第2話 エミール・ガレ
神奈川県警科学捜査研究所――、または科研とも呼ばれるここで、天城宿禰は火災・交通事故・発砲事件での再現実験や調査、車両・構造物・機械・銃器・弾丸・音声・音響などや電子機器などの検査鑑定を担当していた。
残留思念を読むという能力が開花したのは、ある日突然だった。
だが当時は、理解されることはなかった。
非現実的過ぎたのである。
当然である。それで犯人がわかるなら、科研も鑑識もいらない。
ただ一人、彼の能力に注目していた男がいる。
当時は捜査一課長で、現在は神奈川県警本部長の猿渡大副である。
天城の父は彼の部下だった。つまり刑事だったわけだが、犯人を追跡中に不慮の死を遂げる。天城が、小学生の頃である。
警察官ではなく、科学捜査研究員となった天城が猿渡と再会したのは、まさに偶然である。
天城は現在も自分は警察官ではないという。
特殊捜査官という地位にあるがこの男――、引きこもり癖があった。
「臨場要請をごねたんですって?」
かつての上司――、科学捜査研究所所長・
確かに天城は、今回の殺人事件に現場に駆り出されることになり、車の中で文句は言ったが、あの場にいたのは神埼と二人だけだ。
天城はプライベートでも、ほとんど出歩かない。
昔から夜型体質で、彼が行く所といえば、静かで一人になれる所だ。
例えば図書館や、客が少なく落ち着いた感じのBARである。
「誰です? そんなくだらない話をしたのは――」
天城は半眼で、有森を見据えた。
「
有森はそう言って、菓子箱を見せてくる。
かわいいひよこがデザインされたものだったが、天城は辛党で、食べるか? という誘いを辞退した。
しかし、自分の所の上司が科研で茶に招かれていたとは。
特殊捜査班班長長・神埼健――、菓子に釣られて天城の醜態を漏らした現在の上司に、天城は嘆息した。
「あの人がどうして、“島流し”にあったのか
「それだけじゃないんじゃない? 警察組織って、いろいろあるみたいだし」
警察組織に限ったことではないが、人間社会において、役職・階級など上下の序列が重視される。だがそこに歪みが生まれると起こるのが、不祥事である。
「所長は、刑事ドラマの見過ぎです」
天城は前髪をかきあげて、三度嘆息した。
「でも特殊捜査係が見直されるいい機会じゃないの。今回の事件を特殊捜査班だけで解決すれば、もう窓際部署なんて呼ばれなくなるわよ」
「それより……、ガラス片の鑑定結果は?」
天城が古巣の科研を訪れたのは、今回の殺人現場で採取された大量のガラス片の分析結果を聞くためである。
「――成分は
二種類のガラスが混じっていたという結果に、天城は口角を上げた。
「二種類のガラスが、割れたということですか……」
現場でガラス片をみたとき、複数の念が天城に伝わった。
一人は被疑者だろう。そしてもうひとりは、被害者の本郷孝宏。
だがそのほかにも、誰のものとも知れぬ念があった。
被害者が殺害される前――、あの場所には二つのガラス製品があったのである。
「あんたの無茶振りのおかげて、こっちはろくに寝てないんだから」
有森の目が据わった。
「俺は、自分の勘を100%、信じていませんよ」
天城はそう言った。
彼は自分の勘や、能力で動く男ではない。
警察官でないといいながらも、単独行動が厳禁なのは熟知している。
ゆえに、現在も科研に出入りし、分析結果と自分が得た情報と照らし合わせている。
「まさか、アレを復元してくれ、なぁんて言わないでしょうね?」
有森に睨まれて、さすがの天城も視線を逸らした。
復元が可能なら、元の形がはっきりするのだが、復元となれば相当な時間と労力が必要となるだろう。天城にそこまで頼める権限はない。
「いや……、破片の拡大画像をメールで送ってもらえると助かります」
本来ならそれもアウトな行為だが、天城は県警本部長からそれを許されていた。
といっても、それを知っているのは県警内では本部長と科研の有森、鑑識課長の古澤渉、そして特殊捜査班の面々だけだが。
◆
神奈川県警捜査一課・特殊捜査班――、美術評論家・本郷孝宏殺害事件は、二日目に入っても被疑者らしき名前が挙がらない。
というのは、疑えばいくらでも容疑者が出るからだ。
本郷孝宏を、憎んでいるだろう人間は多かった。
彼に酷評されて、美術界を追われたアーティストや古美術商、罵倒されたという週刊誌の記者、それも一人や二人ではなかった。
「問題は、こいつだ」
事件のあらましを書き込んだホワイトボードを渋面で見ていた特殊捜査班長・神崎健は、マグネットで挟んであった一枚のメモを剥がした。
そこには“乙女の”と書かれ、最初はダイイングメッセージかと思われたが。
「犯人は、女でしょうか?」
神埼の前にいた警部補・明石倫也が眉を寄せた。
「凶器は、一メートル近くもあるガラス製品だぞ? それを思いっきり振り上げて、一撃でなぁんて、女にできるか?」
ダイイングメッセージの件も、女性犯行説も、特殊捜査官である天城が否定している。
彼の能力の高さは、神崎も認めている。
「凶器は、こいつですよ」
現場に臨場したとき、半ば強引に引っ張ってきた天城は、ガラス片を見下ろしてそう断言した。大量のガラス片から、大きさは一メートル近くと弾き出したのも彼である。
「そういえば――、
いつもなら自席にいるはずの天城が、このときは席を外していた。
「美術鑑賞、だそうですよ」
築地が答える。
あの男が美術鑑賞とは珍しい――、神埼は感心した。
「いいんですか? 係長」
規則や秩序には細かい矢田喜一が、眉を寄せた。
「あの男は、意味もなく動かんよ」
これまで難事件を解決に導いた天城の能力を、神崎は高く評価している。
それゆえに言える言葉だった。
◆◆◆
横浜市西区みなとみらい――、ここに県内で最も大きな美術館がある。
天城宿禰は、この美術館を訪れていた。
展示品は彫刻や絵画など様々だが、彼は壁に掲げられている名画に目もくれず、ある展示品を探していた。平日の午後とあって、人は少ない。
そして彼はようやく、目当てのものをみつけ、立ち止まった。
透明なガラス本体に、金、黄、黄緑、赤、青といった色を使い、草花が描かれた花瓶である。
実は本郷孝宏邸に飛散していた一部のガラス片が、これと酷似していた。
臨場した時は、それが美術品だとはわからなかった。
なにしろ、あの部屋には他の美術品はあれど、ガラス製の美術品は殺害される当日までなかったのだから。
それは、通いの家政婦が証言している。
しかしその時点では、破片の元がなんなのか、天城も知らなかった。
科研で分析されるまでは。
美術品の一部かも知れない――、元上司にして科研所長・有森司はそう言った。
彼女は離婚歴があり、元夫が西洋アンティークに詳しかったらしい。
暇さえあるとうんちくを聞かされるらしく、彼女は少しは詳しくなったという。
天城は確証がないと動かない。
頭の中では答えは出ていても、それを裏付けてからでないと、こうして自ら行動しない男だった。
「素晴らしいでしょう?」
天城の背後で、そんな声がした。
「?」
振り向くと、一人の青年がにっこりと笑っていた。
「どうしたら、彼のような作品が作れるのか……」
青年はそういって、展示品に近づいた。
その表情は、どこか寂しげであった。
「生憎、こういうものに疎いものでね……」
嘘ではない。
天城は、芸術は全くの無知である。
「エミール・ガレという作家をご存知ですか? アール・ヌーボースタイルでも有名な芸術家です。あ、アールヌーヴォーとは、十九世紀の終わり頃に、ヨーロッパで生まれた芸術運動のことです」
「随分と、詳しいんだな?」
「実家がガラス工房でしてね。
青年はそういって、パンフレットを渡してきた。
青年いわく、ガレ本人が直接製作した一期のものは高値で取り引きされているという。
アール・ヌーヴォーという名前と贋作と聞いて、天城は思い出したことがある。
半月前に一課の捜査本部が担当した、元町にある画廊で起きた窃盗事件である。
犯人は現在も捕まっておらず、盗まれた絵画のほとんどが回収できていない。
ただ画廊主が自身で買い戻した中に、贋作が紛れ込んでいた。
画廊に会った時は間違いなく本物だったものが、である。
まさかここで、その事件を思い出すとは思わなかった天城である。
「君は造らないのか?」
そう天城が聞くと、青年から笑顔が消えた。
「……ぼくは……」
青年は俯き、唇を噛んでいる。
「なにか、悪いことを聞いたか……?」
「いえ……」
青年は「では」といって軽く会釈して、去っていく。
お陰で、新たな謎が生まれた。
もしあのガラス片が価値のある美術品だったとしたら、なぜ二つのガラス製品は殺害現場にあったのか。
一方は凶器として使われたが、凶器として持ち込むにしては無理がある。
監察医の矢橋いわく、被害者の本郷に防御創はなかったらしい。
天城は本郷邸の玄関に入ったときから、犯人と思われる強い念を感じていた。
被疑者は本郷に対して、かなり強い恨みを抱いている。
しかしそれは、殺意までには至っていない。
殺害現場である書斎に入り、ガラス片を見た瞬間、その念ははっきりと殺意に変わった。
さらに“乙女の”と書かれたメモである。
彼は県警に帰ると、パソコンを操作した。
エミール・ガレの作品に“乙女の”と名がつく作品があるか検索したが、ヒットはしなかった。
「その顔じゃあ、お前も今回の
時刻は午後四時――、特殊捜査班班長・神崎健が天城のデスクに、紙コップホルダーに入った珈琲入りの容器を置く。
「参考人は得られたんですか?」
「被害者と接点がある人間はいるにいたが、皆アリバイが証明されてなぁ。食うか? 貰いもんだが」
置かれたのは、ひよこの絵がデザインされた包み紙に包まれた焼き菓子である。
天城はこれと同じものを、科研でみたばかりだ。
天城はパソコン画面から視線を話すと、半眼で神埼を見た。
「有森所長が、今度はアップルパイを用意しておく――、だそうです」
「え…………」
神埼の表情が、綺麗にフリーズした。
一応、悪いことだとは理解しているようだ。
休憩時間ならまだしも、ティータイムはまずかろう。しかも、科研で。
神埼の沈黙が続いた。
監察官に伝われば、辞表提出ものだろう。
「言いませんよ。上司が科研で、お茶してますとは」
天城は注意の意味で、皮肉を言った。
「は、はは……」
ぎこちなく笑う神埼の前で、天城は珈琲に口をつけた。
室内には神埼とふたりっきりで、矢田と明石、築地の三人は、聞き込みのために出払っていた。
静かな環境を好む天城にとっては、考えを整理するのにいい時間だったが。
「班長!」
いつもは冷静な矢田喜一が、強張った顔で駆け込んできた。
「どうした? そんなに血相を変えて――」
「参考人と呼ぶ予定の被害者の妻、
この一報に、和みかけた空気は消し飛んだのであった。
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