第22話 事故か? 事件か? ある男の死
「それはいったいどういうことだ!?」
男はスマートフォンに向かって
彼の手は震えていた。スマートフォンを握る指先から冷たい汗が滲み出ていた。
横浜市中区にある高級マンション――、かかってきた一本の電話が
「随分と高いお買い物をされましたね。東郷さん」
電話の向こうから冷たく無機質な声が響いた。その声は、まるで氷のように冷たく、容赦ない響きを持っていた。
「知らん! 何なんだ!? 君は」
「ヴァルゴ、ですよ」
その言葉が彼の胸に鋭く突き刺さった。
脅迫の内容が現実味を帯び、彼の脳裏に鮮明なイメージが浮かんだ。
職場での立場を失う、社会から孤立する、一つ一つの想像が、まるで現実であるかのように彼を押し潰していく。
ヴァルゴ――、それは世間にはぜったいに知られてはならない彼の秘密だった。
今思い返してみれば、手を染めるべきではなかった。
何処から情報が漏れたのか。
綻びは、ある男との会話を職場の人間に聞かれたことだ。
彼をなんとかしなければならない。
東郷は、ある人物に電話をかけた。
それから数日後、東郷の秘密を知ったその人物は亡くなった。
あのことを知っている外部の人間がまだいる――。
東郷は心の中で必死に冷静さを保とうとしたが、恐怖がそれを許さなかった。声を出そうとしたが、喉が詰まって何も言えない。
警察が知れば、自分は破滅する。
電話の男は
その笑い声は彼をさらに追い詰めるものであり、彼の希望を打ち砕くようだった。
彼の体から力が抜けていくようだった。無力感と恐怖が一体となり、彼の心を蝕んでいく。電話を切る勇気も、何かを言い返す勇気もなかった。ただ、その冷酷な声に耳を傾けるしかなかった。
◆
神奈川県警交通部・交通捜査課――。
陽射しが窓から射し込み、署内の廊下を照らしていた。
よく磨かれた床は太陽の光を反射し、まるで光の川のように輝いている。
職員たちはいつもより少し活気づいているようで、それぞれのデスクでパソコンのキーボードを打つ音や電話のベルが、静かに響く。
ガラス越しに見える青空は雲ひとつなく澄み渡っており、外の世界がそのまま平穏であるかのような錯覚を覚える。
「睡眠薬……?」
交通捜査巡査部長・
この前日――、市内・環状三号線で居眠り運転による死亡事故が起きた。
環状三号線は、横浜市中心部に集中する交通の分散と、郊外部の連絡強化を図る重要な環状道路である。
病気による眠気の誘発ということも疑わられるため、検死に出したのだが――。
「ああ。体内から、睡眠薬の成分が検出されたよ。まったくなにを感がていたんだろうねぇ。睡眠薬を飲んで運転すればどうなるかは、わかるだろうに」
解剖鑑定書を持参してきた監察医・矢橋陽一は、そう言って溜め息をついた。
「じゃあ、自殺ですか?」
「いんや、事故だよ。自殺なら睡眠薬だけすむ。わざわざ車に乗るかい? ところであのホトケさん、銀行の支店長さんだって?」
「――みたいです。それにしても、どうして車に乗ったんでしょうね?」
事故車両からは運転免許書とともに、会社でいう社員証――、行員証明書が発見された。
死亡したのは東芝銀行横浜支店の支店長・東郷光博――、五十七歳。
西島の問いに、矢橋が眉尻を下げた。
「わしに聞くなよ。それを調べるのは、お前さんたちだろうが」
「はは……、そうでした」
西島は頭を掻きながら笑った。
現場検証に向かうため、捜査車両に乗り込もうとした西島は、見覚えのある捜査員が車から出てくる場面を目撃した。
「神埼警部補!」
「よぉ、シマ」
神埼と呼ばれた捜査員は、破顔した。
刑事部捜査一課・特殊捜査班の班長、神崎健である。
以前は一課二係にいたが、西島が気がついたときには特殊捜査班に異動になっていた。
「班長自ら、聞き込みですか?」
「ああ。なにせ特殊捜査班は五人っぽっきりだかなぁ……」
神埼はそう言って、首の後ろを掻く。
「また一緒に、仕事がしたいですねぇ」
「事件なのか?」
神崎の
交通捜査係の仕事は、県内で重大交通事故やひき逃げ事件等が発生した際、いち早く現場へ行き、鑑識活動、聞き込み捜査など、犯人検挙に向けて捜査をする。
もし被害者が各種事件に関与していた場合には、刑事部もや捜査に参加するのだ。
「いえ、居眠り運転による事故です。東芝銀行横浜支店の支店長さんらしくて――」
「東芝銀行横浜支店?」
神崎が胡乱に眉を寄せた。
「なにか?」
「いや……、どこかで聞いたような……」
「そりやあ、駅前に建っていますからね。目に入りますよ」
西島は「では」と会釈して、捜査車両に乗り込んだ。
サイレンが鳴り、事故現場へ向かって走り出す。
――今日の昼は、何を食おうかなぁ……。
西島は、車の中でそんなことを考えていた。
◆◆◆
午前十一時半――、特殊捜査班の部屋の空気は、いつもより重かった。
一週間前に発生した本郷孝宏殺害事件は予想以上に難航し、メンバーたちはそれぞれのデスクに向かい、資料を広げたり、ホワイトボードに書き込まれた手がかりを見つめたりしていた。
いつもならこの時間、朝食は外食にするか、店屋物にするかなど騒ぐ築地も、苦悩の表情を隠せないまま、書類の山に埋もれていた。彼の隣では、ベテラン捜査員の矢田が眉間に皺を寄せ、捜査資料を睨みつけている。
天城もまた、デスクの上を見つめていた。
山手町の裏道で、天城が拾った万年筆である。
指紋がつかぬよう厳重にビニール袋に入れられているが、万年筆に意匠された金飾りがキラリと光った。
精神を集中させ、モノの声に耳を澄ます。
夏草が茂る急な斜面――、一人の男が上り降りる姿。
男はどんな思いで、そこを歩いたのだろうか。
「あっ、思い出した……!」
突然、神崎が声を上げた。
お陰で、天城に視え始めていた犯人の顔が吹っ飛んだ。
「班長……、驚かさないでくださいよ」
「思い出したんだよ、山下公園で死んだ銀行員のことを」
「あれは、自殺でかたがついたんでしょう?」
「下で交通課の西島に会ったんだが、環状三号線で居眠り運転による死亡事故が起きたらしい。その運転していたというのが、東芝銀行横浜支店の支店長らしい」
そこにいる誰もが「え……」という表情になった。
山下公園にて死亡した月舘健介も、東芝銀行横浜支店の行員だったからだ。
はたしてこれは、偶然か――。
「班長、その居眠り運転――、まさか……ってことはないですよね?」
築地がなんとも嫌そうな顔で、聞く。
山下公園の一件は、一課が自殺として処理した。だが特殊捜査班の面々は、その結果に納得していなかった。
築地が言った“まさか”とは、その支店長も殺されたのでは――、という意味なのだろう。
だがそうすると、なぜ二人は殺されなければならなかったという新たな謎が出てくる。
天城は立ち上がった。
「天城、何処へ?」
神崎が声をかけてきた。
「少し、頭を冷やしてきます」
天城はそう言って廊下に出ると、エレベーターホールにある長椅子に腰を下ろした。
しばらく経って、彼の隣に誰かが座った。
捜査一課長の浦戸一であった。
「――いいんですか? こんなところで油を売っていても」
一課は現在、加賀町署に捜査本部を立てている。
「俺がいなくても、優秀な部下がちゃんとやっいくれているよ」
「そのうち、特殊捜査班に飛ばされますよ? 浦戸さん」
「その時は、よろしく頼むよ」
天城の皮肉に、浦戸は冗談っぽく笑った。
「頼まれても困ります」
「――実はな、妙なことになりそうでな……」
そらきた――、と天城は思った。
三係の綱島もそうだが、天城に協力を乞うてくるときは遠回しに仕掛けて来るのだ。
「本郷幸恵とホームレス殺害の件ですか?」
「いや、別の
浦戸いわく――、捜査二課がある銀行に、業務上横領の疑いで捜査に入ろうとしていたらしい。きっかけは、内部告発だったという。
この時点では浦戸のいる一課とは関係ないが。
「まさか、その告発者って……」
「――月舘健介だよ。だが彼は、銀行に不正があるとは言ったが詳しくはまだ言えないと言った。その彼が死んだ」
どうやら彼も、月舘の死は自殺ではないと思っているようだ。
「実際に、不正はあったんですか?」
「支店長の東郷に、そんなものはないときっぱりと言われたそうだ。ところがだ。今度はその東郷が死んだ。居眠り運転だとさ。しかも睡眠薬を摂取して、だ。な? 妙だろう?」
今日の浦戸は、やけに多弁である。
こんなに喋る人だっけかな、と天城は思ったが、確かに妙である。
「浦戸さん――、山下公園の件をほじくり返すと、本当に飛ばされませんか?」
「天城、俺は自分の勘を信じている。アレは自殺じゃない。たとえ一課長をクビにされることになろうとも悔いはない」
そう言った浦戸の顔には深い皺が刻まれ、目には歳月の重みが宿っていた。
だが、その目には揺るぎない光が宿っている。まるでどんな謎も暴き、どんな嘘も見破ると確信しているような、鋭く、鋼のような光だ。
唇の端がかすかに持ち上がり、彼はほんの一瞬、口元に笑みを浮かべた。
それは決して温かい笑みではなく、むしろ、これから行うべきことへの揺るぎない決意を示すものであろう。
本郷孝宏殺害事件を発端に、五人の人間が死んだ。
もしかするとすべての謎を解く鍵はは、ヴァーゴにあるのかも知れない。
本来は、乙女座という意味の英単語である。
だが違う意味でこの名が使われているとしたら、それはなんなのか。
今回の事件は、なかなか手強そうである。
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