第7話 元町美術館、贋作事件

 横浜市・中区、元町――。

 東と南は山手町、西は石川町、北は堀川を挟んで山下町に隣接している。

 町域の東端に、横浜高速鉄道みなとみらい線の元町・中華街駅がある。

 美術館がある元町は、上質なブティックやカフェが軒を連ね、洗練された雰囲気が特徴である。

 美術館に着いたとき、午後二時を少し過ぎていた。

 美術館の中は、外の喧騒けんそうが嘘のように静かだった。

 大理石の床が足音を吸い込むためか、来館者たちの動きは静々とし、まるでそこに漂う空気までが時を忘れているように感じられる。高い天井から柔らかい光が降り注ぎ、展示された絵画や彫刻を静かに照らしていた。

 

「――天城さんが、こういう趣味があるなんて知りませんでしたよ」

 同行してきた、築地がそう言って苦笑した。

天城より背が少し低く、癖のある髪が風に揺れている。

 彼は気取ることなく自然体で、肩の力が抜けたリラックスした雰囲気が漂っていた。

 話している時も、いつも表情が豊かで、何か面白いことを思いついた瞬間には目を輝かせ、次の瞬間には大きな声で笑い出すのだ。

 

「そんなんじゃないさ。これも捜査だ」

 天城はそういった。

 元町美術館は、かつて贋作事件があった場所である。

 収蔵品の一つが実は贋作だったというもので、美術館はそうとは知らずに展示していたらしい。だがそれには、後日談がある。

 捜査一課一係から借りた事件調書によれば、美術館に展示されるまでは間違いなく本物だったと、当時の館長が陳述していた。

 これは、なにを意味するのか。

 

 大きなホールに足を踏み入れると、壁一面に広がる巨大な絵画が目に飛び込んできた。 遠くから眺めると、絵の中の風景がまるで本物の窓のように、額縁の中で深い奥行きを持って広がっている。

 近づくにつれて、絵の具の厚みや筆使いがはっきりと見えてくる。

 それらの細かなディテールが、画家の手の動きや呼吸までも伝えているようだ。

 通路を進むと、展示品は次々と姿を変える。彫刻のエリアでは、大理石やブロンズで形作られた人物像が、まるで今にも動き出しそうなリアリティで佇んでいる。

 細部まで精巧に彫られたその姿は、時間を超越してここに存在し続けているようだった。

 各展示室を繋ぐ廊下には、静けさが一層深まる。壁に沿って並べられた小さな作品たちは、まるで囁き声で何かを語りかけてくるようだ。

 天城は絵の前で立ち止まった。

 じっくりと見つめていると、過去と現在が交差する瞬間が訪れる。

特殊能力を使わずとも、作品は訴えてくるのがわかる。

 どんな時代、どんな場所で作られたものであっても、その一つ一つがここに集まり、今という瞬間に存在しているのだと。


 しばらく展示品を見ていると、男が近づいて来て会釈した。  

「――お待たせしました。当館の館長を務めております、細田と申します。あの、警察の方が当館になにか……?」

 細田の手は震えていた。

 警察と言う言葉に、過剰に反応したようだ。

 握りしめた拳から伝わる微かな振動が、彼の内心を物語っていた。顔は蒼白で、額には冷や汗が滲んでいる。

 細田という男、かなり臆病な体質のようだ。

 

「わたしは、警察官ではありません。確かに県警刑事部捜査一課・特殊捜査班に属していますが、わたしは特殊捜査官です」

「は、はぁ……」

 細田の目には、特殊捜査官も警察官だろう? と問う意思が見られたが、ここで説明するのは時間の無駄である。

「ここで起きた事件について、お話を伺えませんか?」

 天城はそういって、場所を変えさせたのだった。

 

                ◆


 その日――、元町美術館では【パリの輝き~アール・ヌーヴォー展】が開催されていた。

 アール・ヌーヴォーの作品は、花や植物などの有機的なモチーフや、自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴で、分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたった。

 その【アール・ヌーヴォー展】で、副館長の細田は客の案内などに追われていた。

 

 ――そろそろ、いらっしゃる時間か……。


 自身の腕時計で時間を確認し、細田はその訪問者の到着を待った。

 その訪問は、開館してから館長の鮫島から告げられた。

 美術評論家・本郷孝宏が来るという。

 彼は告知なしで他の美術館などを訪れる人物らしく、来るとなればいつも以上にスタッフの仕事は増え、ストレスも増える。

 一つでもケチがつけば、美術館そのものの価値が下がるからだ。

 

 そんな美術館を訪れる客は様々だ。

 足音が響かぬように慎重に歩く老夫婦は、手を繋ぎながら一枚一枚の絵に目を向けている。夫人は微笑みながら、小さく囁くように夫に感想を伝え、夫はそれに頷き、二人の間に流れる静かな対話が、絵画の前でゆっくりと繰り広げられていた。

 一方で、若い女性が一人、鮮やかな絵の前に立ち尽くしている。

 黒いワンピースに身を包み、視線を一点に固定しながら、その絵の中に何かを見つけようとしているかのようだ。彼女の顔には淡い表情が浮かび、その奥で感情がゆっくりと揺れ動いているのが感じられる。美術館という静かな空間は、彼女にとっての心の避難所であり、絵画が彼女の内面と対話する瞬間を与えているのだろう。

 しばらくして、その本郷孝宏はやってきた。

 

「これは――?」

 いくつかの展示品を見終えた本郷が、ある花器の前で足を止めた。

「ルネ・ラリック作による、花器です」

 ルネ・ラリックはエミール・ガレやドーム兄弟とともに、アール・ヌーヴォー期を代表するガラス工芸作家である。

 ラリックのガラス作品は、動物、女性像、花などモチーフが多く見られ、素材としては乳白色で、半透明のオパルセント・グラスを彼は好んで用いていたようだ。

「これが……?」


 本郷の顔には薄い笑みが浮かんでいたが、どこか嘲るような気配があった。

 唇の端がほんのわずかに上がり、表面的には穏やかさを保っているが、その眼差しには冷酷な光が宿っている。

「本郷先生……、あのなにか……」

「ここは、贋作を堂々と展示するところなのかね?」

「え……」

 思いもしない言葉に、細田の思考が停止した。

「これがルネ・ラリックだと? 贋作ではないか!?」

 本郷の声が次第に怒りに変わっていく。

「そ、そんなはずは……」

「この本郷孝宏が、嘘を言っているというのかね?」

  

 周囲の者たちは彼の怒りに恐れをなし、一歩引き下がっていた。

 本郷の額には怒りのために浮き上がった血管が見え、顔は赤く染まっている。

 なにか起きたのか、あまりの突然のことに考えがおいついていかない。

 その作品は再鑑定され、本郷の指摘する通り、贋作と断定された。


「そんなばかな……」

 館長の鮫島は蒼白な顔で、そう呟いた。

 だが多くの目に触れたその騒ぎによって、元町美術館の集客数は激減し、鮫島は管理責任を問われて館長の座を降りた。

 これが――、元町美術館で起きた贋作事件のあらましである。



「……鮫島前館長は言っておられました。作品は鑑定書もしっかりしたもので、本物だったと。それが……、贋作だったなんて……」

 細田は事件を語り終えたあと、そういって膝の上で拳をきつく握りしめた。

 

              ◆◆◆


 元町美術館をあとにした天城と築地は、美術館近くの喫茶店に入った。

 天城としてはこのまま県警へ帰るつもりでいたのだが、築地がどうしても寄りたいといった。

 なんでもそこのスペシャルホットケーキは、インスタやSNSで拡散されて人気なのだという。

 時間は午後四時――、古びた木製のドアを開けると、小さなベルが心地よい音を響かせ、ほのかなコーヒーの香りが鼻をくすぐる。

 店内の壁は深い緑色で、所々にアンティークな写真やレコードジャケットが飾られている。窓際には小さなテーブルが並び、木製の椅子に座った客たちがそれぞれの時間を過ごしていた。

 新聞を広げる初老の男性、ノートに何かを書き込む若い女性、静かに本を読んでいる中年の夫婦など、思い思いの時間を過ごしている。

 カウンターの奥では、店主が丁寧にコーヒー豆を挽き、湯気を立てるポットからお湯を注いでいた。  


「――お待たせしました。ご注文のスペシャルホットケーキでございます」

 接客担当らしき女性が、銀色の盆から築地の前にホットケーキを置く。

「お、きたきた♪」

 このときばかりは、築地は自分が刑事だということを忘れている。

 目を輝かせ、ぺろりと舌なめずりをする。

 子供かよ――、と天城は思った。

 

 ホットケーキの厚みのある生地はふっくらと膨らみ、その表面にはほんのりとした焼き色がついている。

 バターの塊が頂上にそっと乗せられ、それが生地の熱でゆっくりと溶けていく。

 バターは、黄金色の小さな川を作りながら、生地のくぼみへと流れ込み、上からメープルシロップがかけられると、それはまるで琥珀色の雨が降り注ぐかのようだった。


「天城さんは、いいんですか? 珈琲だけで」

「ああ……」

 天城はカップに口をつけつつ、タブレットに視線を運んだ。

 これまで聞いた話を、己と考えと照らし合わせ、整理するためだ。

 

「しかし妙ですよね? 本物だったはずのものが、実は贋作だったなんて……」

 ホットケーキにナイフを入れながら、築地がいう。

「本物だったのさ」

「は……?」

「少なくとも――、展示されるまでは、な」

「それって……、すり替えられたってことですか?」

「当時、学芸員の青年一人が、事件後から来なくなったそうだ。しかも同じ時期に、設備管理員も辞めている」

 収蔵品を保管管理している学芸員と、インフラなどの設備を二十四時間チェックしているという設備管理員。

 はたして二人が同時に美術館を去ったのは、偶然だったのか否か。

 

「二人はグルって、ことですか。ですがそれならどうして一課は、二人を捕まえなかったんです?」

「美術館側が被害届を出すのが遅れたからさ。まさか内部で擦り替えが行われ、本物が盗まれていたとは思っていなかったらしい」

 

 細田から話をきいたあと、天城はその作品が保管されていた収蔵庫に向かった。

 その作品はもうなかったが、作品が置かれていたという棚には現在も、当時の“記憶”が残っていた。触れてみると、さっそく天城の脳内で、映像化された。捉えられたのは、一人の人物が懐中電灯を頼りに箱の蓋を開け、再び蓋を閉じて出ていく姿だ。

 たが――、本郷孝宏殺害事件に関連するするようなものは出てこなかった。

 一致しているのは、“贋作”というワードのみ。

 本郷邸にあった贋作のガラス花器――、送ったのは何者か。

 ふたつめ――、凶器とされたクリスタルガラス製のものは何だったのか。

 そして『乙女の』と書かれたメモに、何の意味があるのか。

 

 二人が特殊捜査班に帰ったのは、五時近くのことだった。

 戻るなり、神崎が言った。

「事件当夜の目撃者が現れたぞ」

 

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