第20話 光を求めて

 ジャパングラスアートトリエンナーレ――、国内のガラス工芸作家が競うガラス工芸協会主催のコンクール。この機を逃せば、彼にもう光は差さない。

 トリエンナーレは三年ごとに開催されるが、彼――、倉橋晟也は今回のトリエンナーレに賭けていた。

 彼にはどうしても、作品を見てもらいたい相手がいる。

 

 本郷孝宏――、美術評論家にして美術鑑定士、名だたる美術コンクールにて審査員を務める大物。彼に認められた作家は、ほとんどが世界にも進出している。

 自分も彼らのように輝きたい――、作家を目指しはじめた頃、彼はそう思うようになった。それから一年――、本郷に見せられるような満足がいく作品はできてはいない。

 自分はなにを形にしたいのか――、アイデアは、ガラスのようには膨らまない。そのガラスとて、息遣い一つでひしゃげ、うまくできたとしても取り扱い一つで割れてしまう。

 固くて冷たいガラスだが、本当は繊細なのだ。生まれるまでも生まれてからも、慎重に扱わねば作品としての価値はなくなる。

 ただそんな失敗作には、再生の道があるが。

 

「僕は――、失敗作にはならない……!」

 倉橋は炉の前で拳を握りしめた。

 そして彼は、ついに巡り会った。

 自分が創りたいと思うその形に――。 

 窓の外を見ると、月明かりが薄く差し込んでいた。

 心の中に浮かぶのは、これまでの失敗や挫折である。それが報われるか否かは、完成した作品に集約されるのだと思うと、胸が締めつけられるような感覚に襲われた。


 ――自分は本当にこれをやり遂げられるのか?


 彼は無意識のうちに自問した。その答えは分からない。

 ただ、炉の前に戻るしかなかった。手を動かし、熱せられたガラスを吹き込むたびに、彼の心臓も同じように熱くなった。

 そしてそれは、ついに完成した。

 

 一メートル近くにもおよぶ、クリスタルガラス製の大作――。

 コンテストに向けて作り上げた作品を見つめながら、彼は自分の全てを注ぎ込んだこの瞬間が、評価されるかどうかを考えずにはいられなかった。

 評価者たちの目が、その冷たいガラスの表面をなぞる瞬間を想像すると、全身が緊張で固まった。しかし同時に、彼の中には小さな希望の光があった。

 自分の手から生まれた作品が、その冷たさの中に込めた温かさを誰かが見つけてくれることを。

 

 最後の仕上げに取り掛かると、彼の動きは徐々に落ち着きを取り戻していった。

 緊張と不安が混ざり合いながらも、彼は自分がやるべきことに集中していた。

 もうすぐ、全てが明らかになる。

 あの男に――、本郷孝宏に作品を見てほしい。

 このときの倉橋にとって、ジャパングラスアートトリエンナーレはきっかけに過ぎず、本郷孝宏の評価を得られるかどうかだった。


                 ◆


「――それで、本郷氏の所に持ち込んだというわけですか?」

 神奈川県警本部取調室――、明石と向き合う倉橋晟也は唇を噛み締めた。

「夜遅くにお伺いするのは非常識だとはわかっています。でも……、時間を指定されたのは先生なんです。九時以降から自宅にいるから、少しだけなら見てやるとおっしゃって……」

「本郷氏が……?」

 倉橋いわく――、彼は偶然にもふらっと訪れた美術館で、本郷孝宏本人に出逢ったという。

 彼は会いたかった相手を前に、話しかけずにはいられなかったらしい。

 倉橋は本郷に、ガラス工芸作家を目指していること、ジャパングラスアートトリエンナーレに応募することにしたこと、その前に本郷氏に作品を見てほしいことを必死に訴えたという。

 場所が場所だけに、話しかけられた本郷孝宏はもちろん、周りの客も驚いたことだろう。

 本郷は幾度も倉橋を突っぱね、軽い騒動になりかけたらしい。

 結局根負けした本郷が、見てやると折れたようだ。

 

「しかし、徒歩とは重かったのでは?」

 明石の質問は、最もだろう。

 彼は住宅前の坂を、一メートル近くもあるガラス作品を抱えて上がっていたのだから。

「あそこの坂は平らのようで、車で通ると揺れるんです」

 倉橋はそう言った。

 納得した一同である。

 住宅街の坂道は、住民のための移動用だった。

 しかもアスファルトではなく石畳で、自動車が通るとタイヤと敷石が接する音で、かなりの音がする。

 事件当夜、車が通らなかったと言った住民の証言は、このためだ。

  

「ですがコンクールのために創られた作品でしょう。なぜ、放置されて帰られたのです」

 明石の次の質問に、倉橋の表情が強張った。 

「それは……、先生が突然……、激怒されて……」

「激怒した?」

「先生は僕の作品を見るなり、お前がわたしを脅迫していたのか!?と……、僕はそんなことをしていませんと言ったのですが――」

 不安と畏怖に囚われた倉橋の瞳はどこか焦点が定まらず、恐怖に怯えた獣のように揺れ動いている。額には冷たい汗が滲み、指先は震え、唇は乾ききっていた。

 彼の胸は荒く上下し、まるで息をすることすら困難であるかのようだった。

 どうやら本郷孝宏は、誰かの脅迫を受けていたようだ。

 倉橋によれば、そのあとは興奮した本郷に家から出されてしまったという。


「そのあと、本郷邸に行かれましたか?」

「刑事さん、僕は先生を殺してなんかいません……!」

 倉橋は必死だ。

 倉橋は本郷が落ち着いてから、置き去りにしたままの作品を取りに伺おうとしていたという。だが翌朝になり、本郷が殺害されたというニュースを見た倉橋は、疑わられるという恐怖から今日まで名乗れなかったらしい。

「あなたが犯人だとは言っていませんよ」

 明石は軽く笑む。



「――本郷氏は、どうして彼が急迫していると思ったんだろうな?」

 取調室の様子を、天城とともに窺っていた神崎が呟いた。

「彼の作品は修復不可ですが、こうして作者が現れたんです。彼が作った作品がなんだったのかわかれば、多少は……」

 天城はそう言うと、神埼に背を向けた。

 彼が向かったのは壁の向こう側――、つまり取調室である。

 入ってきた天城に明石は瞠目したが、そこは同じ部署仲間である。

 天城に倉橋の聴取を譲った。


「――特殊捜査官・天城宿禰と申します。倉橋さんは作品を創られる際にデッサンとかされるんですか?」

「いえ……。大体はインスピレーションですが……、あの作品の場合は、画廊で見た絵がヒントです。ギリシャ神話を元に描かれてあるとかで……」

 不意に何かが転がる音がした。

 デスクで聞き取ったことをメモしていた明石が、ボールペンを落としたのだ。

 唖然とした顔で、こちらを見ている。

 天城にも、倉橋がなんの絵を見たのかわかった。

「もしかしてその絵――、黒い背景で女性が上を見上げている絵ですか?」

 今度は倉橋が驚く番となった。

「え……、ええ。そう……、ですけど?」

 間違いなく――、天城が画廊ETERNALで見た『乙女座ヴァルゴの真実』であった。

 

                 ◆◆◆


 大地の女神デーメーテールの娘ペルセフォーネ――、冥府の王ハーデスに魅入られた彼女は、突然の出来事に強い恐怖を感じただろう。

 母や地上の世界から引き離され、暗い冥界へと連れ去られる中で、未知の世界に対する不安と恐怖が彼女を支配したことだろう。

 自分の意思とは無関係に、運命が変えられる無力感、これからどうなるのかという不確かな未来への恐怖が彼女の心を覆っていただろう。

乙女座ヴァルゴの真実” はまさに、そんな彼女を表した作品であった。

 キャンバスの背景は黒く塗られ、上部が僅かに白く抜かれている。

 おそらく“乙女座ヴァルゴの真実”を描いた画家・霧島五郎は、背景の黒は冥界を、上部を母がいる地上世界としたのだろう。

 実際に彼女がなにを想っていたのはわからないが、絵画から受け取るものは人によって違うだろう。


 ガラス工芸作家・倉橋晟也がクリスタルガラスで仕上げた作品は、ガラスを長く引き延ばしたものを幾つか組み合わせ、先端に祈る少女の姿をあしらっているという。

 作品タイトルは“乙女の祈り”――、ここまで聞いた時点で、不快要素はゼロだが、本郷孝宏は“”の絵の前でも険しい顔をしていたという。

 これまで時間も場所もバラバラに起きた事件で、共通していたのは、本郷孝宏となんらかの関係があったとされることだ。

 ビジネスホテルで毒殺された本郷孝宏の妻・本郷幸恵、セントラルパークで亡くなった銀行員も本郷氏と会っている所を知人に目撃されていたらしい、さらに大桟橋近くでホームレスの一人を殺害したと見られる男が、本郷幸恵と会っていた。

 さらに、だ。

 一課三係警部補・綱島左門が最近携わったフリーカメラマン殺害事件では、ハーデスというワードが出てきた。


 ――被害者は“ハーデスの正体がわかった”と言っていたらしい。


 綱島は天城にそう言った。

 ハーデスといえば冥王の名前だが、これは天城の考え過ぎだろうか。

 天城は倉橋に、作品はもうないことを伝えた。

「……ない……?」

「残念ながら、割れていました」

「……そう……ですか……」

 作品が割れていたことは、やはりショックだったようだ。

 ただ彼には、その作品が殺害の凶器に使われたことは言わなかった。

「倉橋さん、あなたは、現在いる闇から出るべきです」

「僕は……」 

 天城の言葉に倉橋は瞠目し、小刻みに震えていた。

 やはり、心当たりがあるのだろう。

 

 天城が初めて本郷邸に行ったとき――、飛散していたガラス片からは犯人以外の念とともに、思い詰めた感の念が混じっていた。

 なにかに迷い悩み、必死な様子の念が、クリスタルガラスのどの破片からも伝わってきた。

 最初は犯人のものかと思ったが、天城が視えた犯人の犯行に迷いはない。

 ならばその念は、誰のものなのか――。

 凶器となったガラスの品物を持ち込んだ人間がいるとわかったとき、天城のその疑問は解けた。

 倉橋はいつの頃かモノを創る喜びを忘れ、自分が有名作家になることだけを追っていたのかも知れない。


「モノには、人の念と記憶が宿るんです。それが粉々になっていたとしても、どうしてそうなったかまで、彼らは俺に教えてくれます」

 倉橋は、もう口を開くことなかった。

 俯いたまま、唇を噛んでいる。

 ここから先は、倉橋の問題である。

 彼がその闇から抜け出したとき、光は求めずとも差すだろう。

 彼が夢を諦めない限り――。


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