第10話 増え続ける謎

 横浜市中区、山下公園――。

 ここは、港を見渡す広大な敷地に広がる美しい公園である。

 港町の息吹を感じさせるこの場所は、四季折々の花々が咲き誇り、木々は緑のベールをまとい、風が吹くたびに葉のざわめきが訪れる人々を包み込んでいる。

 海からの潮風が頬を撫で、遠くに停泊する船の汽笛が微かに聞こえると、港町の歴史と浪漫が一瞬にして蘇るかのようだ。

 公園内にはカップルが散策する姿や、親子連れが楽しげに過ごす光景が広がっている。

 長いベンチに腰掛けて読書をする人々や、ただ波の音に耳を澄ませている者もいる。

 彼もベンチに腰を下ろし、近くの自販機で購入した缶コーヒーを一口飲んで、脇に置いた。だが胸の中にある感情は、流し込むことはできなかった。

 

 ――どうすればいい……?


 唇を噛み締め、握った拳に力を入れる。

 そんな男の前に、雑誌を手にしたサングラスの男が立った。

「隣……、いいですか?」

「え……、ああ、どうぞ」

「ありがとうございます」

 男が座ったあと、携帯電話が鳴った。

「もしもし?」

 数秒の無言の後、電話は切れた。

 隣に座っていた男はいつまにか立ち去っていて、彼は再び一人になった。

 子供が嬉しそうに目の前を駆けていくのを見つめつつ、彼は缶コーヒーを口にする。

 だが飲み込んだ瞬間、胸を締め付けられるような激しい衝撃が襲ってきた。

「あ……」

 おそらく、自分は助からない。

 彼は、そう思った。

 歪む視界と、苦痛――、つい先ほどまでなんともなかった身体が悲鳴を上げている。

「おじさん?」

 まさに走り去ろうしていた子どもの一人が足を止め、目が合った。

「ヴ……、ヴァル……ゴ……」

 それが彼がこの世で発した、最後の言葉となった。

 

                   ◆


 木曜日――、特殊捜査係長・神崎健いわくこの日は、県警近くの定食屋・おかめ食堂で揚げ物定食が半額になるという。

「好きですねぇ、係長。揚げ物定食」

さすがの築地も呆れている。

「俺のエネルギー源なんでね」

 神埼はそういって、壁の時計を見た。

 時刻は午前十一時五十五分――、既に臨戦態勢に入った神崎は、出かける準備を始めていた。

 だがそんな神埼の楽しみは、一本の通報によって砕かれる。


『横浜市中区・山下公園にて、男性が死亡したと通報あり。捜査員は、直ちに現場に臨場せよ』

  

「……まさか、また殺しじゃないですよね?」

 築地が振り返った。

「行ってみないとわからん。天城、お前も行ってくれるか?」

 このとき特殊捜査係にいたのは、神埼と築地、そして天城の三人だけだった。

 築地だけではもとないという神埼の判断で、天城に臨場命令が下りた。

「……了解」

 天城はノートパソコンを閉じると、軽く嘆息して立ち上がった。


 天城と築地を乗せた黒のセダンが現場に着いたのは、県警を出て十五分後である。

 青空の下、午前の光が残る現場には、事件の冷たさが異様に際立っていた。

 警察のバリケードが張られ、好奇心に満ちた群衆が外側でうろうろしていたが、内部は完全に封鎖されていた。

 鑑識員たちが現場に到着すると、その動きはまるで精密な機械のように、無駄がなかった。

 鑑識チームのリーダーが、現場の全体的な状況を把握し、冷静に指示を出していた。

県警刑事部鑑識課を束ねる、鑑識課警部補・古澤渉ふるさわわたるである。

「お、来たな? 特殊捜査官」

 天城の存在に気づいた古澤が、白い歯を見せた。

 亡くなったのは市内・桜木町に住む月舘健介つきだてけんすけ、五十一歳――。東芝銀行横浜支店の行員のようだ」

 そう言って古澤が、月舘のものだという行員証明書を見せて来る。

「死因は?」

 天城は“捜査”と書かれた腕章を腕につけ、綿手袋をはめながら他の特殊捜査メンバーとともに、臨場した。

「青酸カリによる服毒死だ」

 そういってビニール袋に入れられた缶コーヒーの空き缶を、天城の前にぶら下げた。

 そこから読み取れる“記憶”には、なぜ? と疑問に思う月舘健介がいた。

 おそらく、自身の死は予期しないものだったのだろう。


 ――私は殺されるのだ……。

 

 月舘は毒に苦しみながら、そう悟っている。

 

「こんな目立つ場所で堂々と、犯行が行われたわけですか」

 天城の答えは、殺人である。

「俺はまだ、殺しだとは言っていないぜ? 天城」

 古澤が苦笑した。

「では、自殺ですか?」

「俺はお前さんと違って、ホトケさんが死ぬ直前が視えるわけじゃないんでね。だがな、天城。殺しだとしても、誰も怪しいやつを見た人間はいないそうだぞ?」

 

 最初に現場に駆けつけた機動捜査隊隊員の聞き込みによれば、周囲には何人かいたにも関わらず、不審人物を目撃したものはいなかったという。

 ちなみに機動捜査隊とは普段は捜査車両で警ら活動をしており、隊員が事件や事故を目撃するか、110番通報入電の無線指令を傍受すると、直ちに現場へ急行し初動捜査を行う警察官のことである。

 

「いない?」

「不審人物を見たものはいなかったらしいが、ホトケさんが亡くなる姿を見たという、人間はいたけどな。ほら」

 古澤はそういって、天城の視線を運ばせる。

 そこには婦人警官に伴われ、泣きながら現場を離れていく少年がいた。

 古澤いわく、少年は他の友達ともにこの公園に遊びに来ていたらしい。


 

 場所を移動するため、少年たちは駆けていた。

 その少年は、友達を追いかけた。

「待ってよー」

 だが海を一望するベンチの前を通りすぎようしたとき、ベンチに座る男性が突然苦しみ始めた。

 救急車を呼ばなきゃ――、少年はそう思った。

 だが男は立ち上がり、少年に手を伸ばしてきた。

「ヴァル……ゴ……」

 男はそういって倒れ、そのまま動かなくなった。

 

 

「――とまぁ、こんな感じだ。可哀想に、相当ショックだったんだな」

 少年の証言を近くで鑑識作業をしながらちゃっかり聞いていたという古澤は、少年に視線を運んだまま語る。

「ヴァルゴ……ですか?」

 天城は、眉を寄せた。

 犯人の名前だろうか?

 天城は、月舘健介が座っていたというベンチの前に立った。

 そして静かに、目を閉じる。

 


 視えてきたのは、昼下がりの公園だ。

 散策するカップル、犬の散歩をさせる人、ジョギングする若い男性、公園に集う人々は様々だ。

 月舘はその心に、ある悩みを抱えていた。

 疲れたようにベンチに座り、溜め息をつく。

 缶コーヒーのプルタブを押し上げ、一口飲む。

「隣――、よろしいですか?」

 男が声をかけてきた。

「どうぞ……」

 月舘はそういって、視線を海に運ぶ。

 不意に、自身の携帯電話が鳴った。

「もしもし、月舘ですが?」

 ところが相手からの応答はなく、数秒の無言のあとに通話は切られた。

 隣に座っていた男は立ち去っていて、彼は残りの珈琲を口にした。

 

 

 天城は目を開けた。

 犯人は隣に座った人物だろう。

 被害者が電話に気を取られている間に、缶コーヒーに青酸カリを入れたのだ。

 ヴァルゴ――、この言葉になんの意味があるのだろうか。

 しかし特殊捜査係の仕事は、ここまでであった。

 あとから、新庄管理官に率いられた捜査一課一係が乗り込んできたためだ。

「ご苦労さまです。あとは我々がやりますので」

 特殊捜査係を追い払い始めた新庄を、天城は不審に感じた。

「まだ他殺の判定が出ていないのに、一係とは妙ですね?」

「天城宿禰特殊捜査官、言ったはずです。こちら側に首は突っ込むな、と」

 眼鏡の奥から強く睨んでくる新庄に、天城もそれ以上の追求はしなかった。

 だが一係が乗り込んできた割には、この事件は“自殺”して処理された。


「ありえませよ!!」

 特殊捜査係の部署内――、築地が声を荒らげた。

「落ち着け、築地。一課に聞こえる」

 矢田が築地を制す。

「聞こえやしませんよ。特殊捜査係なんて、おまけとしか考えてないんですから」

 少し言い過ぎな感があるが、今回の一課のやり方に神埼以下、良くは思っていないのだろう。みな、渋面である。

 

 真っ昼間の公園で、男が青酸カリを服用して亡くなった――、分析の結果によると、男が飲んだ缶コーヒーの缶からも、青酸カリを検出したという。

 自殺ならば、もっと人気のない場所を選ばないだろうか。

 毒を飲むとしても、直接飲まないだろうか。しかしこれは直接飲むのは躊躇われ、毒の味を珈琲でごまかして飲んだのだと、言われてしまったようだ。

 ならば、である。

 男はどうして最期に、ヴァーゴと言い遺したのか。

 

              ◆◆◆


 夜の街が、静かにその喧騒を収めていく時間帯――。

 彼はひとり、いつものバーの重いドアを押し、暗がりの中に足を踏み入れた。

 木製の床が足音を吸い込むかのように、静かに沈んでいく。

 店内にはジャスが流れている。

 彼はカウンターの端の席に腰を下ろし、慣れた動作で背もたれに体を預ける。

 目の前には磨き上げられた木のカウンターが広がり、その奥にはさまざまな酒瓶が整然と並んでいる。琥珀色の液体が灯りに照らされて、ガラス越しに淡く輝いていた。

「いつものやつでいいか?」

 声をかけてきたのは、黒いシャツを着たバーテンダーだった。

「ああ」

 重いガラスのグラスが、カウンターの上に静かに置かれた。その厚みのある底には、まるで氷の彫刻のような大きな氷が一つ、無造作に転がっている。

 バーテンダーが琥珀色のバーボンをグラスに注ぎ込むと、まるで氷が生き物であるかのように、かすかに音を立てて縮こまった。

 そんな彼の隣に、男が座った。

 

「――同じものを」

 男はそう注文した。 

「――なにか言いたそうだな? 天城。山下公園の件、機捜(機動捜査隊)のあと、現場に臨場したのは特殊捜査係だと聞いたぞ? そこに、お前もいたと、な。一係は自殺として処理したが、お前もアレは自殺か?」

 男の視線は前へ向けられたままだったが、この男が天城が行きつけのBARに顔を出すのは、決まってなにか問題などを抱えている時だ。

 お前も――と聞いてきたあたり、男も山下公園で死んだ男は、殺されたと思っているようだ。

 天城は沈黙をもって答えた。

「…………」

「やはり、殺人か……」

「そう思っているのなら、どうして自殺にしたんです? 浦戸さん」


 浦戸一――、神奈川県警刑事部捜査一課を仕切る、捜査一課長である。

 といっても、天城も浦戸は今は勤務時間外である。

「今回の事件ヤマ――、本庁から圧力がかかった。早急に今回の事件を終わらせろ、とな」

 本庁というのは、警察庁だろう。

 警察庁は、日本の警察機関全体を統括・管理する国の行政機関であり、全国の警察組織のトップである。

 ますます、妙な話である。

 

「それで、“自殺”ですか……」

「だが、わたしは納得はしていない。一応、本庁側の意思を尊重はしたが、容疑者ホシは、なんとしても捕まえねばならん。それには有力な情報がほしい」

 ずるいな――と、天城は思った。

 浦戸は遠回しに、力を貸せと言っているのだ。

「つまり――、持ちつ持たれつ、というわけですか?」

 情報を与える代わりに、協力しろという取り引きは、今回が初めてではないが。

「警察が、嫌いになったか? 天城」

「俺は、警察官ではありませよ。逮捕権もありませんし。それに俺には、上の思惑などどうでもいいことです。突っついていいことなどないのは、身に沁みてますから」

 グラスの中で、氷がカランっと音を立てる。

「実はな。月舘は生前、本郷孝宏と繋がりがあった」

「え……」

「天城。これはわたしの勘だが、ひょっとして一連の事件ヤマ、繋がっているかも知れん。しかも、上が何かしら絡んでいる。でなければ、圧力などかけて来ん」

 浦戸は硬い表情で、そういった。

 

 

 

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