第13話 繋がったふたつの事件
この日――、天城宿禰は非番だった。
つまり休みなわけだが、刑事は事件が起これば非番だろうと署に向かわねばならない。
天城は“刑事”ではないが、捜査一課特殊捜査班の一員である。
彼の口癖の一つ――、“自分は警察官ではない”という言葉はこのときは通用しない。
天城は基本、休みの日は自宅からは出ない。
一日読書をしているか、パソコンに向かっているかである。
あるとき特殊捜査班で、またも築地を発生源に、ゆるい会話が始まった。
帰宅した後の食事を外に食べに行くか、デリバリーにするかに始まり、どこどこの店のなには美味いとか、それなりに盛り上がった。
規則などに真面目な矢田がいる場合、会話が盛り上がり始めると一言で黙らせてしまうのだが、このときは非番だった。
すると、築地が天城に言った。
「天城さんは、おしゃれな店とか知っていそうですね」
どうやら天城は、イタリアンレストランなどでワインを傾けているというイメージがあるらしい。だが天城はこう答えた。
「俺は基本、自炊だ」
これがかなり意外だったらしく、神埼と明石まで驚いていた。
そんなインドアな天城が横浜市関内・馬車道にある画廊【ETERNAL】を訪れたのは、午後一時過ぎのことだった。
きっかけは本郷孝宏殺害事件の聞き込みで、殺害される前日にこの画廊を訪れていたことだ。本郷孝宏は美術評論家である。彼が画廊を訪れてもなんの違和感もないのだが。
画廊の扉を開けると、微かに漂う油絵の香りが鼻をくすぐった。
床は古びた木の板張りで、靴底が触れるたびにかすかな音を立てた。
壁一面には、様々な時代と場所を映し出した絵画が並んでいた。
ある絵には、夕暮れの海に佇む孤独な灯台が描かれており、その灯火はまるで過ぎ去った時間を照らし出すかのようだった。また、別の絵には、緑豊かな森の奥にひっそりと佇む古城があり、その窓から漏れる光が訪れた者に秘密をささやいているようだった。
本郷孝宏が殺害される前日に、この画廊を訪れていたと聞き込んできた矢田喜一いわく、本郷孝宏はある絵の前で険しい顔をしていたという。
それを証言したのは、そのとき画廊にいた客である。
本郷孝宏は美術雑誌にも顔を出していたため、その客ははっきりと本郷孝宏だと記憶していた。彼が見ていたのは、
ただその画家は、有名ではなかったらしい。
「――いらっしゃいませ。なにかお探しですか?」
天城の背後に、誰かが立った。
「え……」
そこに立っていたのは、眼鏡をかけた男だった。男は軽く笑み、
「失礼しました。当画廊を経営しております
と、一礼した。
「――霧島五郎の絵はありますか?」
天城の求めに、正院は瞠目した。
「――これは驚きました。彼をご存知とは。彼の絵は数日前まで展示したのですが、現在は保管庫にございます。ご覧になりますか?」
「いいのですか?」
「ええ。実はわたしは彼の絵が好きでして。彼をご存知の方に巡り会う機会はこれまでございませんでしたので、お会いできて光栄でございます」
正院はそう言って、天城を別室に導く。
彼が保管庫から出してきた絵は四つ。三つは風景画だったが、残る一つは色調が暗い人物画である。
背景はほとんど漆黒で、上部が僅かに白く塗られている。
人物は薄い衣をまとった女性で、悲しげに上を見上げている。
その絵から天城は、悲壮感、絶望、憤りなど様々な念を強く読み取った。
「この絵――、先週の火曜日は展示は?」
「はい。その絵は、わたしが最もお勧めする絵でございます。描かれているのは“ペルセフォーネ”です」
「ペルセフォーネ?」
天城は、眉を顰めた。
「ギリシャ神話に登場する冥王ハーデスの、妻の名です」
正院は、そういった。
◆
ギリシャ神話によると――、ペルセフォーネは、大地の女神・デーメーテールの娘であった。
ある日、ペルセフォーネは野原で妖精達と供に花を摘んでいた。
するとそこに一際美しい水仙の花が咲いていた。ペルセフォーネがその花を摘もうと妖精達から離れた瞬間、急に大地が裂け、黒い馬に乗った冥王ハーデスが現れ、彼女は冥府に連れ去られてしまった。
これを知った母デーメーテールは、
これに困った全能神は冥王を説得し、ペルセフォーネはデーメーテールの元に帰ってきた。
しかし彼女は地上に戻る際に、冥王からザクロの実を勧められ、数粒食べてしまった。
神々の間には、冥界の食べ物を食べた者は冥界に属する――、という取り決めがあったのである。
このためペルセフォーネは、冥界に属さなければならず、食べてしまったザクロの数だけ冥府で暮らすこととなり、彼女は冥府の王妃として冥王の元に嫁いで行ったのである。
そして母デーメーテールは、娘が冥界に居る時期だけは、地上に実りをもたらすのを止めるようになった。
「神とはいえ、残酷です」
ギリシャ神話の一説を語り終えた正院に、さきほどまでの笑みはない。
本郷孝宏がこの『ペルセフォーネ』を見て険しい顔をしていたのなら、なにが彼をそうさせたのか。
「この絵に、タイトルは?」
「ヴァルゴの真実です」
返ってきた言葉に、天城は思わず息を呑んだ。
そう――、セントラルパークで毒を服用した男が、最期に言い遺したヴァルゴという言葉である。
◆◆◆
山手町・高級住宅街で起きた本郷孝宏殺害事件は、意外な展開を見せた。
この数日後に山下公園で死亡した男が最期に言い遺した“ヴァルゴ”という言葉が、本郷孝宏殺害事件でも出てきたからだ。
非番にも関わらず、本郷孝宏が殺害される前日に立ち寄ったという画廊を、天城が訪れた成果である。いや、成果というより、謎を深めてしまった感があるが。
「それじゃあなにか? 山下公園で死んだ男が言い遺したヴァルゴってぇのは、人の名前じゃなかったというのか? 天城」
特殊捜査班長・
「ええ。ヴァルゴというのは、乙女座の英語読みだそうです」
「月舘氏は、星占いの結果でも気にしていたんでしょうかねぇ?」
築地がそういって、カップに注いだカフェラテを口に運ぶ。
それに反論したのは、築地より二歳上の明石である。
「五十近い男が、星占いなど気にするか?」
「先輩、オッサンだろうと気にする人はいるんじゃないですか?」
築地と明石は同じ大学の先輩と後輩だったらしく、築地が明石を呼ぶときはたまに、先輩と口にする。そんな築地の視線が神埼に向き、つられた明石が神埼のほうを見た。
「……どうして、俺を見る……? 俺はまだ、四十七だ」
「十分、オッサンだと思いますが?」
築地の軽い口調は、
だがヴァルゴが乙女座を意味する言葉だとわかったとしても、山下公園で死んだ月舘健介の死が殺人だとは断定できない。
既に、一課一係が自殺として処理したためだ。
刑事というのは、縄張り意識が強い。
たとえば
所轄は、面白くないだろう。
そしてそれは同じ署内でも同じで、殺人や強盗といった凶悪事件を専門に扱う捜査一課と、汚職や詐欺などの知能犯を取り締まる捜査二課の刑事は、衝突することがある。
詐欺を犯していた男が殺人も犯したとなると、犯人を詐欺罪で聴取したい二課と、殺人で聴取したい一課で容疑者の取り合いが始まるのだ。
幸い特殊捜査班はそれとは無縁だが、一課にも縄張りがあった。
特殊捜査係は捜査一課に属しつつも他部署とされ、本家・一課の事件に口出しができるのは、捜査協力を依頼されたときである。
もし一課が終わらせた事件を掘り起こしたりなどすれば、管理官・新庄宗一郎が乗り込んでくるだけではすまないだろう。
「俺が気になるのは、殺害された本郷氏の反応です」
天城の言葉に、神崎が眉を顰めた。
「その“
「ええ。もしかしたら――、この二つの事件を解く鍵は“
やはり、山下公園の件は殺人の可能性がある。
月舘氏は “
だがこれは、あくまで天城の推理だ。証拠もなく、目撃者もいない。
「天城、以前にも言ったが……」
「わかっています。一係の件を突っつくつもりはありません。ただこうして関連が出てきた以上、無視もできないでしょう。うちはうちで、本郷氏殺害事件を追うだけです。それなら管理官でも、口出しできないでしょう? 係長」
このとき天城はまったく意識していなかったが、神崎がにっと笑った。
「天城。今のお前――、刑事という
「よしてください。俺はただの捜査員ですよ」
天城はそう答えて、自席に戻った。
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