第6話 消せない記憶

 雨が降っている。

 土砂降りといっていい、物凄い雨量である。

 白黒の映像の中、複数の足音がある。

 水飛沫をあげて、その足音は駆けていく。

 しばらくして、一発の銃声が鳴り響いた。

 複数の足音は、一つの駆け去る足音だけを残して止んだ。

 豪雨はまだ降り続き、それまで白黒の映像に一箇所だけ色がついた。

 路面を濡らす雨に混じり、赤いものがその量を増していく。

 映像は倒れている人物に切り替わり、そして――。


              ◆


 午前四時――、彼は飛び起きた。

 肩で荒く、息をする。

 身体は、まるで雨に濡れたかのように汗をかいている。

 

 ――参ったな……。

 

 呼吸を整えると額と前髪の間に指を入れ、彼――、天城宿禰は頭を押さえる。

 人の記憶というものはときに厄介で、消したい記憶ほど強く残る。

 彼が見たのは夢などではなく、彼が覗いてしまったある男の記憶だ。

 そしてそれが――、物に宿った人の念と記憶を読むという、特殊能力が芽生えたきっかけとなった。

 窓の外はこの時間にしてはもう明るくなりつつあり、彼は起きたついでにスマホを起動させる。メールが一件、入っていた。


『お疲れ様です、天城さん。次の珈琲当番は天城さんなので、お忘れなく』

 

 メールを寄越してきたのは同じ職場の、神奈川県警刑事部捜査一課・特殊捜査班巡査部長、築地圭介である。あまりの下らない内容に脱力しかけた天城宿禰だが、お陰で先ほどまでの嫌な気分は少し和らいだ。

 特殊捜査班は捜査一課に属しながら、ゆるい部署だ。

 メンバーは他部署からの異動者で、かくいう天城も元は科研の人間である。

 そんな特殊捜査班で誰が作ったか、珈琲当番という役割。

 単に珈琲をサーバーに補充するだけだが、わざわざ当番制にしなくてもよかろう。

 


「さすがは天城さん、一気にセレブになった気になります」

 県警内部が稼働しはじめて数時間後――、サーバーから珈琲を紙コップに注いだ築地は、香り立つ匂いに酔っていた。

 それはそうだろう。

 天城が補充したのはいつもの安価なインスタントではなく、珈琲店で豆から焙煎してもらった二〇〇グラム、二三〇〇円の珈琲である。

 彼の自宅マンションから県警までの道沿いにコンビニはなく、店といえばその珈琲店と成城石井である。

 築地は珈琲当番が天城の担当になると、高い珈琲が飲めると楽しみにしているのだ。

 

「お前はいいな。いつも能天気で」

 同じく珈琲入りのカップを手にしていた明石が苦笑した。

「特殊捜査班には、うるさい人間はいませんからねぇ」

「それはわたしのことですか? 築地圭介巡査部長」

 背後からかかった声に、珈琲を飲みかけていた築地は吹き出し、そこにいた面々は凍りついた。

 

「し、新庄管理官っ!?」

 一課管理官・新庄宗一郎は銀縁のメガネを指で押し上げ、眉間に軽く皺を刻んでいた。

「――相変わらず、平和な部署ですね? ここは」

 彼は滅多に、特殊捜査班に来ることはない。

 もともと当てにされておらず、特殊捜査班の捜査員が一課の捜査本部に参加したとしても、一課の手伝いとしか見ていない。

「な、なにか?」

 冷静沈着な矢田も、さすがに動揺した。

「安心してください。わたしは告げ口するようなことはしませんので。ただ――」

 新庄の視線が、黙々とパソコン作業を続けていた天城に注がれる。

 

「天城宿禰特殊捜査官、また他の部署の件に首を突っ込んだようですね?」

 正面に立たれ、天城は内心やれやれと思っていた。

 新庄がいう他の部署に首を突っ込んだというのは、一課三係が担当している本郷幸恵殺害事件のことだろう。

 ただあれは、三係警部・綱島左門が本郷幸恵の遺留品を視てくれといったため、彼女の記憶を探っただけだ。

 

「……頼んできたのは、向こうです」

 天城はそう言ったが、この男には通じないようで、

「言い訳は結構。わたしはあなたを、正規の捜査員として認めていません。もちろん――、わたしが統括する捜査本部で、あなたの能力を借りるつもりもない。では失敬する」

 新庄は散々言いたいことをいったあと、踵を返す。

 

 とんだ嫌われようだが、新庄の嫌味などはこれが初めてではないため、天城はどちらといえばうんざりとしていた。

「なにしにしたんです……?」

 築地が新庄の去っていた出入り口を指差し、明石に聞いている。

「俺に聞くな……」

 明石はそういって、渋面になった。

 だが、こうなると一課一係が担当した過去の事件――、美術館贋作事件に触れられなくなった。

 まさかこの事件に触れようとしている天城を牽制しにきたわけではなかろうが、新庄はこの事件を陣頭指揮していた。

 天城は視線を天井に運び、思案した。

 このなれば、奥の手を使うしかない。

 彼は、そう思った。

 

              ◆◆◆


 真夏の午後、空はどこまでも透き通るような青で、雲一つない。太陽は真上にあって、容赦なく照りつけている。

 県警屋上――、天城はその屋上に出た。

 そこには、ちょっとした家庭菜園がある。

 胡瓜きゅうりにトマト、茄子なすにゴーヤなどの夏野菜が、ちょうど収穫のときを迎えている。

 それらを手入れしているのは、『ダイフクさん』と呼ばれている五十過ぎの男である。

 麦わら帽子を被り、デニム生地のオーバーオールを着た姿で、度々目撃されている。

 警察内部には、もちろん警察人間以外の者もいるが、畑の世話をする人間はいない。

 そもそも、いったい誰が家庭菜園など作ったのか。

 いまでも疑問に思う人間はいるようで、『ダイフク』は誰かに管理を任されているだろうと思われているらしい。


 ――なにもこんなところで……。

 

 屋上にやってきた天城は、そう思った。

 屋上は太陽に近く、地上より暑いだろう

「――精が出ますね」

 天城はそういって、ダイフクの背後に立った。

「どうだ? 凄いだろう? やはり野菜は新鮮が一番だ」

 ダイフクは、そう言って取り立てのトマトを天城に見せる。

「本当なら――、この手は使いたくないんですが……」

 天城が屋上にきたわけは、この『ダイフク』に会うためだ。

「新庄が、特殊捜査係に乗り込んだそうだな? 天城」

 ダイフクの口調が変わる。

「そんなに派手に動いたつもりは、なかったんですけどね」

「それで、どうしたいのだ?」

「捜一がかつて担当した、贋作事件の資料を拝見できませんか? 本部長」

 天城はそこで、ダイフクの本来の役職で呼ぶ。


 猿渡大福――、県警トップ、県警本部長そのひとである。

 ダイフクという名前は、おおすけという実名が漢字で書くと大福となり「だいふく」とも読めるからだ。

 だが彼のもう一つのこの顔はほとんどの者は知らず、県警本部長が屋上の家庭菜園で野菜を育てているとは、夢にも思っていないだろう。

 もちろん、県警本部長が『ダイフク』となるのは、昼休憩の間だが。

「未解決のままとなったあの事件か?」

 猿渡は茄子の茎に鋏を入れながら聞く。

「本郷孝宏氏がなぜ殺害されたのか、もしかすると繋がっているかも知れません。さすがに一係に入っていく勇気はありません」

 県警内部でも、縄張りというものが存在する。

 一課のなかで一係は、凶悪犯を相手にすることが多いらしく屈強な刑事揃いだ。

 一課長・浦戸一は天城の父とは同期だった人物で、猿渡同様顔馴染みではあるが、それこそ新庄の態度は嫌味ではすまなくなるだろう。

 警察官の不正などを調べる監察官が出てくれば、類は他の特殊捜査係メンバーに及ぶ恐れがある。

「浦戸に話を通しておこう」

 猿渡はそういって、茄子を切り離した。

「感謝します」

 少し西に日が傾いた県警屋上――、そういえばここ一週間、雨が降っていない。

「構わんよ。お前にはまだ返せない借りがある。天城慈音警部を射殺した犯人を逮捕するという借りがな」

 猿渡は空を見上げた天城をみて思い出したのか、過去の事件を話す。

 天城の父――、天城慈音あまぎじおんは、窃盗犯を追っていた。

 その追跡中、犯人が所持していた拳銃で撃たれ、亡くなった。

 そのとき、一課長として猿渡も現場にいたという。

「俺はもう気にしてませんよ」



 まだ十一歳だった天城は、父の死を猿渡から聞かされた。

 霊安室で白い布を被された父の遺体を見ても、何故か涙が出なかった。

 おそらくあまりにも、突然過ぎたのだろう。

 血に濡れた父の時計をみたとき、彼は妙な感覚を襲った。


 雨が降っている。まるで映画のように、リアルな光景。

 滝のような雨の中を走り抜ける複数の足音。

 一発の銃声が鳴り響き、それまで白黒だったその映像に一箇所だけ色がついた。

 雨とともに路面に流れる、赤い液体に。

 

 

 殺人の公訴時効は二十五年と定められていたが、刑事訴訟法の改正によって、二〇一〇年四月二十七日以降に廃止されたという。

 あれから十八年――、天城は父の跡を継いで警察官にはなることはなかった。

 だが、父が死亡に至るまでの記憶は現在も、脳内で再生されている。


 豪雨の中を駆けていく複数の足音と、一発の銃弾。

 そして――、鮮明に映し出される赤い血。


 人の念や記憶を頼りに捜査する特殊捜査官でありながら、自身に宿ってしまった父の痛ましい記憶はどうすることもできない。

 犯人が今も捕まっていないせいなのか、それとも天城自身が己の能力を活かすことをためらっているせいなのか、それは彼自身もわからない。

 ただ少なからず警察関係の科研に入ったことは、父を撃ち殺した犯人を捕まえたいと思いがどこかにあり、さらに、特殊捜査官として一課に異動となったときに拒まなかったのも、そうした思いがあったのかも知れない。

 天城は、再び空を見上げた。

 空はまるで透明なドームのように頭上に広がり、太陽光が全方向から降り注いでいるように感じる。雲が一つ浮かんでいたとしても、それは薄く、絹のように透き通っていて、まるで空に溶け込んでしまいそうだ。

 あのときのような豪雨が降れば、忌まわしい記憶は消えるだろうか。


「雨――、降ると言いですね」

 天城はそういって、菜園から背を向けた。

  

 

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