第16話 たった一欠片の物的証拠

 この日も、猛暑との予報である。

 太陽はすでに高く昇り、街は暑さに包まれていた。

 アスファルトの道路は朝露を吸い込んだかのように少し湿っていて、その表面から立ち上る熱気が揺らめいて見える。

 空は真っ青で雲一つなく、太陽の光が容赦なく地上に降り注いでいた。

 午前六時――、県警本部通信指令室に110番の入電があった。

 市内中区・諏訪町の公園で、男の遺体を発見したという。

 

「――殺しだって?」

 現場に臨場した神奈川県警捜査一課三係警部補・綱島左門は、綿手袋を手にはめながら捜査員に歩み寄った。

「被害者はフリーカメラマンの新堂元晴しんどうもとはる、三十歳。今朝、犬の散歩をしていた人がベンチで寝ていた被害者を発見しました。死因は、青酸カリによる窒息死だそうです」

 近くに被害者が飲んだと思われる、ビールの空き缶が落ちていたらしく、中身からも青酸カリが検出されたという。

 その報告に、綱島は渋面になる。

 これまで一課が担当した事件の被害者が、どれも副毒死だからだ。

 ビジネスホテルにて遺体で発見された本郷幸恵、山下公園で亡くなった銀行員、大桟橋近くにて遺体で発見されたホームレス、これらの犯人は自殺として処理された銀行員の件を除いて、犯人を検挙できてはいない。

 

「死亡推定時刻は?」

「検死の結果、昨夜の九時から十一時の間とのこと」

 綱島の前を、白い布を被された被害者が、担架に乗せられて搬送されていく。

古澤ふるさわ、なにか見つかったか?」

 綱島の呼びかけに、近くで鑑識作業を行っていた鑑識課リーダー・古澤渉が振り向いた。

「落ちていたビールの空き缶からは、被害者の指紋しか出なかったよ。妙なのは、被害者の所持品から携帯電話が出てこなかったことだ。代わりにこいつが出てきた」

 そういって古澤は、ビニール袋に入れられたフィルムケースを見せて来る。

「――別におかしはないだろう? 被害者はカメラマンなんだ」

「中身がどこにもないのさ」

「犯人がカメラごと、奪ったんじゃないか?」

「カメラを奪い去るのはわかるが、こん中から中身を抜いて行くかい?」

 そうフィルムもほしいのならば、ケースに入れたまま奪わないか?

 綱島は自身にも問うてみたが、答えは出ない。

「――とにかく、引き続き検証を頼む」

「あいよ」

 古澤はそう返事して、持ち場に戻っていく。

「警部、ここは夜になると人気がなくなるそうです」

 遺体が発見された公園は小規模で、簡素な遊具とベンチ、そして水飲み場があるだけである。住宅街から離れた位置にあり、昨夜の目撃者を見つけるのは難しいかも知れない。

「犯人は、そこを計算してここを犯行場所にしたのか……。塚原、大森、被害者の最近の様子を聞き込みめ。それと引き続き、目撃者の捜索に当たってくれ」

「了解」

 二人の捜査員は、軽く一礼して去っていく。

 

 ――まったく、次から次へと……。

  

 蝉時雨の中、綱島は空を見上げて嘆息した。


                   ◆


「ああ……、ついに俺の昼飯が、焼きそばパンになった……」

 神奈川県警刑事部捜査一課・特殊捜査班――、巡査部長・築地圭介がデスクに突っ伏した。

 これに正面に座る警部補・明石倫也が嘆息した。

「築地……、頼むから朝から、情けない声を出さないでくれるか? いいじゃないか、焼きそばパンでも。お前の好物だろうが」

「そうなんですけどねぇ……。給料日まで毎日続くかと思うと――」

 どうやら安価な料金で食べられる七階の食堂でも、築地の口座残高は厳しいらしい。

「お前また、ネットゲームに課金したのか?」

 呆れる明石に、

「あと一歩で、魔王がいる城に侵入できそうなんですよ」

 そういって築地は、またデスクにだらしなく伸びた。

 

 そんなやり取りの中、ホワイトボードに書き込まれた事件の経緯を見ていた神崎が、天城に視線を寄越してきた。

「そういえば天城。明石から聞いたんだが、眼鏡が気になるそうだな?」

 これに明石、築地、矢田まで視線を向けてきた。

「――ええ。本郷氏を殺害した犯人は、眼鏡をかけていたんです」

、ではなく、……?」

「実はガラス片の中に、もう一種類の破片が紛れていたんです」


 事件が起きた翌――、科学捜査研究所でガラス片の鑑定が行われた。

 なにせ大量のガラス片である。

 科研所長・有森は「時間と労力を奪われた」と前置きしたうえで、鑑定結果を天城に伝えたのだ。

 

「まさかそれって……」

 神埼は三種類目のガラス片がなにか、察しがついたようだ

「ええ、眼鏡のレンズです。犯人は割れたそれを拾おうとしたんです。だから、ガラス片に自分の血がついた。手袋を外したのは、拾いにくいと思ったのでしょう。ですが、それが犯人のミスになった。ガラス片に血がついたことを、犯人には見えなかった。眼鏡が割れてしまいましたからね」


 何故犯人は、犯行後そこから動かなかったのか。

 犯人は、かけていた眼鏡を落としたのだ。

 レンズが割れ、その破片を拾わねばと思ったのだろう。だが手袋をしたままでは拾いにくい。だがどれが眼鏡レンズなのか、判別できなかった。

 割れたのはたった一欠片、それを大量のガラス片から探すことを犯人は放置した。

 大量のガラス片からたった一欠片を、警察は見つけだせないと思ったのか、犯人の焦りの念は途中で消え、他の何かを探し始めた。

「だが天城。犯人はそのあとどうやって去ったんだ。眼鏡がないと不便だろうに」

「もちろん、予備は用意していたと思いますよ」

「――となると、容疑者ホシは絞られてくるな」

 神埼は腕を組み、眉間に皺を刻んだ。

「画廊ETERNALのオーナー、正院玲二は眼鏡をかけています」

「だが、彼には本郷氏を殺害する動機がない。それに彼は桜木町の店に十一時までいたことが確認されている。しかも、桜新町から山手町の本郷邸まで車でも五十分もかかるんだぞ? 犯行は不可能だ」

 

 神埼の言う通りである。

 正院玲二は画廊を出た後、近くのイタリア料理店で食事をしたという。そこは深夜までやっている店らしく、十一時まで彼がいたことを店主が証明した。

 神埼の眉間の皺が深くなった。

 本郷氏とトラブルがあり、恨んでいるであろう人間は何人かいたが、その中に眼鏡をかけている人間はいない。

 ホワイトボードを見つめていた天城は、ある疑問を神埼にぶつけた。

「班長、犯人は本当に恨みだけで、本郷氏を殺害したのでしょうか?」

「珍しいな。お前がモノ以外に関心をもつなど」

「確かにあの殺害現場で俺が読み取った念は、強い憎しみに満ちていました。ですが……」

 

 まだなにかある。

 犯人はまだなにかを隠している。

 たった一欠片の破片は、そう天城に訴えているのだ。

 こんな経験は初めてであった。

 モノは正直に人の念と記憶を語るが、その破片はその“なにか”を語ろうとはしない。

 そんなとき、彼のスマートフォンが着信を報せる。

「もしもし?」

『天城、手が空いたら顔を貸せ』

 電話をかけてきたのは、捜査一課三係の綱島だった。


                ◆◆◆


 神奈川県警七階喫茶室――、エレベーターを降りて長い廊下を進むと、ガラスの扉の向こうに喫茶室が見えてくる。扉を開けると、まず目に飛び込んでくるのは大きな窓から差し込む柔らかな陽光と、都会の喧騒を忘れさせるような静けさ。窓際には革張りのソファが並べられ、遠くにはビル群の間に広がる空が広がっている。

 天城はコーヒーマシンで紙コップに珈琲を注ぐと、周りを見渡した。

 すると奥の方に綱島がいた。

「よぉ」

 綱島が破顔する。

「よぉ、じゃないですよ。人を便利に使わないでください」

「いいじゃねぇかか。同じ一課だ」

「それが通じない人間がいることをお忘れですか? 綱島警部補」

「新庄管理官、か……」

 綱島は苦笑する。

 

 珈琲が注がれた紙コップの縁から蒸気が静かに空気を漂い、まるで透明なベールが揺れるかのように消えていく。

 紙コップの外側は深みのある濃い藍色で、内側の白が珈琲の黒い液体を際立たせている。

「実はなぁ、また青酸カリで人が殺された」

、ですか?」

「ああ、だ。被害者はフリーカメラマンでな、殺害される数日前に、ハーデスの正体がわかったと言っていたらしい」

「ハーデス……!?」

 天城は瞠目した。

「いったい、なんのことやら……」

 綱島は嘆息した。

 天城は拳を手に当て、思案する。

「その被害者、おそらく口を封じられたんでしょう」

「俺もそう思う。被害者は恐喝の前科があった。しかも何度もだ」

「俺は犯人が持ち去ったかも知れない、フィルムケースの中身が気になりますね。もしかすると、そのハーデスが写っているかも知れません」

「お前に相談して助かったぜ。天城」

 綱島がにっと笑う。


 ――首を突っ込まないといいながら、こうして引き受けてしまうんだよなぁ。


 天城は自身を笑いつつ、飲み終わった珈琲の紙コップをゴミ箱に捨てた。

  

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