第4話 語り始めたガラス片
「あの
女の言葉に男は苦笑した。
場所は、何処かの部屋だ。
男も女もバスローブを身に着け、女の方はベットに入り男を誘った。
女は、本郷幸恵だろう。
「わたしが、先生を?」
「あの男は、自分の意に沿わない人間は潰す男よ?」
「先生が殺害された時刻――、あなたとこうして、一緒だったではありませんか?」
「あなたとは、これからもいいパートナーになれそうだわ。でも――、もし関係を解消するというのなら、投資した分は返して貰うわ」
本郷幸恵は、男の首に手を回した。
「御意。女王陛下」
男はジョークを添えて、本郷幸恵にキスをする。
神奈川県警刑事部鑑識課――、死亡した本郷幸恵の遺留品から、宿った記憶を辿っていた天城宿禰は脳内で再生された映像を途中で打ち切った。
男女の濡れ場など、覗く趣味は天城にはない。
本郷孝宏夫人・幸恵は、なかなかの悪女のようだ。
聞くところによると、彼女は亡き夫・本郷孝宏の遺産を相続するとともに、保険金も受け取る予定だったらしい。
それだけならいいが、彼女は夫が存命中から浮気を繰り返していた。
となると、この“記憶”は、本郷孝宏が殺害された日の翌日以降のものだ。
彼女に夫の死を悲しむ念はない。むしろ、逆だ。
喪中にも関わらず、彼女は情人とホテルにいる。
こうなると本郷幸恵も本郷孝宏殺害犯として怪しいが、彼女は男と密会中だ。
委託殺人という可能性もあるが、そうなると彼女の愛人の誰かか?
「なにか、わかったか?」
鑑識課で天城に立ち会っていた、捜査一課強行犯三係警部補・綱島左門が口を開いた。
「いえ……、犯人らしきものには」
「そうか」
「本郷夫人の死因は、なんだったんですか?」
天城が綱島から聞いた話では、本郷幸恵の遺体はビジネスホテルの一室で発見され、そこまでは病死なのか、他殺なのか判断できなかったらしい。
部屋は第一発見者のフロント係がドアを開けるまで、密室だったという。
綱島は渋面となると、ため息とともに答えた。
「殺しだ。司法解剖の結果、体内から毒物が見つかってな。摂取したのは、死亡する約二時間前だとさ」
綱島はそういった。
時間差のある毒物による殺人ならば、犯人が部屋にいる必要はない。
「犯人はおそらく、被害者と親しい関係にある人間ですよ」
「愛人っていうことか?」
「それもかなり深い関係でしょう。被害者に警戒されることなく、毒を飲ませられる人間」
本郷幸恵は常に“女王”だった。
これまで彼女と関係してきた男たちは、彼女に何でも買い与えていたらしい。宝石に高級ブランドの服やバックに靴、まるで女王蜂のために、蜜をせっせと巣に運ぶ働き蜂のように。
そんな彼女が一人だけ、気を許した人間がいるはずだ。
問題はなぜ、彼女まで殺害されたのかだが。
「さすが、特殊捜査官だな」
「おだてはやめてください。あとはそちらの仕事でしょう? 綱島さん」
天城はそういって、鑑識課を出た。
特殊捜査係へ戻る通路にて、天城のスマホが着信を報せる。
天城は仕事関係者か、よほど親しい人間にしか電話番号とメールアドレスを教えていない。逆にスマホには、その仕事関係者と知人の電話番号と、メールアドレスが登録済みである。公衆電話からかけてくるかでもしないかぎり、画面にはかけてきた相手の名前が出るはずである。
画面には「有森司」と出ている。
電話をかけてきたのは、元上司・科学捜査研究所所長、有森司だった。
「珍しいですね? 所長。あなたから、連絡してくるとは」
天城の皮肉をいつもなら切り替えしてくる有森が、このときは違った。
声のトーンがやけに低い。
『例のガラス片だけど――』
「アレがなにか?」
『クリスタルガラスに混じっていた別のガラス片ついて、思い出したのよ。アレと同じものを見てるの。確か――、ガレ……とかなんとか……』
有森の元夫は、西洋アンティークに詳しかったという。
暇さえあるとうんちくを聞かされ、美術館にもつきあわされたらしい。
以前彼女は、ガラス片の一部は美術品かも知れないと言った。
本郷孝宏は美術評論家である。彼の邸に、ガラス製の美術品があってもおかしくはない。
問題は「同じものを見た」といってきた有森の言葉である。
量産品とは違い、高価値のものは一点ものが基本だという。
「まさか、美術館だなんて言いませんよね?」
『あら、もうわかったの?』
思わず、天を仰いだ天城である。
◆◆◆
アール・ヌーヴォー期のガラス工芸作家といえば、エミール・ガレ、オーギュストとアントナンのドーム兄弟の名が上がるだろう。
彼らは十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、欧米で展開したアール・ヌーボーの一流派、ナンシー派のメンバーだった。
ナンシー派はフランス東部の町ナンシーを中心に活動し、日本美術に強い影響を受けた草花鳥虫、とりわけ植物文様をモティーフに使った、自然主義的な表現に特色があるという。植物主義とも呼ばれる、アール・ヌーボー運動の、中心的な活動母体でもあるらしい。
科捜研所長・有森が見たガラス工芸品は、まさにガレの作品だった。
「それって……いくらぐらいするものなんですか?」
神奈川県警刑事部捜査一課・特殊捜査班――、いつもは陽気な築地圭介巡査部長の顔が、引き攣っている。殺害現場となった本郷孝宏邸・書斎に飛散していたガラス片の一部が、高級ガラス工芸品だとわかったからだ。
「百万はゆうに超えるだろうな」
答えたのは、明石倫也警部補である。
「それが、一瞬でガラクタですか……?」
「そうなるな……」
どんな高級品でも傷一つでもあれば価値は下がる。
さらに粉々となれば、それは一銭の価値もなくなる。
次に、班長・神崎健が口を開いた。
「だが天城、本郷邸にあっても不思議はないだろう。彼はその手の専門家だ」
「贋作でも、ですか?」
「贋作……!?」
天城の言葉にそれこそ一瞬で、その場に緊張が走った。
美術館に展示されていたものが、どうして本郷邸にあったのか。
その美術館から盗難被害にあったという話はないらしい。
科研所長・有森は西洋アンティークの鑑定士に、そのガラス片を見せたという、
鑑定士は粉々のガラス片に困惑していたそうだが、特徴のある文様から精巧に造られた贋作と、答えを出したようだ。
これに、神崎がデスクで頭を抱えた。
「冗談じゃないぞ……、これ以上謎を増やさんでくれ……」
美術評論家の邸に、贋作があった。
これはなにを意味するのか。
ただ、これまでにわかったことは、本郷孝宏が殺害される数十分前に、本郷邸に向かう宅配業者を近所の主婦が目撃していた。
妙である。
本郷邸には、高価な美術品が他にもあった。
当然盗難防止のために、防犯カメラは設置されてあったが、カメラは作動していなかったのだ。ゆえに、宅配業者の存在はあとから出てきた。
なぜ、防犯カメラは切られていたのか。切ったのは誰か。
殺害犯人は、本郷邸内部を熟知しているかも知れない。
被害者は無抵抗のまま、背後から撲殺されている。
警戒されることなく、被害者に近づける人間となると、犯人は被害者にとっても意外な人間だろう。
ただ有森は、犯人に繋がるかも知れない物を発見していた。
それを彼女から聞かされた時、天城のなかで犯人の特徴が見え始めた。
「班長、被害者の関係者の中で、探してほしい人間がいます」
天城の要請に、神崎は眉を寄せた。
「身長が一七〇センチぐらいあり、それと――」
「そいつが、犯人なのか……? 天城」
「いえ、断定はできません。ですが、これで謎が一つ、解けるかも知れません」
殺害現場で天城が読み取った犯人の“記憶”――、犯人は死亡した本郷氏の横で、何故か動きを止めていた。
すぐに立ち去らなければならない場所で、犯人はなにをしていたのか。
その答えは、“モノ”が教えてくれた。
神埼がさっぱりわからないと困惑した顔を寄越してきたが、天城はふっと笑った。
人は嘘はつくが、モノは嘘はつかない――。
天城は、その言葉をひとり、噛みしめるのであった。
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