第8話 午後九時半の通行人

 各務涼介かがみりょうすけ――、三十五歳。

 彼は、外資系ソフトウェア開発企業に務める商社マンである。

 彼が横浜市山手に新築住宅を購入したのは、彼にすれば大きな冒険だった。

 お陰で貯金がかなり減ったが、山手に住むのは各務の夢だった。

 

 横浜市は明治期に多くの外国人が移り住んだとされ、ここ山手は異人館が点在している。

 薄曇りの空の下、洋館の赤い瓦屋根が緑の木々の間から顔をのぞかせ、風に揺れる紫陽花の花々が一面に広がっていた。

 石畳の坂道は、かつてこの地に暮らした異国の人々の足音を静かに語り継いでいるようで、歩くたびに歴史の香りが漂ってくる。

 一歩一歩、坂道を登るごとに、港町の喧騒が徐々に遠ざかり、代わりに静寂が心に広がっていく。

 緑に覆われた異人館のひとつが視界に入る。

 石造りの壁には蔦が絡まり、季節の移ろいを物語るかのように新緑が芽吹いていた。


 だが引っ越して半年後、アメリカの関連会社へ出向となり、帰国したのはつい最近である。

 山手は住むにはいいが、買い物には不便な土地だった。

 おしゃれなカフェはあるが、スーパーやコンビニに行くには市内中心まで出なくてはいけない。ゆえに、車は必須だ。


「はい、わかりました。先方には伝えておきます」

 車を自宅の前に止めて、各務は会社の上司と電話をしていた。

 この日は、子会社をいくつか回り、帰りが遅くなった。

 しかも明日の朝には、アメリカ本社への出向である。

 自宅に戻ったのは、午後九時半近くである。

「あれ……?」

 通話を終えた各務は、反対側の道路を歩いている人物を見つけて疑問に思った。

 その人物は大きな荷物を抱え、住宅街前の坂道をさらに上っていく。

 買い物帰りの住民かと思ったが、ここの住民たちはみな自家用車を持っている。

 しかもここは、緩やかとはいえ長い坂道の中間地点だ。

 だがこのときはあまり深くは考えておらず、その人物のことを思い出すことはなかった。 県警の刑事に、聞かれるまでは――。


                 ◆


 午前十一時――、神奈川県警刑事部捜査一課・特殊捜査班。

 この日は滅多に表情を変えない矢田喜一警部補が、渋面で席に座っている。

「……壊れているんじゃないか? 特殊捜査係うちのエアコン」

 特殊捜査班長・神埼健も渋面だ。

 団扇うちわで忙しくなく自身を扇ぎ、茶を一杯飲んでどんっとデスクに置く。

 今日も気温は朝から三十度を超え、蝉時雨が忙しない。

 部屋の中は、まるで蒸気で満たされた小さな箱のようだった。外の熱気を遮ろうとブラインドを閉じたが、むしろ、その重苦しさを一層強めていた

 冷房は電源がオンにされているはずだが、この蒸し暑さには歯が立たず、ただ無力に空気を撫でるだけだ。

 

「なにせ、一課のお下がりですからね。ま、新品なんて要求してもうちに回す予算なんかないと言われるでしょうが」

 聞き込み捜査から帰ってきた警部補・明石倫也が、そう言って自身のデスクから椅子を引き出す。

「俺……、干からびちゃいます……」

 明石とともに聞き込み捜査から帰ってきた築地が脱力して、デスクに突っ伏した。

「大袈裟なやつだな、お前は」

「外で危うく日干しミミズになりかけたんです。まさか、ここで干からびるなんて――」

 路上でたまにみかけるミミズの遺骸――、安全な土中から出てきてしまったミミズは太陽に炙られてまさに干からびた。

 人間は熱中症になることがあっても、干からびることはない。

 比喩をするにしても、他に言葉はないのだろうか。

「お前がどうして、警察官学校を無事に卒業できたのか、俺には謎だよ」

 明石は呆れ、ミネラルウォーターを口に含む。

「なにかわかったか?」

 神崎が団扇を動かしつつ、天城のデスクにやってきた。

「期待にそう収穫は現在のところは。ところで、例の目撃者はなんと言っているんです?」

 

 例の目撃者――、その人物は殺害された本郷孝宏と同じ住宅街で暮らす男だった。

 氏名は各務涼介――、外資系ソフトウェア開発企業に勤務しているという。

 本郷孝宏が殺害された事件当夜――、彼は大きな荷物を抱えて、本郷邸の方角へ向かっていく人物を目撃していた。

 なぜ今になって、この目撃者が見つかったのかといえば、各務は仕事との関係で翌朝一番の、成田発アメリカ・シアトル行きの飛行機に乗らなければならず、帰ってきたのはこの数日前だったらしい。


「――その人物を目撃したのは、夜の九時半だそうだ」

「随分と正確に時間まで覚えていましたね?」

「各務氏いわく、直前まで会社の上司と、自宅前に止めた車の中で電話をしていたらしい。あの場所は夜となると、住人は滅多に出歩かないそうだ」


 山手エリアの高級住宅街は、ここ二十年の間に進んだ土地開発によりできたものらしい。

 元は幕末期――、貿易のためにやってきた外国人居留地である。

 時代が新しくなり、当時建てられた異人館は異人館巡りという観光スポットとなり、おしゃれなカフェが山手に進出したという。

 ただそこは高台で、長い坂を上らねばならない。

 各務氏が見た人物は、徒歩だったという。

 人気が絶えるとされる時間帯にも関わらず、その人物は大きな荷物を抱えて、坂道を上がっていったらしい。

 

「――犯人……、だろうか? 天城」

 神崎がいう。

 使われた凶器は、一メートルに達するクリスタルガラス製品。

 しかし普通、撲殺の凶器にするならバールのようなものか、灰皿などだ。

 わざわざ重いものを持ち込んで、凶器とするには無理がある。

「違いますね」

 天城は、神崎の言葉を否定した。


 天城が現場で直に飛散したガラス片に手を翳し、それらから読み取った念は三つ。

 一つは殺害された本郷孝宏、ふたつ目はおそらく犯人だろう。

 さらに悔しさや悲しみの念――。

 これは、何を意味するのか。

 そこで天城は、ひとつの仮説を立てた。

 

「事件当夜――、本郷邸にもう一人、誰かが来ていた」

「犯人以外の人間か?」

「ええ。おそらく各務氏が目撃したという人物ですかも知れません」

 この仮説が正しければ、凶器となったガラス製品を持ち込んだのはその人物である。

「おい……、ただでさえ例の贋作製品が届いた本郷邸に、今度は誰かがガラス製品を持ち込んだというのか……?」

 深まる謎と蒸し暑さに、神埼の首筋を汗が流れる。

「ところで係長、例の人物――、探して頂けましたか?」

「ああ。本郷氏の関係者のなかに、お前さんの条件にヒットした人間が三人いたよ。そのうち、一人には事件当夜のアリバイは証明されている」

「残る二人は?」

「一人は現在はパリにいて、一ヶ月後に帰国するそうだ。もう一人は、大阪に出張中だ。なぁ?そろそろ、タネ明かしをしてくれよ」

 神埼の疑問に天城は「それはおいおい」といって、立ち上がった。

「何処へいく?」

現場百遍げんばひゃくへん――、ですよ」


 現場百遍――、事件現場にこそ解決への糸口が隠されているのであり、100回訪ねてでも慎重に調査すべきであるという警察用語だ。

 

「――お前の口から、現場百遍という言葉が出るとはねぇ……」

 神埼は疑わしげな表情だが、天城は「お前も行け」という神埼の指示を受けた明石倫也警部補を伴って、特殊捜査係をあとにした。

 

              ◆◆◆


 横浜市は中心部を核とする県内最大の自治体であると同時に、市内の多くは丘陵地の閑静な住宅街である。

 横浜駅は全国最多である六社の鉄道事業者が乗り入れる一大ターミナルであり、駅周辺には全国有数の規模を誇る繁華街が広がっている。

 西口と東口には大手百貨店も存在し、他にも駅ビル・ファッションビル・専門店街などの大型商業施設が集積している。

 駅近辺には広大な地下街や飲食店街が広がり、さらにはアミューズメント施設も充実しており、ヨドバシカメラ、ビックカメラ、エディオンなどの大型家電量販店も存在するため、これらを統合すると多岐にわたる様々なジャンルの店舗が集まっている。

 天城は車の助手席側に座り、ぼんやりと車窓を眺めていた。


 夏の日差しが、ビルの谷間にこぼれ落ちる。

 アスファルトの照り返しが、まるで街全体を包み込むように熱を放ち、真昼の喧騒に拍車をかけていた。東京の大通りには、人々が様々な速さで行き交っている。

 スーツ姿のビジネスマンたちは、スマートフォンを片手に急ぎ足で歩いている。

 彼らの顔には焦りと期待が混じった表情が浮かんでおり、きっと次の会議が成功するか否かで一日が左右されるのだろう。

 一方で、カフェのテラス席に腰掛ける女性たちは、真っ白な日傘を開きながら、友人との会話に夢中だ。

 交差点を渡る大学生とみられる若者たちはカジュアルな服装で、友人と肩を寄せ合いながら談笑している。

 日中の街を行く人々の姿は、まるで一つのドラマのようだった。それぞれの人生が交錯し、また別々の道を歩み続ける。

 都市の息吹を感じながら彼らは今日も、この広い舞台で自らの物語を紡いでいることだろう。

 そのうち、景色が変わった。

 大きな建物はなくなり、白亜の山手カトリック教会の前を通り過ぎると、車は坂を上り始めた。

 本郷孝宏邸に着いたのは午後一時過ぎ――、明石が家政婦から借りたスペアキーで玄関扉を開けると、熱気が襲ってきた。

 当然である。主を失ったこの邸は、事件現場となったために警察関係者以外は立ち入っていないのだから。 

 

「鑑識がすべて持っていったから、なにも残ってないぞ?」

 明石は天城にそういった。

 なにもというのは、事件に関するものという意味だろう。

「指紋は、出なかったんでしたね? 確か」

「ああ。被害者と通いの家政婦・吉沢房江以外のやつは全く、な」

 それは、飛散していたガラス片も同じだった。

 犯人は手袋をしていたのだろう。

 殺害現場となった書斎は、当時のままだ。

 窓から差し込む柔らかな光が、書斎全体を包み込んでいた。

 古びた木製の書棚は、何年もかけて集められた無数の本で埋め尽くされている。

 革の背表紙が光を受けて輝き、その一つ一つが時を経てきた重みを感じさせる。

 殺害された本郷孝宏という男は、潔癖な性格でもあったらしい。

 書棚の本の中にはシリーズ構成されたものもあり、一から順に並んでいる。

 家政婦・吉沢房江によれば、机に置かれているものの位置が数ミリ変わっていただけで酷く叱られたという。

「明石警部補」

 書棚のある場所で立ち止まった天城は、明石を呼ぶ。

「なにか見つかったのか? 天城」

明石が振り向き、天城のところまでやってくる。

「ここを見てください」

 天城はそういって、指を指す。

 その場所は何故か、書籍のタイトル逆さまのままだったり、順番がバラバラだったりとしていた。

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