せませんから」
高山が、手にした文書を篠原に手渡す。
それを見た篠原がつぶやいた。
「やはり、でしたか……」
純礼が問う。
「誰、なんでしょう……?」
篠原は純礼を見つめた。
「岩渕剛。表向きは時計職人です。老人と言ってもいい年齢ですが、実際はかつての左翼活動家でした。何度か爆弾事件なども起こしています。一時期国外に出て、アラブ系のテロリスト集団と行動を共にしていたようです。肉体派とはいえないようですが、明らかに反社会的な破壊活動を志向して軍事訓練も受けていたようです。ご存じですか?」
純礼はまた首をかしげた。
「いいえ? わたしと関係があるのでしょうか……?」
「薬師寺氏の多重人格のコピー元になった1人、です。あなたと同様に」
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