第23話 沈黙する遺失物

 神奈川県警・科学捜査研究所――。

 冷たい蛍光灯の光が白いタイルの床に反射し、室内にかすかな緊張感を漂わせていた。

 科学捜査研究所のラボは、最新のテクノロジーが詰め込まれた機器が整然と並ぶ。静謐せいひつでありながらどこか生気を感じさせない空間だ。

 有森司は神奈川県警・科学捜査研究所初の、女性所長であった。

 友人は彼女を“生粋の研究オタク”と評する。

 例えば何処かに食事に出かけ、その料理に使われている材料が気になり始めると、鶏肉は豚肉や牛肉と比べると含まれている炭水化物が少ないことが特徴ということから始まり、ビタミンB群がどうのと、長々と説明したがる――、らしい。

 本人は、まったく自覚はないが。


「まったく……、あいつはいつから、科研うちを便利屋だと思っているのよ……」

 有森はデスクにて、渋面になっていた。

 三日前のことだ。

 元科研研究員にして、神奈川県警刑事部捜査一課・特殊捜査班のメンバー、天城宿禰が鑑定してほしいと一本の万年筆を置いていった。

 しかもろくに説明もせず、こちらが引き受けると言ってもいないのにだ。

 このところ科研は、他の事件で上がったものの鑑定で、徹夜を強いられた研究員もいる。

 そんな彼女のデスクには、横浜銘菓ハーバーが置かれている。

 かつて“ありあけのハーバー”と呼ばれた、横浜定番の焼き菓子で、これも天城からだ。

 

「所長……、また菓子に釣られましたね」

 科学研究員・藤本が、有森に珈琲カップを渡して苦笑する。

 そう、有森が強く拒めなかったのはこの“置き土産”のせいなのだ。

 天城は有森にものを頼んでくるときは、スィーツ持参でやって来る。これがまた有名な菓子店の、朝から並んでやっとゲットできるという品だったりとすると、彼女の心の天秤はそちらに傾いてしまうのだ。

 今回はハーバーだったが、子供の頃から親しんだ味であり、有森の好物のひとつだ。

「それで……、あの万年筆からなにか出たの?」

 有森の問いかけに、今度は藤本が渋面になった。

「それが――」

 その分析結果を聞いた有森は、愕然とした。

「……天城あいつがどうして何も言わず科研うちに預けたか、わかった気がしたわ」

 

                  ◆◆◆

   

 ミンミンゼミの鳴き声に、蜩とツクツクボウシの鳴き声がプラスされ、蝉時雨は一層賑やかになった。

 横浜市中区海岸通――。

 

 この場所は、昼と夜でまるで別の顔を持つ。

 昼間、海岸通はビジネスマンや観光客が行き交う活気に満ちた街並みとなる。

 広々とした通りには高層ビルが立ち並び、その間を抜ける風が潮の香りを運んでくる。

 近くの港には白い帆を広げた日本丸が停泊しており、時折、波に揺れる船影が穏やかな水面に映し出される。

 通り沿いには歴史ある建物も点在しており、赤レンガの倉庫群や石造りの洋館が、その古き良き時代の名残を今も留めている。

 

 しかし、夜になると、この街はまた別の魅力を見せる。

 通りの灯りが静かに灯り、暗闇の中でまるで宝石のように輝く。

 港に反射する街の明かりが、波に揺らめいて幻想的な光景を作り出す。

 通り沿いのレストランやカフェからは、ジャズが流れ、海散歩をするカップルや、夜景を眺める一人旅の人々が、海岸通をゆっくりと歩く様子が見られる。

 遠くには横浜ベイブリッジが見え、そのアーチ型の構造が夜空に浮かび上がる様は圧巻だ。時折、橋を渡る車のライトが流れ星のように見える瞬間があり、その一瞬の煌めきが、海岸通の静かな夜に命を吹き込むのだ。

 神奈川県警はこの、海岸通にある。

 横浜市中心部の関内地区にあり、大桟橋や横浜税関など横浜港の主要な港湾施設が位置している。

 一丁目には大桟橋や横浜税関、横浜水上警察署があり、弓なりに湾曲した形から象の鼻と呼ばれた波止場、象の鼻パークも近くだ。

 そして二丁目の海側にあるのが、神奈川県警本部である。

 


 本郷孝宏殺害事件も一課が抱える事件も、容疑者に関する情報が得られぬまま二週間になった。本郷孝宏殺害事件については、本郷氏とトラブルがあり、殺害する動機がある人間の名前が数名挙がったが、彼らにはアリバイがあった。

「ふりだしに戻ったか……」

 特殊捜査班班長・神崎が大きく溜め息をつく。

「前歴者のなかに本郷氏と関係がありそうな人間はいないか検索したのですが、ヒットする人物はいませんでした」

 警部補・矢田の報告に、神埼の眉間に皺が追加される。

 事件捜査は、情報が多いことに越したことはない。

 一つ一つ虱潰しにあたって潰していき、確かな情報を得る――、地道な作業が強いられるが、捜査員は真実を明らかにするために努力している。


 

 そんななか天城の視線は、ホワイトボードに貼られた一枚のメモに注がれていた。

 本郷孝宏殺害現場で発見された、“乙女の”と書かれた、あのメモである。

 作品を本郷氏に見てもらうため、クリスタルガラスの作品を持参したというガラス工芸作家・倉橋晟也に「書いたのはあなたたか」と聞いた所、彼は書いていないという。

 当然――、亡き本郷氏の執筆原稿などから照合したが、本郷氏の筆跡ではなかった。

 メモは破かれた状態であった。

“乙女の”という言葉は、前半の分と後半の文が欠落していたのだ。

 つまり、“乙女の”の前に書き出しの文があり、“乙女の”のあとに続く文があったかも知れないのである。残念ながら、現場からはそんなものは見つかっていない。

 ただ――、メモから強い念が感じられる。

 人に有無を言わさず、従わせようとする強い意志が。

 天城は倉橋晟也の言ったことを思い出していた。


 ――先生は僕の作品を見るなり、お前がわたしを脅迫していたのか!?と……。


 本郷孝宏は、誰かに脅迫されていた。

 もしそれが、“乙女座ヴァルゴの真実”という言葉に隠されているとしたら?

 天城は自身に問いかけて、眉を寄せた。

 すると築地が、天城に対して口を開いた。


「そういえば天城さん、この間現場近く拾った、犯人の遺留品かも知れないというアレ、どうなったんですか?」

 築地が言う“犯人の遺留品かも知れないというアレ”とは、万年筆のことである。

 本郷邸から先にあった空き地――、裏道に通じていた斜面に、その万年筆は落ちていた。


 草むらの中で、ひっそりと横たわっていたその万年筆は、まるで時間が止まったかのように静かに存在していた。

 周囲の草は風に揺れ、季節の移ろいを感じさせるが、そのペンだけは、まるで過去の一瞬に取り残されたかのように、そこに居続けているようだった。

 どこかで誰かが、これを失ったことに気づいているだろうか。それとも、すでに忘れ去られ、今やただの「落とし物」として、草むらの一部になってしまったのだろうか。 

 だがその万年筆は、天城に対して多くは伝えてこなかった。

 モノには持ち主の念と記憶が宿る――、というのが天城の持論だが、何故かその万年筆は沈黙しているのだ。

 

「そろそろ、科研から分析結果の報せがくるだろう」

 天城は築地に対して、そう答えた。

 科学捜査研究所所長・有森司は、天城が直接持ち込んだモノに最初は迷惑そうな顔をした。

 科研は、刑事課などから正式な依頼の元に鑑定分析を行うからだ。


 なぜ、かの万年筆はなにも語らないのか。

 築地によれば、その万年筆が発売されたのは一年前らしい。

 本郷邸がある高級住宅街は、十年前からあったという。

 裏道に通じる斜面を、住宅街の人間は降りることはしないだろう。裏道に出たのなら本郷邸の隣家横を通り、アンダーソン十番館に出ればいい。

 つまり、万年筆が発売された一年前から天城たちに発見されるまでの間に、誰かがそこに落とし、放置され続けたことになる。


 昨年の1年間に、全国の警察に提出された拾得物は、「物品」が約2979万点、「通貨」が約二二八億円で、いずれも過去最多だったらしい。

 要因はコロナ禍が一段落し、人流が復活したことで、前年比でも大きな増加につながったようだ。

 天城は特殊捜査官となった最初の頃――、かつて、拾得物保管室に入ったことがある。


 そこは、静かなざわめきに包まれていた。

 そこには、持ち主を待つ多くの物たちが並んでいる。

 彼らはそれぞれが小さな物語を秘めており、互いにその物語を天城に語ってきた。

 棚の一番上に置かれた古びた腕時計は、長い年月を刻んできたという。

 かつては若い兵士の手首に巻かれていたというその時計は、戦争の荒波を乗り越え、帰郷後も家族と共に時を過ごしたらしい。だがある日、時計は主の元を離れ、時計は持ち主の温もりを探し続けている。

 

 隣には、赤い革の手帳が置かれていた。

 手帳の中には、さまざまな夢や計画が書き込まれている。それは新しい生活を始めるためのリスト、旅の計画、そして大切な人へのメッセージなどだ。

 だが、その手帳も持ち主の手から離れ、手帳は書き込まれたその夢を叶える日を待ち続けている。

 

 一方、棚の下段には子供のミトンが一つ、寂しそうに座っていた。

 もう片方のミトンとはぐれてしまい、寒い冬の日に持ち主の小さな手を温められなかったことを悔やんでいる。それでも、ミトンはいつか兄弟と再会し、またあの温かい手に包まれる日を夢見ている。

 そのほかにも、鍵束、古い本、壊れた眼鏡、そして使い古された財布など、様々な物たちがそこに集まっていた。それぞれが異なる背景を持ち、それぞれが違った持ち主を思い浮かべながら、日々を過ごしている。

 持ち主が自分の大切な物を取り戻しにやってくればいいが、持ち主と再会できなかった物たちは、保管庫のなかでひたすら待つのだ。

 再び持ち主の手に戻るその日を。

 ものにはこうして人の記憶が宿る。

 なのにだ。

 天城が拾った万年筆は、それらのことを語ることはなかった。

 そんな天城のスマートフォンが、着信を報せる。

 かけてきたのは、科研所長・有森である。

 

「――ちょうど、結果が知りたいと思っていたところですよ。所長」

「結論からいうと――、なにも検出できなかったわ」

「え……」

 有森いわく、万年筆には一切の指紋がついていなかったという。

「なにもなさすぎて、気味が悪いわね」

 電話の向こうで渋面なる有森の顔が、天城の頭に浮かぶ。

 どうやら天城自ら、新たな謎をひとつ拾ってしまったようだ。

 


 

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