第18話 隠されていた道

 八月も、あと数日となった。

 だが暑さは相変わらずで、特殊捜査班巡査部長・築地圭介の言葉を借りるなら、まさに干からびるか溶けそうな酷暑である。

 その築地は聞き込みから帰ってきたかと思えば扇風機の前に行き、口を開けて「あー」と言っている。

 それのどこに意味があるのか謎だが、それを聞いたところで、聞いたことを後悔するとわかっている特殊捜査班の面々は黙殺することらしい。

 

「犯人は身長一七十センチ以上で、眼鏡をかけている人物……か」

 特殊捜査班班長・神埼健は、自席からホワイトボードを見つめ、呟いた。

 それに合致する人間は、画廊ETERNALのオーナー・正院玲二と、この数日で新たに見つかった三人の、計四人。

 警部補・矢田喜一が、調べてきたことを報告する。

 

「一人は美術鑑定士の近藤陽介――、本郷氏と鑑定を巡り、相当揉めていたと証言がありました」

「残る二人は?」

冴島智浩さえじまともひろ――、職業はクラブ『月影』のマスターです。店の中で本郷市と言い争っていたという客の証言と、店の従業員が冴島の“ぶっ殺してやる”という言葉を聞いたそうです。最後は画家の矢崎浩一――、彼の個展にやって来た本郷氏が、客がいる前で彼の絵を酷評したそうです。以来彼の絵は、まったく売れなくなったとか」

「正院以外――、皆、本郷氏を殺害する動機はあるということか……」

 神埼はそういって、眉間のしわを増やす。


「どうぞ」

 築地が珈琲の入った紙コップを天城のデスクに置いた。

「ああ、すまない」

 天城はそういって、紙コップを手にした。

 今日の珈琲はブラジル産とコロンビア産の豆にモカなど追加したブレンドコーヒーで、少なくなった珈琲を補充したのは矢田らしい。

「あの中に、犯人がいるんでしょうかねぇ?」

 築地がホワイトボードをチラ見しながら言った。

「さぁな。ただ、彼らに本郷氏を油断させることが可能だったかどうかだ。検死結果では、本郷孝宏はほぼ無抵抗のまま殺害されたとのことだ。しかも凶器は一メートル近くもあるガラス製品だ。それを背後で振り上げ、一撃で撲殺している。なんの、迷いもなくな」

「天城さん、プロファイリングに向いていますよ」


 プロファイリングとは、犯行現場の状況、犯行の手段、被害者等に関する情報や資料を、統計データや心理学的手法等を用いて分析・評価することにより、犯行の連続性の推定や犯行の予測、犯人の年齢層、生活様式、職業、前歴、居住地等の推定を行うものである。

「俺はただ、モノに宿った念と記憶から推測しているだけだ」

 築地の天城への評価に、彼はそう答えて珈琲を口にした。

「俺にはさっぱりです。脳みそがパンク寸前ですよ……」

 築地は眉尻を下げて、途方に暮れていた。

 増え続ける謎に頭を悩ませているのは、築地だけではないだろう。

「ならば――、甘いものでも食うか?」

 築地が瞠目した。

「珍しいことを言いますね? 天城さんの口から、甘いものなんて」

「捜査に付き合うなら、奢ってやるが?」

「行きます!!」 

 天城のこの誘いに、築地は飛びついた。

 天城にすれば、車の運転をしてくれる相手が欲しかっただけなのだが。


              ◆◆◆


 横浜市山手町・高級住宅街――。

 そこは、静寂と洗練が支配する場所だった。

 街路樹が両脇に並ぶ広々とした通りは、まるで時が止まったかのように穏やかで、車の音もほとんど聞こえない。

 家々は壮麗で、白い大理石や赤レンガのファサードが立ち並び、それぞれが独自のデザインを誇示している。庭園は手入れが行き届き、緑豊かな芝生や色とりどりの花々が彩りを添えている。

 フェンスの向こうには、プールやテニスコートが見え隠れし、そこに住む人々の贅沢な生活が垣間見える。

 ここはすべてが完璧に計算され、調和が保たれているようにみえる。

 住人の彼らの生活は一見すると絵に描いたような完璧さを持っているが、その静けさの中に、何かが潜んでいるような、そんな不思議な空気が漂っている。

 たとえば、殺害された本郷孝宏のように――。

 

「何処に向かうのかと思いきや、ここですかぁ?」

 天城の「奢ってやる」発言に釣られ、天城に同行した築地は、セダンから降りると喫驚きっきょうした。

 二人が着いた先は、本郷孝宏邸だったのである。

「文句言うな。人の奢りだと思って高いものを注文しておいて――」

 二人は本郷邸に来る前に、英国式異人館を改装したカフェに立ち寄り、築地は一六八〇円もするケーキセットを注文した。

 ワンプレートにモンブランと、栗と焼きいものミルフィーユのハーフサイズが乗り、さらにソフトクリームがプラスされていた。

 連れて来る店を間違えたかなと思った天城だが、いまさら割り勘にしようとケチなことも言えず、そのとき飲んだ珈琲のなんと苦かったことか。

 

「もう何もないと思いますよ?」

 本郷邸に向かって歩く天城の横で、築地が首を傾げた。

「俺としては、あって欲しいんだがな」

 天城は本郷に入らず、裏手に回った。

「なにを探しているんです?」

「この先は、行き止まりだったんだよな?」

 本郷邸から先――、そこにはなにもないという。

「ええ。住民の話では」


 住宅街がある坂道は、昔からある道ではなかったらしい。

 市の観光化に伴い土地開発が進み、異国情緒が漂う山手に住むことが富裕層の間では憧れになっていたらしい。そこで建築が始まったのが本郷邸を含む高級住宅街のようだ。

 ただ高台のため、道は当然坂となる。

 異人館巡りの観光客は、住宅街前の坂は通らないという。

 つまり殺害事件捜査のため、特殊捜査係の面々が上がった長い坂は、住民のための生活道路であった。

 天城たちが念の為に本郷邸の先に行ってみれば、そこは家一軒ほどの空き地で、草が生え放題であった。

 おそらくここに、もう一軒建てられるはずだったのだろう。

 

 空き地のさらに向こう側は、雑草が茂る斜面だった。下に車が一台通れる道はあるが、その斜面を降りるにはかなりの危険を伴うだろう。

 夏の陽光が斜面を斜めに照らし、その光を受けた草の葉は、無数の緑の波となって風に揺れていた。

 長く伸びた草は、まるで手を差し伸べるかのように空へ向かい、斜面の傾斜に沿って流れるように連なっている。そんな中、草の間に点在する小さな花々は、急な角度の中でしっかりと根を張り、ささやかな彩りを加えていた。

 

「天城さん、ひょっして犯人がこの斜面を上り下りした――、なぁんて思ってます? 無理ですよ! 犯行が行われたのは午後十時以降なんですよ? 外灯は見当たりませんし、滑って落ちでもしたら、骨折は間違いなしです」

 築地の盛大な抗議に、天城は『立ち入り禁止』と書かれた看板の前で嘆息した。

「確かに危険のようだな」

 

 その看板はかなり古いものだった。

 問題は他にも危険な場所はあるのに、その一箇所だけに看板があることだ。

 天城は看板に触れた。

 瞬間――、誰かの記憶が流れ込んできた。

 それはここを、誰かが通っていく姿だ。

 天城は看板がある斜面を注視した。

 風が吹き、斜面の草を撫でる。しかし風に吹かれた草の合間から、石の冷たさがかすかに顔を覗かせた。

 明らかに人口のものと思われるその正体は、下へ続く階段だった。

 いったい誰が使っていたのか、すっかり草むらに埋もれてしまったその階段だが、下に降りられないわけでない。

 

「驚きましたね。まさか階段があったなんて……。天城さん?」

 築地が頭をかく横で、天城はあるモノを拾っていた。

 下へ降りる途中に、それはあった。

 もし天城たちがこの階段を発見し、それに気付かなければこの先も忘れ去られたモノ。

「やはり、誰かがここを通っている」

「それって万年筆――、ですよね? 確か四万はしますよ……」

 天城が手にしたものを見た築地が、記憶を手繰りつつ話す。

 それは軸とキャップが漆黒で、キャップ縁周りには、桜の柄が金色にデザインされた万年筆だった。

「詳しいな? 築地」

「俺の親父が万年筆が好きでして……。さすがに、そんな高いやつは持っていませんでしたけどね」

 築地は、そう言って苦笑した。

 果たして万年筆は誰のものなのか――、犯人のものなのか、それとも他の人物か。

 立ち入り禁止の看板同様、天城になにかを伝えてくれればいいが。

 

「へぇ……、この道、異人館へも行けるんですね?」

 築地がそういって、ある方向案内版を見上げる。

「この標識も、かなり古いな」

 その案内板には、アンダーソン十番館への方角が矢印とともに書かれている。

「ところで天城さん、下に下りたのはいいんですが、車、本郷邸の前に置きっぱなしですよ? この階段を上がるんですか?」

 築地は階段を下りる際に蟷螂かまきりが飛び出してきたらしく、通りたくないらしい。意外にもこの男――、虫嫌いだった。

「いや、ここまで持ってくればいい。アンダーソン十番館の横に、この道幅と同じ道がある。その先は、何処に繋がっているか知っているか?」


 天城がそれを知ったのは、科学捜査研究所所長・有森司によって、ジェパーソン伯爵邸前のカフェまで突き合わされた日だ。

 そのカフェで二人に話しかけてきた老婦人いわく、アンダーソン十番館の手前にある小さな階段を下りていくと、裏道に出られると。

 天城は後日、それを確かめた。

 ただ裏道はアンダーソン十番館には近いが、他の異人館へは遠いらしい。

 ゆえに異人館巡りをする観光客は、他の坂道を使うらしい。

「いいえ」

 築地は眉を寄せた。

「本郷邸の隣家だ」

 隣家といってもその邸は、本郷邸から五十メートル離れていた。

「天城さん、その邸の主は明石さんに、車の音など聞いていないと言っているんですよ?」そう、隣家の主はこう言ったという。


 ――その日は熱帯夜でしてね。うちはクーラーがないので、窓をサッシにして扇風機を回しているんです。それに、居間は坂の道路に面していましてね。車が通ればわかります。


 だが、天城に語りかけるモノたちは、犯人らしき人物の来た道と帰りの道を教えてくれた。

 かの老婦人はさらにこう言ったのだ。

 アンダーソン十番館の横にも道があり、高級住宅街の坂と裏道を繋いでいる――、と。

 おそらく二十分もあれば、本郷邸から天城のいるところまで車を移動させられるだろう。

「犯人はどうやって、その住人に気づかれずに――」

「俺は、犯人が通ったとは言っていない。犯人は車をここに止め、階段を上がった。ここからなら、本郷邸は近いからな」

 天城はふっと笑った。

「ちょっと待ってください。車を取りに行く俺には遠回りですが?」

「なんなら、この階段を上るか?」

 それならそれで、天城も待たされずにすむが、築地は一度苦手が虫を見てしまったため、また出るのではないかと思っているらしい。

「――こうなるんだったら、来るんではなかった……」

 築地は天を仰いで後悔していた。

 

 


 

  

 

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