第17話 思わぬ落とし穴

 その男は薄暗い部屋の隅で、じっとしていた。

 息を潜めていると、心の中に冷たい闇が広がるのを感じる。

 心臓の鼓動は一定で、無駄な高揚感や不安はなかった。すべては計算された動きの中に組み込まれ、何一つ無駄な動作はない。

 彼が座るソファー、その前に置かれたテーブルには飲みかけのバーボンと、カメラフィルムが転がっている。

 彼はかけていた眼鏡を外し、静かにテーブルに置いた。

 直後に、彼のスマートフォンが着信を報せる。

「はい、北条です」

『例の件だが――』

「――ご安心を、無事にすみました」

 電話相手は一言「ご苦労だった」といい、通話を切った。

 窓の外には月が昇り、柔らかな光が部屋に差し込んでいる。

 彼の視線はそれから、壁にかけられた絵画に注がれた。

 暗い背景で、悲しげに宙を見つめる女性像――。

 絵のタイトルは『乙女座ヴァーゴの真実』

 この絵を見たものは、どんな思いを抱くのか。

 哀れみか、それとも絶望か。

 だが彼に湧いた思いは、野望達成の欲だった。

 いつしか目的のためならば、手を汚すこともいとわなくなった。

 それでいい――、自身をそう納得させて。

 

                ◆


「ねぇ、山手町のカフェ“MARY”に付き合ってくれない?」

 それは、あまりにも突然であった。

 

 この日――、天城宿禰は休日をゆっくりと堪能たんのうするつもりだった。

 事件は土日だろうが祭日だろうが関係なく発生するが、警察にも休みはある。

 全員が三百六十五日、働いているわけではない。

 部屋には、まだ読んでいない本が数冊積み重なっている。

 いつもより遅く起きた天城は、珈琲カップを手にその一冊を手に取った。

 そんなときに、彼のスマートフォンが着信を報せ、出てみればいきなり、山手町のカフェに付き合え――、である。

 

「――は……?」

 天城にしては情けない声が出た。

 電話をかけてきたのは、科学捜査研究所所長・有森司だった。

「どうせ、いつものように引き籠もってるんでしょ?」

 だからなぜ!? と聞き返したいところだが、ここで断るとあとあと嫌味で返ってくるから困りものである。

 なんでもそこのコーヒーケーキというものが、とても美味いとネットの口コミにあったらしい。流行りに乗りたがるのは特殊捜査係の築地もそうだが、目的のためなら炎天下を歩くことは厭わないらしい。

 なにしろその店は、異人館が点在する坂の途上にあるらしい。

 通話を終えて、天城は深く溜め息をついた。

 

 

「口コミってたまにハズレのときもあったりするけれど、これは当たりね」

 スクエア型にカットされた茶色の焼き菓子を口に入れ、有森は満足げである。

 コーヒーケーキとはなにかと思えば、スポンジケーキとバターケーキの中間のような生地にブルーベリーを混ぜ、クラムと呼ばれる粉とバター、砂糖をポロポロのそぼろ状にしたものをのせて焼き上げるケーキらしい。

 アメリカ伝統菓子で、メアリー・ジェパーソン伯爵夫人が愛し、お茶の時間には手作りして客をもてなしていたという。

 

「それはよかったですね……」

 スィーツ系とは縁遠い天城にとってはどうでもいい情報で、彼はアイスコーヒーをマドラーで撹拌していた。

 彼はケーキは注文せず、ミックスサンドを頼んでいた。

 カフェ『MARY』は、異人館の一つ・ジェパーソン邸の斜め正面に建っていた。

 カフェはジェパーソン伯爵の妻メアリーから拝借してつけられ、出される菓子はメアリー・ジェパーソン伯爵夫人が愛したアメリカ伝統菓子だという。

「なによ、その気のない返事」

 有森の目が据わったが、捜査以外で三十分以上歩いたことがない天城にとっては不満しか沸かない。

「俺はどうしてこの炎天下の中を歩かされなければならないのか、考えているんです」

 

 天城は車の運転はしない。

 出勤するにしても、徒歩圏内にあるため必要に迫られないのだ。

 二人は待ち合わせた駅前から、市内周遊バスに乗った。

 主要観光地を結ぶ小型バスで、タクシーや通常のバスよりも運賃は安い。

 ただこのバス、異人館が点在する坂道は走っておらず、坂下で降りねばならない。

 異人館巡りを楽しむ観光客にはいいかも知れないが、ただ付き合わせただけの天城には、どこが楽しいのかさっぱりである。


 異人館への坂道は、まるで異世界への入り口のように静かに伸びていた。

 足元に敷かれた石畳は、時の経過を物語るかのように不規則で、長年の風雨にさらされたせいか、ところどころ苔むしている。

 坂を登るたびに振り返ると、港町が徐々に遠ざかり、背後には重厚な石造りの異人館・ジェパーソン邸が姿を現れた。

 赤レンガの壁に白い窓枠、屋根には鋭い尖塔せんとうが立ち、どこか異国の香りを漂わせていた。


「聞き込み捜査では歩いているんでしょ」

「それは仕事ですので」

「あんた……、もやしになるわよ?」

 有森の言葉に、天城は嘆息した。

 天城は何度か、有森の頭の中を覗いてみたいと思ったことがある。

 彼女はたまに、天城の思考を停止させることをいうからだ。

 

「所長……、他に言葉がないんですか?」

「あんた顔はいいけど、日に当たらな過ぎ。そのうちヒョロヒョロになるって言いたいわけ。食べるものも糖質控えめだし、まじで“モヤシ”になるわね」

「俺が外に出ないのは、出かける用がないからです。それに――、モヤシにも栄養はありますよ」

「相変わらず口は減らないわね。あんた、刑事にならなくて正解。上と揉めるタイプだわ。ま、あたしが所長だから科研ではもったけれど」

 

 舌戦が強くなったのはあなたのせいだ――と思ったが、天城はそれをアイスコーヒーで飲み込んだ。

「俺も刑事にならなくて良かったと思いますよ。しかし――、他にいなかったんですか? こういう所に一緒に来る相手おとこは」

「いたらあんたを誘っていないわよ。そういえば、この近くよね? 本郷邸」

「まさかこれから行こうって言うんじゃないでしょうね? 冗談じゃありません。本郷邸に向かうには、ここまで上がってきた坂道の倍の長さはあるんです。車ならともかく、徒歩など自殺行為です」

 これ以上無駄な力はつかないたくない天城の抗議に、さすがの有森も苦笑した。

「大袈裟ねぇ……」

 すると、天城たちのいるテーブルを通り過ぎようとしていた年配の婦人が、にこやかに声をかけてきた。

「あなた方も、異人館巡り?」

 

 婦人は、まるで時間を超越したような優雅さをまとっていた。

 髪は銀色に輝き、整えられたカールが彼女の顔立ちをより一層引き立てている。

 上品なクリーム色のシルクのスカーフが、彼女の首元に軽やかに巻かれており、同色の手袋が指先まで美しく覆っている。

 深みのある紺色のツーピースは、すっきりとしたシルエットで、彼女の姿勢の良さを強調していた。

 彼女は、控えめながらも高級感のあるアクセサリーを身につけている。

 細いゴールドのブレスレットが手首に揺れ、シンプルな真珠のイヤリングが耳元で光を反射していた。

 その顔には柔らかな笑みが浮かび、目には長年の経験を物語るような深い知恵と優しさが宿っている。

 

 彼女の問いかけに「いえ、違います」と言いかけた天城だが、有森のほうが早かった。

「そうなんです♪」

(おい……)

 天城は半眼で、無言のツッコミを入れた。

「彼ったら、もう歩きたくないっていうんですぅ」

 有森の口調は、信じられないくらいにトーンが高めである。いったい何処からそんな声が出るのか。いや、何故かカップルという設定にもされている。

 唖然とする天城の前で、有森は婦人に対してにこにこと笑っている。

「それなら帰りは、裏道をお使いなさいな」

 婦人の言葉に、天城はようやく声が出た。

「裏道……?」

「ええ。この裏に一本あるんですの」

「地図には乗っていませんが?」

「古い道だから。タクシーの方でも知っている方は少ないのよ。異人館巡りする方は、坂下でバスで降りて、ここまで歩いて上がって来る方がほとんどですものねぇ」

 婦人いわく、その裏道へは異人館の一つ、アンダーソン十番館の手前にある小さな階段を下りていくと出られるという。

「ありがとうございます。助かりました」

 天城は婦人に礼を言い、カフェのレジカウンター横にある、異人館マップを引き抜いてきた。

「完全に、仕事モードのスイッチが入ったわね? 天城」

 ケーキを食べ終えた有森が、にっと笑う。

 いつもの見慣れた、彼女の表情である。

「有森所長――、感謝します」

「あたしは、なにもしていないわ」

 もし彼女の誘いを断っていれば、この奇跡は起きなかったかも知れない。

 ただ、無駄に歩かされるのは二度とごめんだが――。

 

 アンダーソン十番館は、カフェ『MARY』からそんな遠くはなく、驚いたことに山手町・高級住宅街も近かった。

 ただ、住宅街のある坂道は本郷邸を最後にそこから民家はなく、行き止まりとなっているという。もしこれが行き止まりではなかったとしたら――。

 これはとんだ、落とし穴である。

 検証してみないとわからないが、これで本郷氏を殺害した犯人がどうやってやって来て、去っていったのか、掴めそうな気がする天城であった。

 

  

 

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