第3話 スキャンダルの女王
その女性が遺体で発見されたのは、市内にあるビジネスホテルの一室である。
そこは県警本部から、車で四十分県内にあった。
横浜市は港町であるとともに、観光都市でもある。
明治期に建てられたという県庁舎、煉瓦造りの銀行、中心にはアジア圏のものを網羅した品や飲食店が集まる
車は市内の喧騒を離れ、閑静な地に入った。
県警捜査一課強行犯三係警部補・
ホテルは大通りから外れ、人気の少ないところにあったからだ。
ロビーに入ると、昼間だというのに薄暗く、フロントが見つからない。
「綱島警部補、あそこでは?」
若い刑事が、そういって綱島の視線を導く。
そこはフロントというより、マンションの管理人室か映画館のチケット売り場だ。
「……お泊まりですか?」
フロント係は雑誌に見入っていた。
接客業に携わる人間としては、完全にアウトである。
「いや、そうじゃない。こういう者です」
警察手帳を開くと、フロント係の視線はようやくこちらを向いた。
「こ、これは失礼をっ」
フロント係は慌てて、出てきた。
「神奈川県警捜査一課、綱島です。ここにいるのは、あなたお一人ですか?」
「え、ええ。あ、あの――、なにも疚しいことはしていませんよ?」
雑誌を読んでいたことを咎められると思ったのか、フロントの男はそういった。
そんな男に、綱島は一つの疑問をぶつけた。
「ご心配なく。あなたを疑っていません。ですが、少々不用心なホテルですな。普通は防犯カメラはあるものでは?」
「オーナーの意向でして――」
「ビジネスホテル――ですよね? ここは」
「え……」
男の視線が泳ぐ。
表の看板もビジネスホテルと書かれ、防犯カメラがないこと、妙なフロントがなければ、ただのビジネスホテルである。
フロント係の男を追求すると、客は男女のカップルが増えたという。
しかもどちらかが大抵、顔を見られたくないのか下を向いているため、ホテル側も客の顔は見ないようにしているらしい。
「警部、まさかここって、ラブホ……」
綱島とバディーを組む警部補・岡崎が、そう言いかける。
たまにビジネスホテルを装った、偽装ラブホテルホテルが存在する。
偽装ラブホテルホテルとは、旅館業の許可を受けたホテルのうち、ビジネスホテル・レジャーホテル・リゾートホテルなどと称しているが、風俗営業法に基づく店舗型風俗営業の届け出をせず、営業形態や設備などがラブホテルと同じホテルをいう。
しかしフロント係の男は、否定した。
ここは間違いなくビジネスホテルで、いつしかそんな訳ありカップルが滞在するようになったのだという。
殺害現場は二階の一〇三号室――チェックインしたのは、女性一人だったらしい。
「――ですが驚きました。まさかお客様があの大沢幸恵だなんて――」
現場に案内しながら、フロント係の男はそういった。
遺体を発見したのは彼だった。
被害者はこのホテルの常連で、いつもなら朝七時にはチェックアウトするという。
ホテルは基本十時がチェックアウトで、不審に思った男は鍵を開けて、そこで発見したという。
どうやらそこで初めて、客の顔を見たらしい。
「被害者は、本郷幸恵という女性では?」
綱島の疑問に、岡崎が答えた。
「
岡崎いわく――、本郷幸恵はかつては、女優だったという。
かなりの美人で、週刊誌を男性関係のスキャンダルで賑わしていたらく、ついたあだ名が“スキャンダルの女王”。
「女王……ねぇ」
本郷幸恵は必ず男の連れがいたらしい。
フロント係は顔は確認していなかったが、常連の服装は覚えていた。
ブランド物の花柄ワンピースに、エルメスのバック、つば広の帽子を深く被っていたという。そのスタイルが、毎回同じだったらしい。
「昨夜は、男は?」
「いえ、昨晩はお一人でした。あとからおいでになるとのことで……」
綱島の問いに、フロント係はそう答えた。
だが、その男は来なかったらしい。
遺体の検死をしていたのは、横浜市立大法学部監察医・矢橋である。
「――解剖してみないと詳しくはわからんが、死亡推定時刻は昨夜の八時から九時の間だな。しかしこのホトケさん、旦那が死んだというのに男と密会してたんだって?」
「――らしいですな」
綱島は矢橋の報告を聞き終わると、スマホを操作した。
番号を押し、通話ボタンを押す。
綱島が電話を掛けた相手はすぐに出たが、声を発するまで間が空いた。
数秒後、なんとも迷惑そうな声が返ってきた。
『――なにか、用ですか?』
「用がなければ連絡せんよ。実は
『行きませんよ』
男の即答に、綱島は苦笑した。
「相変わらず、臨場は嫌いらしいな。天城」
神奈川県警捜査一課特殊捜査班・特殊捜査官、天城宿禰――。
県警本部長・猿渡大副直々の採用で、科学捜査研究所から異動してきた男。
その捜査方法は、遺留品または現場にあったものなどから、被害者や犯人の念を読み、解決へと導くという。
『嫌いなのではなく、無駄な衝突を避けているだけです。以前、そちらの事件に手を貸したら、新庄管理官に散々嫌味を言われました』
管理官は各課の管理職として、課長・理事官に次ぐナンバー三の複数のポストである。主として、複数の係の統括役を務める立場であり、重大事件において捜査指揮を行う。
刑事部捜査第一課の場合、捜査第一課管理官は、重大な強行事件が発生すると現場に臨場し、所轄警察署に設置された捜査本部で陣頭指揮を執る。管理官ひとりで三~四の係を統括するため、同時に数件の捜査本部を指揮することがある。
新庄管理官はその一人で、神経質な性格をしていた。
本部長直々の採用者とはいえ、科研からいきなり捜査官となった天城が気に入らないらしい。
「あの人は、現実主義だからな。だがな天城、こっちの
綱島の誘いに、電話の向こうから溜め息が聞こえてくる。
『――わかりましたよ……』
渋々といった返事だったが、綱島もまた天城の能力を頼りとしている一人だった。
◆◆◆
本郷幸恵――、旧姓・大沢幸恵。
彼女が芸能界を引退し、美術評論家・本郷孝宏と結婚したのは三年前だという。
これまで派手に男性関係を繰り返してきた彼女が、なにゆえ彼を夫にしたのか。当時はあらゆる憶測が流れたらしい。
本郷孝宏は財はあれど、彼女が付き合ってきた男たちとは全くタイプは異なり、年も十も上だった。
「……亡くなった人間をどうかいうのもなんですが」
県警取調室――、事情を聞くために呼んだ本郷邸に通う家政婦・
「構いませんよ。ご存知のことをお聞かせください」
彼女の聴取を担当していたのは特殊捜査班の矢田喜一である。
「亡くなられた旦那さまには、二年前まで翔子さまという奥様がおられました。体調を崩されてご自宅で療養されていたのですけど、そのわたし……見てしまったのでございます」
「なにを?」
「旦那さまが車の中でその……女性と……」
吉沢房江は、そう言って下を向く。
なにをしていたのか、だいたい想像はつくが、それはこの際問題ではない。
「もしかしてそれが?」
「幸恵奥様です……」
「前の夫人の病名は?」
「お医者さまの話では、心の臓が弱っていると……」
死因は、心不全だったらしい。
夫婦揃って、どっちもどっちであった。
「わたくし――、あの方が嫌いでございました」
彼女がいう、あの方とは幸恵だろう。
本郷幸恵は最初の半年はそうでもなかったが、夜に外出する事が多く、一晩帰らなかったこともたびたびあったという。
「つまり幸恵夫人には、結婚してからも男が?」
「はい。一度、邸の前に男性の車が止まっているのを見かけました」
「男の顔は?」
「それが男だというのはわかったのですが、離れておりましたので……」
「本郷氏は、そのことは?」
「黙認されておいででした。ただ……」
「ただ……?」
「これはそのこととは関係ないのですけれど、旦那さまはお亡くなりになる少し前から、とても怖い顔で考えていることがございました」
吉沢房江が特に変わったことはなかったとはと聞かれて思い出したのは、それくらいらしい。
しかし本郷幸恵の件は一課三係の担当であり、特殊捜査班としては本郷孝宏について家政婦から聴取したに過ぎない。
「本郷孝宏はなにを考えていたんだろうな?」
取調室と壁一枚挟んだ場所で、特殊捜査班長・神崎健が隣にいた天城に問う。
そこからは取調室が丸見えだった。
実は壁は、マジックミラーになっているのである。
「さぁ」
天城宿禰は、神埼の問いにそう答えた。
「そっけないなぁ……」
苦笑する神埼だが、天城の態度は変わらない。
「俺の担当は、人間ではないので」
「その考え、変える気は?」
「ありません」
天城はそういって、その場から離れた。
そのあとで鑑識課へ向かうと、捜査一課三係警部補・綱島左門がいた。
「よぉ、天城」
「よぉ、じゃありませんよ」
片手を上げて挨拶してくる綱島に、天城は嘆息した。
「まぁ、そういうな。お前の所の班長にも許可はとってある」
ということは、協力してやれという神埼の無言の指示だ。
天城は、再度嘆息した。
「……聞きたいこととは?」
「被害者の遺留品だ」
視線をデスクの上に導かれる。
そこには、女性物のバック、赤いカバーのスケジュール帳、ハンカチなどがビニール袋に入れられて並べられていた。
「本郷孝宏夫人の……?」
天城がそう聞くと、綱島が深く頷いた。
天城は振れるか触れないの高さに手を翳し、瞑目した。
神経を集中させ、品々に宿る人の念を読む。
彼の能力は念を読む他に、まるでそこにいたかのように、映像となって脳内に再生されることだ。
ただその映像は白黒で、人物の顔は不鮮明であった。
もし顔がわかれば、犯人の顔をモンタージュに起こせたのだが。
やがて、男女の楽しそうな会話が、天城の中で再生され始めた。
――あの
本郷幸恵と見られる女が、そういった。
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