第19話 事件当夜の訪問者、現る
古い石畳の小路沿いに、あるガラス工房がある。
周囲を木々に囲まれ、町の喧騒から離れた静寂の中にひっそりと佇んでいる。それゆえ、ここがガラス工房だと気付く人間は多くはない。
青年は炉の前で、汗を拭った。
青年の名前は
きっかけは、美術館でエミール・ガレの作品を見たことに始まる。
光に反射して、煌めくガラス作品――。
他のガラス工房で腕を磨いた後、 格安の物件を見つけて開いたのがこの工房である。
彼は吹き竿を手に、炉にその先を入れる。
炎の中で柔らかくなったガラスが、彼の手の中でゆっくりと形を変えていく。
光がガラスに反射し、七色の輝きを放つ。その瞬間、彼はこの世界から切り離されたように感じる。彼にとって、この時間は何よりも尊いものであり、自らの存在を感じる瞬間でもある。
一月後には、ガラストリエンナーレが迫っている。
ガラストリエンナーレの正式名称は『ジャパングラスアートトリエンナーレ』といい、三年に一回、日本ガラス工芸協会が主催するガラス展である。
これまで小さな公募には申し込んだが、彼の作品が入選することはなかった。
彼は、ガラストリエンナーレに賭けていた。
――君に、才能はない。
倉橋の脳裏に、ある男から言われた言葉が過る。
悔しかった。
自分の作品のどこが悪いのか、その理由を知りたかった。
作業机には、一冊のアート雑誌が開かれたまま置かれている。
そのページには美術評論家・本郷孝宏のインタビュー記事が、写真とともに載っていた。
「本郷先生――、どうしてあのときあんなことを……?」
倉橋は、写真の本郷孝宏に問いかける。
彼が聞きたかったのは、作品の評価だったのに――。
今となっては本郷から評価を得ることも、その答えを聞くことも不可能だが。
「そういえば、あれはどうなったんだろう……?」
倉橋のなかに、不安が広がっていく。
その日から、なにを作っても満足のいく作品にはならなかった。
――あれではなきゃ駄目だ……!
倉橋は決意した。
ガラス工芸作家として世に出るため――、彼にはそれが必要だった。
◆
「あ~あ、どうしてここでも、野郎をみなきゃならんのかねぇ……」
県警本部から徒歩五分――、ラーメン店のカウンターにいた特殊捜査班警部補・明石倫也は、盛大に嘆いた。
そこは彼が刑事になってから通い続けているラーメン店だった。
店に入ると、漂ってくる香ばしいスープの匂いに鼻をくすぐられる。
店内はこぢんまりとしていて、カウンター席と机席が五つ。木製のカウンターは少し年季が入っており、使い込まれた感がある。
壁には色褪せたメニューが貼られ、どれも手書き風の文字で書かれている。
調理場は客から丸見えで、
客は男性ばかりで、明石の嘆きは彼らに聞こえたかも知れない。
店主が眉尻を下げ、軽く注意した。
「トモちゃん、お客さんに聞こえるよ」
さすがに付き合いが長くなると、店主はこの常連客を「トモちゃん」と呼ぶ。
明石に悪気はない。
彼は県警の刑事である。
自慢するほどではないが顔はいい。受付嬢にも人気がある。
だが彼がかつて配属された一課二係には、女性は一人もおらず、特殊捜査係に異動になってもそれは変わらなかった。
せめて外で、と思ったのが間違いだった。
どう見てもこのラーメン店に、若い女性が一人でふらっとやってくる雰囲気ではない。
「しかし、ここの味噌コーンバターラーメンは、飽きないな。たぶん、うちの班長の影響だな。あの人、こってり系が好きだから」
「そういえば、最近来てないねぇ? おたくンところの班長さん」
店主はそう言って、明石の前に味噌コーンバターラーメンを置いた。
ラーメン丼に盛られた味噌コーンバターラーメン――、スープは豚骨や鶏ガラの旨みをベースに、赤味噌の風味がしっかりと効いており、表面に薄く油が浮かんでいる。
たっぷりのコーンが輝くように盛られており、バターが一片溶けかけて、柔らかな波紋を描いている。麺は中太の縮れ麺で、柔らかく煮込まれたチャーシュー一枚と刻みネギが彩りを添えている。
「難しい事件を抱えちまってね」
明石は割り箸を割ると、ラーメンを啜った。
「良かったじゃないか。以前来たときは暇だーって、来るなり突っ伏していたじゃないか」
すると明石がまたも、その場の温度を低下させる言葉を発した。
「どうして最近の奴は、人を殺したくなるんだろうねぇ」
店主に嘆いたところで解決するわけではなく、明石の溜め息を乗せたラーメンの湯気が、天井に昇っていく。
「いらっしゃい」
店主が、暖簾を潜って入って来た新たな客を迎える。
その客は、明石のやって来た。
「よぉ、明石」
店に誰かが来たかと思えば、一課三係の綱島左門だった。
「……野郎が、また増えた」
明石はそう言って、また溜め息をつく。
つくづく、失礼な男である。
「随分だな。店主、塩ラーメン一つ」
綱島は明石の態度は気にならないようだ。苦笑して、店主にラーメンの注文をした。
「あいよ」
「それで――、どうなんだ? そっちの
「これといった進展はありませんよ。綺麗な女性が近くにいれば捜査に燃えられるんですけどねぇ」
「はは……、三係も女っ気はないな」
男女雇用均等法ができて久しいが、刑事課はまだまだ男社会だ。
女刑事とバディーを組み、あわよくば恋に発展――と妙な願望を抱く明石には、それは叶いそうもない。
明石が県警本部に戻ったのは、十二時半頃だった。
県警一階はガラス張りの広々したロビーで、ここが警察だとは感じさせない。
一階には相談に訪れる県民や、免許更新などに訪れる者もいるため、緊張感を和らげようという配慮なのだろう。
出入り口の自動ドアが開くと、真正面にあるのが受付カウンターだ。
そこでは受付嬢が、訪問者の青年の応対をしていた。
受付嬢は、ここを訪れるすべての人々と最初に接する人物だ。彼女はプロフェッショナルでありながらも、親しみやすい雰囲気を持っている。
制服に身を包み、きちんとまとめられた髪が、彼女のきびきびとした動作と相まって、整然とした印象を与える。
訪れる人々がどれほど緊張していても、彼女の落ち着いた声と、微笑みを浮かべた表情が、その場の空気を和らげるのだ。彼女は、ただの事務的な業務にとどまらず、人々の不安を和らげ、安心感を与える存在でもあるのだ。
「やぁ、茜ちゃん」
受付カウンターにいた受付嬢・星野茜が、明石と視線が合うと破顔した。
「明石さんお帰りなさい」
彼女の声に釣られ、彼女の前にいた青年が振り向く。
その青年は、不満そうな顔をしていた。
「どちらへ御用ですか?」
明石の問いに、星野が説明した。
「明石さん、この方、本郷邸の事件についていらっしゃったようです」
「え……」
その青年は緊張した表情で、明石に言った。
「あ、あの……、僕の作品、こちらにありませんか?」
◆◆◆
刑事部捜査一課がある四階――、いくつか担当係に区切られた部屋を進んで右折すると、一瞬にして緊張感に包まれる。
もし民間人がここに来るとしたら、さぞ不安と恐怖が入り乱れるだろう。
天城はデスクでパソコンを操作していたが、それをやめてここに来ていた。
取調室の中を、バックミラー越しに見られる狭い通路に。
取調室では明石の前に、一人の青年が座っていた。
驚くべきことは、青年は事件当夜に本郷邸を訪れていたことだ。
これは大人しく、パソコンに没頭している場合ではない。
「例のガラス製品を持ち込んだ人間が現れたって?」
なんと、神埼までやってきた。
例のガラス製品とは、本郷孝宏殺害の凶器となったモノだ。
大きさは一メートルあるかないか、ガラスはガラスでもクリスタルガラス製。
「いいんですか? 係長。事件経過を上に報告する予定では?」
「またいつものように、お小言をいただくよ」
やることはきちんとやっている――というのが彼の持論で、上もそんなに強く言ってこないらしい。
青年は背中を丸め、肩をすくめている。
その目には不安と焦りが混じり、周囲のものに焦点を合わせることなく、ただ虚ろに彷徨っている。
彼は時折、何かに追われるかのように急に周りを見渡し、落ち着かない様子である。
顔色は青白く、何かを必死に考えているようだが、その考えがまとまることはないように見える。何度も口を開きかけては、言葉を飲み込む。
その様子は何か重要な決断を迫られているか、あるいはどうしても避けられない事態に直面しているようにも見える。
「まず、お名前とご職業をお聞かせください」
明石の問いに、青年は震えながら答えた。
「……倉橋晟也……といいます。職業は、ガラス工芸作家です」
「ガラス工芸作家ですか」
「あ、でも……、まだ無名の……」
青年はそう否定して、下を向く。
「さきほど――、作品と伺いましたが……、大きさはどのくらいの?」
「一メートルぐらいで、材質はクリスタルガラスです……」
間違いない――。
そう確信したのは、天城だけではないだろう。
倉橋晟也こそ、本郷孝宏の殺害凶器となったガラス製品を持ち込んだ人物であると――。
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