第11話 その香りは危険な香り

 神奈川県警刑事部捜査一課・特殊捜査係――。

 美術評論家・本郷孝宏殺害事件は一向に進展せず、二種類のガラス片の謎も解けてはいなかった。

 各デスクには事件の資料が山積みになっており、その中から重要な手がかりを探し出すための痕跡が細かく散らばっている。

 窓から差し込む日差しが、室内の緊張感を少しでも和らげるかのように柔らかな光でデスクを照らしているが、捜査員たちの目はパソコンや資料、あるいは白板に描かれた相関図に釘付けになっている。

「今のところ――、容疑者ホシの手がかりはゼロか……」

 特殊捜査班長・神崎が、眉間にしわを刻んだ。

「俺……、もう歩けません……」

 聞き込み捜査に出ていた築地が、デスクに突っ伏す。

「だらしないぞ、築地。運動をしていない証拠だ」

 矢田が咎めるも、築地はそのままの姿勢で言葉を返した。

特殊捜査係うちだけの本格的な捜査なんて、久しぶりなので」

「まったく――、三係は犯人を検挙したっていうのに……」

 神埼はそう言って、嘆息した。


 捜査一課三係が担当している事件――、それは市内のビジネスホテルで、本郷孝宏の妻・本郷幸恵が変死体で発見されたというものである。

 死因は副毒死――、即効性のあるものではなく、服用して時間を置いて効き目が現れるものだったらしい。

さらに司法解剖の結果――、本郷幸恵の胃内部から、未消化のイカ、エビ、アサリ、ムール貝が出てきたという。

 そのことから彼女は死亡する前に、何処かで食事をしていたことになる。

 するとホテルに近い高級イタリア料理店リストランテ で、男と食事をしていたことがわかった。

 本郷幸恵に毒を盛り、死に至らしめたのはその男だと三係は読み、逮捕したようだ。

 

「そいつ……、犯行を自供したんですか?」

 築地の問いに、神崎は答えた。

「一緒にいたことは認めているそうだ。だが、殺しは断固否定しているらしい」

「ではどこで、彼女は毒を飲まされたんです?」

「俺に聞くなよ……。三係の事件ヤマなんだぞ?」

 つい最近、新庄管理官に乗り込んでこられた特殊捜査係としては、首は突っ込めない。

 だが天城は、一課長・浦戸一うらとはじめがいった言葉が引っかかっていた。


 ――一連の事件ヤマ、繋がっているかも知れん。

 

 本郷孝宏が殺害された事件、彼の妻が毒殺された事件、そしてセントラルパークで男が副毒死した事件。

 三つ目の服毒死は自殺して処理されたが、これらが同一人物による犯行だとは天城には感じられなかった。

 少なくともセントラルパークで彼が読んだ“記憶”に登場する犯人と、本郷邸での“記憶”に登場する犯人は背格好が異なっていた。

 繋がっているのは三人とも、本郷孝宏と関係があったことだ。

 セントラルパークで副毒死した月舘という男は、町中で本郷と会っていたのを同僚に目撃されていた。

 本郷はテレビなどにも顔を出していたため、目撃した同僚は本郷だとわかったらしい。

 天城は立ち上がった。

 

 時刻は正午――、天城は今日の昼食は、七階の食堂で摂ろうと決めていた。

 食券を購入し、トレイを手に箸をセットし、給水器から茶をプラスチック製の湯呑みに注ぐ。天城が今日の昼食に選んだのは、天津飯てんしんはんである。

 天城がレンゲを手に、片手でスマホを操作していた時である。

「ここ……、いいか?」

 そう言って、天城の正面に誰かが立った。

 天城が視線を上げると、捜査一課三係警部補・綱島左門だった。

 

                  ◆


「わたしは……、幸恵さんを殺してなどいません……!」

 取調室の中で、参考人として呼ばれた男はこちらが聞く前にそういった。

取調室の空気は、重く静かだった。

 窓は格子がついた小さなものがひとつ、差し込む日の光が冷たいコンクリートの壁をぼんやりと照らしている。

「だがあなたは、本郷幸恵さんと男女の仲にありましたね? かのビジネスホテルのフロント係があなたをよく覚えていしたよ。常連のようですね? 松島さん」

 綱島は調べたことを、参考人・松島にぶつけた。

「そ、それは……、仕事の関係で……」

 視線が泳ぎ始めた松島を、綱島はさらに追求した。

「銀行員さんというのは、偽名で女性と宿泊されるので?」

 これには松島は観念したようだ。


 あのビジネスホテル――、やはり訳ありカップルの密会場だったようだ。

 事件当夜――、本郷幸恵は偽名であのホテルに泊まっていた。

 そしてまた、この松島も偽名でかのホテルを利用していた。

 しかし松島は目立ちすぎたようだ。

 バスルームの水が出ない、隣がうるさいなど、フロントにクレームをよく言ってきたらしい。顔を見ないようにしていたフロント係は、さすがに客の顔を見たらしい。

 松島は、そのときは思わなかったのだろう。

 まさかこのフロント係が、松島が務める支店をよく利用していたとは。

 もちろん、フロント係が黙っているつもりだったらしい。

 しかし客がホテル内で殺害され、これまで一緒に来ていた男はどんなやつだっかと警察に聞かれては、客のプライバシーとは言っていられなくなったようだ。

 

「あの日は偶然……、町で再会を」

 松島いわく、食事に誘ってきたのは本郷幸恵のほうからだという。

 花柄の白いワンピースに指にはダイヤの指輪、彼女からは強い香水の香りが漂っていたという。

 現在の男から高級ブランドの香水をプレゼントされ、つけてきたと彼女は松島に言ったらしい。

「偶然ですか……」

「本当です、刑事さん。彼女はこのあと、その男と会うと嬉しそうに言っていました。刑事さん、わたしに彼女を殺す動機はありませんっ」

 松島は毒など盛っていないと、必死に訴えてきた。

「そのあと、どうされました?」

「病院にいきました。体調が悪かったので……」

 参考人聴取は、そこで終わった。

 

               ◆◆◆ 


「これで――、事件解決だと思ったんだがなぁ……」

 綱島はレバニラ定食を箸で抓みながら、視線を天井に運ぶ。

 三係の事件内容と参考人聴取の様子を、こちらから聞きもしないのに語る綱島に、天城は軽く嘆息した。

 これは、協力しろということだ。

 

「綱島さん、その参考人、彼女と別れた後、体調を崩したと言ったんですよね?」

「ああ、頭痛と吐き気が酷かったらしい。食べ物に当たったと、本人は言っていた」

 天城はその言葉に、ピンときた。

「犯人がどうやって、本郷幸恵を殺害したのかわかりました」

「本当か!? 天城」

 綱島が、瞳を輝かす。

香害こうがいです」

「香害……?」

「様々な香り成分に起因し、頭痛、吐き気、アレルギー、ストレス障害等、化学物質過敏症などの症状が誘発される症状です」

 たとえば、公共交通機関等で乗り合わせた客の、強い香水の香りで気分がおかしくなったなどだ。

 香水の他にも化粧品や合成洗剤、柔軟仕上げ剤などに含まれる合成香料のにおいによって、不快感や健康への影響が生じることもあるという。

 過度の香りは、近くにいる人間には苦痛と感じ、中にはアレルギーを起こしたり、化学物質過敏症によって体調を崩すという。

 

「そんな症状があるのか……」

 綱島は感慨深げに唸ると、自身の匂いをクンッと嗅ぎ「おやじ臭も香害か?」と聞いてきた。綱島は五十歳を過ぎており、香害と聞いて気になったようだ。

 綱島の加齢臭が香害か否かは差し置いて――、

「犯人は、これを利用したんです。普通なら死に至るまでにはなりませんが、それが毒物だったとしたら話は変わります。彼女は自宅からホテルに向かうまでその香りを嗅ぎ続け、皮膚についたそれは、時間をかけて体内に浸透した」


 本郷幸恵に香水をプレゼントした男――、おそらくその男が犯人だろう。

 自身の女性関係を清算するためか、それともなにかのトラブルか、どちらにしろ毒を仕込んだ相手は、どんな顔で毒入り香水をプレゼントしたのだろうか。

「その香水を贈った奴が、犯人か」

 綱島が眉間に皺を寄せる。

「どこかにその香水か、入っていた箱なりあれば、そこから“記憶”が読めるんですけどね。おそらく、犯人に持ち去られているでしょう」

「犯人像は――、わからんか……」

「お役に立てず申し訳ありません」

「いや、構わんよ。ところで、そっちの事件に進展は?」

「進展があれば、のんびりとここで昼を摂ってなどいませんよ」

 綱島は「そりゃあ、そうだ」と笑った。

 

  

 昼食を終えた天城はその足で、科学捜査研究所を訪れた。

 所長の有森司が、天城の顔を見るなりしかめっ面になった。

「あんたねぇ、またも人に無茶振りさせておいて、音沙汰なしってどういう了見なわけ?」

 有森司は、天城の記憶ではもうすぐ四十歳になる。

 長い髪を髪留めでまとめ、白衣の前はいつも開けている。

 性格はおしとやかとは程遠いが、研究員としてはプロフェッショナルである。

 天城は彼女に、ガラス片の再鑑定を依頼していた。

 それを依頼したのが五日前――、決して忘れていたわけではないが、他の事件に引っ張り出され、機を逃したのである。

 さすがにまずいと思った天城は、土産を用意していた。

 

「所長念願の、VANILLA BEANS、ショーコラです」

 VANILLA BEANSは市内にある、クラフトチョコレート専門店である。

 ショーコラはパリッとした食感のコーティングチョコレートと、生チョコレートをココアクッキーでサンドしたVANILLA BEANS看板スイーツである。 

「よくわかっているじゃない」

 この土産に、有森の表情が解けた。

「所長のスイーツ話は毎日のように聞かされていたもので。それで、なにかでましたか?」


「ええ……。わたしも焼きが回ったわね。あんなものを見過ごすなんて……」

「ですが俺には、十分です。犯人が犯行直後なにをしたか、わかりましたから」

「物は嘘はつかない――、ってわけね」


 物は嘘はつかない――、さすが元上司は天城の口癖を忘れていなかった。

 天城は科研いるときから、物は嘘はつかないという信条であった。

 人は無意識に物に、念と記憶を宿す。

 たとえば、古い骨董品や誰かに愛用された物などだ。

 また人形などにもその形ゆえに念が宿りやすいと言われ、現在でも人形供養をするところがあるらしい。

 そしてそれは、事件現場でもいえる。

 被害者の遺留品はもちろん、犯人が残した証拠品にその人物の念と記憶は宿り、それらは天城に語りかけてくるのだ。

 

 このとき天城のなかで、本郷孝宏を殺害した犯人の特徴がひとつ、視えてきた。

 あとは、現場に散っていたガラス片の謎と「乙女の」と書かれたメモの意味である。

 なぜ被害宅に贋作のガラス工芸品が届いたのか、なぜ凶器とされたガラス製品は持ち込まれたのか、なぜ凶器として使われていない贋作製品まで割れたのか、そして誰が「乙女の」と書かれたメモを残したのか。

 この事件は、もっと根深いような気がする天城であった。

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