第12話 瞬間移動? 不可解な犯人の足取り

 神奈川県警刑事部捜査一課・特殊捜査班警部補、矢田喜一は、変わり者揃いの特殊捜査班メンバーの中で唯一まとも? な男である。

 捜査は言うに及ばず、デスクワークもきっちりとミスなくこなしている。強いて欠点を挙げるとしたら、融通が利かないことだろう。

 ただこの男の口から、“珈琲牛乳”というワードが出てくるとは。

 

 この日も朝から三十度超えの暑さで、話題がサウナがどうのという話になった。

 捜査一課に属しつつも、ここは相変わらずゆるい職場である。

「仕事のあとのサウナ、いいぞ~?」

 班長の神崎が、築地を誘っている。

「嫌ですよ。なんでこんなクソ暑い時期に、わざわざ暑い所に入らないと行けないんですかぁ……」

「あの良さがわからんとは……」

 誘いを振られた神崎は嘆く。

 そんなときである。

「そういえば昔は銭湯などに、びんに入った珈琲牛乳がありましたね」

 

 いつもなら他愛もない会話に入ってくることがない矢田が、珍しく会話に入ってきた。

 視線はパソコン画面に向けられ、表情はいつものポーカーフェイスのままだ。

 矢田喜一はこれまで、プライベートなことは一切話すことはなかった。

 仕事意外のことでは口は滅多に開かず、話を降っても一言で返してくる。

 ゆえに、メンバーは固まった。

 神埼は口を開けたまま矢田を見つめ、明石は明石で珈琲カップを口に運んだまま、動きを止めている。

 いち早く立ち直った築地が、矢田を冷やかした。

 

「へぇ、矢田さんでも、そういう場所に行くんですね?」

 顔を上げた矢田は「――昔だ……」と一言いうと、視線をパソコンへ戻す。

 この矢田の言葉で、なんとも言えない空気が漂い、神埼がわざとらしい咳払いをして自席に戻り、明石が「聞き込みに言ってきます」と出ていった。

 矢田に、場を引き締めようする思惑があったかどうかは定かではないが、効果はあったようだ。

 

「また例のガラス片か? 天城」

 神埼が珈琲を片手に、天城のデスクにやってくる。

 天城が見ていたのは、パソコン画面に映し出されたガラス片だ。

「科研に、ガラス片の再鑑定を依頼しました」

「再鑑定?」

 神埼が瞠目する。


 天城たち特殊捜査班が臨場した本郷孝宏殺害現場――、そこで天城がガラス片から読み取った念は、憎悪と殺意、焦りに苛立ちなど様々だった。

 さらに脳内に描かれるガラス片の“記憶”映像は、まさに凶器を振り上げて被害者を撲殺する姿だった。

 問題はそのあと、犯人は何故かその場所に数分留まっていた。

 

 ガラス片に宿る複数の念――、問題をややこしくしたのは、犯人がよりにもよって、誰かが持ち込んだと思われるガラス製品を凶器とし、贋作のガラス工芸品までその場にあり、混ざってしまったことだ。お陰で複数の念が入り乱れ、天城でも気づかなかったことがある。

 

「俺は――、自分の勘や考えを、100%信じてませんよ」

 物は嘘はつかない――の言葉同様、彼の口癖だ。

 再鑑定をして正解である。

 おかげて科研所長・有森に“人に無茶振りをしてくる悪魔”とぼやかれたが、彼女との縁は昨日今日のものではない。

「それで、なにか出てきたのか?」

「ガラス片から、血液が見つかったそうです」

「そりゃあそうだろう。被害者は撲殺されたんだ。現場に飛び散っていたじゃないか」


 そう、確かに殺害現場には被害者の血液も飛散していた。

 だが――。

  

「出てきたのは、AB型の血痕けっこんです」

「は……?」

「矢橋医師によれば、被害者はO型だそうです」

「犯人が怪我をしたんだろう?」

「現場からは、被害者と家政婦以外の指紋は出なかったんですよ? 人を殺しに来る犯人です。そこはちゃんと手袋をしてくるでしょう。なら、犯人は何処を怪我したんです?」

 逆に質問されて、神崎は渋面になった。

「俺に聞くなよ……」

 

 本郷孝宏を殺害した後、すぐにそこから動かなかった犯人。

 天城に視えたその光景は、立ち尽くす男の後ろ姿だ。

 己のしたことに愕然がくぜんとしたのだろうか。


 いや――。


 天城は己が聞いたモノの声と、せてくる光景から事件を探る特殊捜査官である。

 だがその能力を過信はしない。

 げんに天城にわからなかった物証とAB型血痕を、科学の力が見つけ出した。

 

「その血痕は、ガラス片の角にほんの少し付着していたそうです。犯人は――、ガラス片を触ったんですよ。しかも、手袋を外して。犯人は、触らなくていいものを素手で触れたために、血痕を残すというミスを犯した」

「よくわからん、犯人だな……」

「ですがモノたちは、実に雄弁です」

 天城はそういって、ふっと笑う。

 神埼が溜め息をつき、天井を見上げて呟いた。

「こっちはお前の脳みそに、ついていくのがやっとだよ……」

  

                ◆


 横浜市・山手――。

 神奈川県警刑事部捜査一課特殊捜査班・明石倫也は、本郷孝宏殺害現場となった本郷邸近くで聞き込み捜査を地道に続けていた。

 炎天下、長い坂を上るのはある意味、苦行に近い。

 風はあるものの生温く、来ているワイシャツは一時間も立たずに汗をしっとりと吸い込んだ。


「さぁ、見ていませんねぇ……」

 住宅街の人間は、明石の「先週の火曜日の午後十時前後、本郷邸に向かう人間を見ていませんか?」という質問に、眉を寄せ、首をひねる。

 質問した明石も、そりゃそうだなと納得してしまった。

 先週の火曜日とは、本郷氏が殺害された日であり、午後十時前後は死亡推定時刻の午後十時から十二時の間から割り出した、犯人が本郷邸にやってきた時間である。

 ただこの山手エリア――、昼間は異人館巡りをする観光客や、地元住民で人気ひとけがあるものの、午後八時ともなると、ぱったりと人気ひとけがなくなるらしい。

 住人が仮に誰かを目撃するとすれば、遅く帰宅したか、何かのようで外に出たときだ。

 すると何人か聞き込んだときだ。


「刑事さん、本当にその時間、正しいんですか?」

 逆に聞かれ、明石は虚をつかれた。

 その邸は、本郷邸から五十メートル離れていた。

「――と、いうと?」

「その日は熱帯夜でしてね。うちはクーラーがないので、窓をサッシにして扇風機を回しているんです。それに、居間は坂の道路に面していましてね。車が通ればわかります」

「誰かが歩いても?」

「夜中に、町から徒歩でやってくる人間なんていませんよ。あの坂は長い上に、緩やかそうに見えて、歩くときついですから」

 その住人は、そういう。

 あの晩――、徒歩で坂を上っていく人物が、他の住人に目撃されている。

 しかし目撃された時間は午後九時半――、天城によればその人物は犯人ではないらしい。

 ならば本郷孝宏を殺害した犯人は、何処から本郷邸にやってきて、何処へ逃げ去ったのか。


 ――まさか、瞬間移動したか……?


 明石は視線を空に運んで、本気でそう思った。

  

                  ◆◆◆


 神奈川県警警部捜査一課特殊捜査班――、部屋のなかは昼間にもかかわらず、どこか重苦しい空気が漂っていた。

 窓から射し込む夏の陽光が、古びたブラインドの隙間から細い線のように入り込み、机の上に散らばった書類やコーヒーカップの影を、くっきりと浮かび上がらせている。

 エアコンの音が低く唸りをあげ、微かな振動を部屋中に響かせている。

 一向に進展しない今回の事件が、捜査員たちをそんな気分にさせているのだろう。


「おいおい……、なぜまた謎を増やすかなぁ……」

 神崎健は聞き込み捜査から戻った明石の報告を受けて、渋面である。

 本郷氏殺害の時刻、道を歩いている人間を目撃した人間はいなかった。それだけならいいが、それがかえってさらなる謎を生んだ。

 犯人はどうやって本郷邸を訪れ、立ち去ったのか。

 市内中心から本郷邸まで、車で五十分はかかる。

 もちろん公共交通機関は通っているが、坂道の下だ。

 異人館の多くは高台にあり、観光客は坂道を徒歩で上らねばならない。

 しかもその公共交通機関の最終は、午後八時までである。

 犯人がタクシーを使ったと仮定しよう。

 だが自動車の音も、住宅街の住人は聞いてはいない。

 犯人が坂道の手前でタクシーから降りたとしても、長い坂を上る意味があるのだろうか。

「その坂、徒歩で上がるとどれくらいかかるんです?」

 築地が矢田に問いかける。

「本郷邸まで三十分だ」

「三十分!?」

「夏場はさらに、四五分は追加されるだろう」

 続けて明石が口を開く。

「ゆえに住民には、自家用車マイカーは必須なのだ」

 これに神埼が天を仰いだ。

「SFの世界じゃあるまいし、犯人が瞬間移動しましたなぁんて、そんな特殊な人間何処にいるよ……」

「特殊な人間なら、特殊捜査係うちにいるじゃないですか?」

 築地の言葉に、一同の視線が一番後ろにいた天城に向いた。

「俺に――、瞬間移動する能力はありませんよ」

いったい自分は何者と彼らに思われているのか、一度じっくりと聞きたいところの天城である。

 

「犯人は、瞬間移動などしていません」

 天城はそういった。

 犯人はなんらかの手段で、本郷邸に行ったのだ。

「まさか本当に徒歩でやってきたのか? この夏場に」

 神埼に続いて、明石がいった。

「そうだ。住人も言っていた。あの晩は九時を過ぎても気温が下がらなかったと」

「我々が見えていないものが、まだあの場所にあるんですよ」

 天城はそう言って、ホワイトボードに貼られた現場周辺の地図を見つめた。


 ――きっと、なにかがある。


 天城には、目の前の地図がそう言っているように思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る