フェアゲス・マイン・ニヒト

松たけ子

フェアゲス・マイン・ニヒト

 一瞬の出来事だった。

 何が起こったのかを理解する暇もなく、少女は大空から海へと墜ちた。

 大小の無数の白い破片が少女と共に海へ吸い込まれるように墜ちていく。それは時間にすれば数秒だっただろう。だが少女の目にはスローモーションで流れていた。 

 目の前に小さな破片が迫ってくる。少女は腕を伸ばそうとして、自分の右腕が無くなっていることに気付いた。

 少女は驚きもせず、今度は左腕を伸ばした。まだかろうじて原型は留めていた。だが、着ていた服は今も燃えており、露出した肌は酷い火傷に覆われている。

 満身創痍でありながら、少女は痛みも熱も感じなかった。おそらく麻痺してしまったのだろう。

 おかげで少女は苦痛に苛まれることなく、穏やかな表情を浮かべることができた。



 空との別離は瞬きの間に。



 次の瞬間、少女は海の中へ。

 水中の閉塞感は少女から体の自由と酸素を奪い、見えない重力の手で暗い海底へと誘う。

 太陽の光すら届かないそこはまさに奈落の底で、少女は不意にギリシャ神話のタナトスを思い出した。

 既に肺の中は海水で満ちている。不思議と死への恐怖や苦しさはなく、あるのは沈み逝く心地良さだけ。

 覆すことができない死を前にすると人は苦痛から解放され、穏やかに終焉を受け入れることができるらしい。

 それは人が進化の過程で得た死に対する恐怖からの逃避か。

 それとも死に抗うことができない人に神が与えた唯一の慈悲だったのか。

 どちらでもいい、と少女は思った。

 苦しまずに死ねるのならどちらでも構わない、と。

 どのくらい沈んだのだろう。もう水面は遙か彼方だ。目の前はどんどん暗くなる。

 今ここにある意識が夢か現なのかも少女には分からない。

 ふと、少女の目の前を大きな白いクジラが横切った。

 幻覚だろうか、それとも本物か。

 暗い海の中で白という色はかなり目立つ。光の届かぬ深海で仄に光る青白さは勿忘草を連想させた。

 少女の生家の庭に植えられていた花。大きな花壇一面に群生していたそれは少女の妹が好きな花の一つだった。

 少女は無意識に手を伸ばしていた。

 だが、その手がクジラに触れることはなく、少女の体はまた一層深く墜ちていく。

 墜ちて逝く。墜ちて逝く。墜ちて逝く。

 死者がタナトスによって冥府へ連れて行かれるように。

 暗く深い地の底へ、墜ちて逝く。

 死への恐怖はない。だが、後悔はあった。

 愛する小さな妹との約束。

 楽しみにしていると笑った顔が目の前に浮かぶ。

 ──ああ、約束したのに。

 ごめんね、と。

 少女は音を出せなくなった口を言葉の形に動かした。

 もう水泡すら零れなかった。

 寂しがり屋な妹はきっと小さな体で広い屋敷の中を必死に捜し回るだろう。

 何処にもいない姉の姿を求めて。

 その姿を想像すると少女の胸は張り裂けそうになった。

 だけど。それでも。

 少女は死に抗うことができなかった。

 少女にとって死は救済だった。

 たとえ愛する妹を悲しませると分かっていても。

 小さな背中を独りにしてしまうと分かっていても。

 少女は自分が救われることを選んだ。

 ──なんて、酷い姉。

 愛していると言いながら、結局自分のことしか考えていない。

 これから少女と同じか、それ以上の苦しみを味わうかもしれないのに。

 あの家に少女の愛する者を守ってくれる人間などいない。

 ──ごめんなさい、ごめんなさい。

 ただひたすら、謝ることしかできなかった。

 ──許して欲しいとは思わない。

 もしも、願っていいのなら。

 ──どうか。

 目を閉じ、少女は祈るように最期の願いを紡いだ。



『どうか、       』




 瞼の裏を焼くような朝日が私を眠りから起こす。

 レースカーテンの向こう側で燦々と輝く太陽を忌々しく思いながら、緩慢な動きで体を起こし、ベッドから這いずり出た。

 季節は夏。朝から湿気を含んだ蒸し暑い気温に加えて照りつけるような陽光を浴びるのは拷問に等しい。あるいは募りに募った恨みを晴らさんとする復讐か。たかが気候と太陽如きに恨まれる筋合いなどないが、どちらにせよ私にとって鬱陶しいことには変わりない。

 クーラーをつけて、ドレッサーの前に座る。いつもの顔が鏡の中に現れた。

 不満と憤りと諦観で作られた表情。昏く濁った目はどんな幸福や愛情をも否定している。部屋の中は陽光が差し込んできて明るいのに、鏡の中の女はどこまでも陰鬱で、見ているだけで吐き気がするほどだ。

 これが一世を風靡する女優、雪沢美冠みかんの素顔だと言っても誰も信じないだろうなと、自分の酷い顔面を見つめながら自嘲した。

 あるときは快活なスポーツ少女に。

 あるときは殺人に快楽を見出すサイコキラーに。

 あるときは余命幾許もない病弱な少年に。

 男女を問わずあらゆる役を期待と理想を遙かに超えた演技で魅せる天賦の才。若干十五歳にして栄誉ある賞を数々と受賞し、将来を期待された女優。

 それが世間の目に映る私──雪沢美冠という人間だ。

 こんな、綺麗なものを溝に投げ捨て、輝かしいものを粉々に砕き、優しいものを泥のついた足で踏みにじるような人間の屑の顔をしているとは、とても思わないだろう。

 ──私をもて囃している奴らにこの顔を見せたら、きっと面白いものが見られるだろうなあ。

 聞くに堪えない世辞を好き勝手吐き散らす忌々しい口が生み出す雑言とか、期待や羨望の眼差しが昏い失望と落胆に染まっていく姿とか。

 想像したら、思わず笑ってしまった。こんなくだらない妄想をして憂さを晴らそうとする己の醜悪さにも。

 自嘲的な笑みが深くなり、一層陰鬱さが増して自分でも見るに堪えない顔面だ。

 いっそこのまま家族の前に出てやろうかと思ったが、つまらない結果が見えているのでやめた。どうせ「雪沢家の人間として相応しい姿を」などと馬鹿馬鹿しいことを説教くさく言ってくるだけなのだ。想像しただけでも反吐が出そう。説教や正論が一番嫌いなんだ、私は。

 だいたい、そんなことをしたって清々しくなるのは一時だけで心の根っこにある黒い感情が消えるわけでもないのは私自身が一番よく分かっている。

 この家にいる限り、雪沢家の人間でいる限り、私は不満と憤りを抱えたまま生きていくしかない。

 それに。

 ──それに、あの子にだけは見せたくない。

 あの子──私の可愛い妹にだけは。

 こんな私が唯一愛せるたった一つの宝物だから。

 あの子にだけはこんなにも薄汚れた私を見せたくない。

 いつだってあの子の前では美しく正しい人間でいなければ。

 あの子の瞳を、魂を、心を傷付けないためにも。

 そのためなら周りが望む『雪沢美冠』を演じてやろう。

 ささやかな破滅願望を消すように大きな溜息を一つ吐いて、鏡に映った自分の顔から目を背けるようにそっと目を閉じた。

 深呼吸を何度か繰り返し、再び目を開ける。

 鏡にはさっきの腐り果てたような女の顔はなく、誰もが羨望と嫉妬の眼差しを向ける天才女優が映っていた。

「さあ、お芝居の時間よ、美冠」

 小さくそう呟いて、私は身支度を調え始めた。



 私の生家、雪沢家は元々芸事に秀でた家系らしい。

 蔵に仕舞われてある家系図によれば、先祖は安土桃山時代まで遡ることができ、いつの時代でも優れた芸人を輩出していた。当初は琴や琵琶などの雅楽が主だったが、時代が下るにつれ文学、絵画、芝居などの幅広い芸術分野にも才能を発揮する者が現れるようになった。特に明治には西洋から輸入された音楽や演劇との相性が良かったのか、全盛期と言えるほどの功績を多く残している。

 そして現在でも、あらゆる芸術に秀でた才能を持つ一族として周囲から羨望と嫉妬の眼差しを向けられている。

 こういった古い家柄というのは長く続けば続くほど中身が腐った林檎のようになっていくものだ。

 才を持たぬ者は人に非ず──常に才能と結果を求め続けた果てに生まれた思想は人間を心のない化物にする。

 才能なんて偶然か神の気まぐれで与えられる副産物のようなものであって、必ず受け継がれるものじゃない。出来の良し悪しや得手不得手などには当然個人差が現れる。それなのに、家に相応しい才能を持っていないというだけで「落伍者」という烙印を押されて一生を過ごさなければいけない。身内からは例え血が繋がっていても家族として扱われず、外ではいわれのない憐憫と嘲笑を向けられる。

 完璧であることは当然。求められるのは完璧よりもさらに上、他の追随を許さない圧倒的な実力だ。

 その重圧に耐えきれず、一体何人の身内が自殺や失踪をしたことか。

 血縁関係など法律上での話でしかない。家族などという生温いものはここには存在しない。この家にあるのは血を絶やさぬようにせねばという執念と才能に対する隷属だけだ。

 この家で大事にされるのは『才能』だけ。

 雪沢家に相応しい才能さえあれば、どんな屑でも人間扱いしてもらえる。

 ここはそういう家なのだ。

 逃げることはおろか、死ぬことさえ許されない。だけど自分のために生きることも許されない。

 家のために生き、家のために死ぬ。

 まさに生き地獄そのもの。

 何度神を呪い、親を呪い、血を吐くような思いで叫んだことか。

 いっそ生まれてこなければ良かった、と。



 くだらない破滅願望を抱えながら身支度を調えた後、使用人が「御当主さまがお呼びです」と呼びに来た。こんな朝早くからあの男の顔など見たくないが、呼ばれているのなら行かなければいけない。

 この家における絶対君主。それが雪沢家当主にして私の父だ。逆らうことは許されない。

 重たい足を引きずるようにして書斎に向かった。

 躾けられた通り、扉を三回ノックして返事が聞こえてから扉を開けた。

「失礼致します」

 部屋に入り、静かに扉を閉め、一礼する。

 たかが部屋に入って話をするだけで、どうしてこんなに形式張ったことをしなければならないのか。

 腹の底に溜まっていく鬱憤を吐き出さないように我慢しながら、顔を上げる。

「おはようございます、お父様」

 白髪交じりの黒髪を丁寧になでつけた長身の男が振り返った。顔に刻まれた皺が男の人生の年輪を感じさせる。

 父は私の挨拶に返事もせず、一瞬だけ視線を交わすと再び背を向け無愛想に言った。

「今日から一ヶ月イタリアだが、準備は済ませてあるな?」

 私の大嫌いな癇に触る声に思わず顔を顰めそうになったが、なんとか堪えて従順な人形のような笑顔を作り込む。

「はい、昨日のうちに全て整えております」

「ならばよい。初めてではないにしろ、お前も海外での経験はまだ数える程度だ。これを機に暫くは向こうでの活動に重点を置くようにしなさい」

 言われなくてもそうするつもりだった。暫くの間とは言え、この家から離れられるのだ。喜んで行くとも。なんなら、向こうに拠点を移してもいいぐらいだが、それは許されないだろう。

 大事な『才能』を育てるために一時だけ手放すのは許せても、自分の手元から離れていくのは許せない男だ。ある程度の経験を積んだと判断されたら強制的に連れ戻されるだろう。

 ──ま、それでも自由であることに変わりはないし、暫くは勝手気ままにさせてもらおう。

 腹の底でそんなことを考えながら、「はい、お父様」と淑やかにお辞儀をする。

「朝食を済ませたら直ぐに出発しなさい。ひいらぎにも、ちゃんと挨拶していくんだぞ」

「はい。では、失礼致します」

 入ってきた時と同じように一礼してから扉を開け、退室する。

 笑顔を崩し、扉を睨みつけようとして、廊下の向こう側から誰かがやってくるのが見えたので慌てて元の顔に戻した。

「姉さん!」

 廊下の窓から差し込む日差しを受けて艶やかに煌めく黒髪を揺らしながら、妹の柊が小走りで駆け寄ってきた。

「こら、柊。大きな声で名前を呼んではダメでしょう? それに廊下を走ってはいけないわ」

 表情を引き締め、姉としてきちんと叱る……ように見せているだけで本当はそんなこと思ってないし、むしろどうでもいい。

 柊の方もあまり気にしていないのか「はーい、ごめんなさい」と反省する気のない返事をしている。

 柊は私よりも五歳下でまだまだ子ども盛りのお転婆だ。

 堅苦しい風習や細かい礼儀作法などができなくて当然なのに、周りの大人たちは「雪沢家のご息女として相応しい立ち居振る舞いを」などと言って自分たちと同じように振る舞うことを強要している。

 私も同じことをされてきたが、客観的に見るとそれがどんなにくだらないことであるのかがよく分かるし、まだ十歳の子どもにとってどれほどの苦痛であるかも身を以て知っていた。

 だから、せめて私の前でだけは子どもらしくいてほしくて、礼儀作法のことではあまり叱らないようにしている。私自身、他人を叱れるほどきちんとしているわけでもないし。

 柊も私が口うるさくないと分かっているからか、周りに誰もいない時は年相応の表情や反応を見せてくれる。

 月のような笑顔で姉さんと呼び慕ってくれる私の可愛い妹。

 私が唯一、家族と呼べる存在。

 薄汚いこの世界でたった一つの、尊く愛おしい宝物。

 でも、と。

 ふとした時に思う。

 私の本当の顔を見ても変わらず慕ってくれるだろうか、と。

 喜びというものを知らず、綺麗なものも温かなものも拒絶して生きている私を。

 自分自身にでさえ絶望し、全てを壊してしまいたいという願望を抱くこの心を。

 今ここにいる私とは真逆の、美しくもなければ輝いてもいない姿を。

 知ってもなおこの子は、私を受け入れてくれるのだろうか。

 何度考えたって私は柊ではないのだから答えなんて分かるわけないのに、飽きもせずにまた考えてしまう。

 それだけ怖いのだ。柊に拒絶されることが。

 父に叱られることも、母に失望されることも、周りの人間に否定されることも怖くない。

 だけど柊に失望されるのは何よりも怖い。否定されるのだって嫌だ。

 私を見上げるコバルトブルーの美しい瞳。この瞳がいつか暗く翳ってしまったらと思うと気が狂いそうだ。

 ──なんて、我儘。

 酷い姉だと自覚している。それでも。

 ──それでも、私にはこの子しかいないから。

 柊が笑顔を向けてくれるなら、私は何枚でも仮面をつける。本当の自分を殺して『柊が望む姉』を演じてみせる。

 私はそっと、柊の頭を撫でながら微笑んだ。

「元気な柊は大好きだけど、他の人の前でしてはダメよ?」

「はーい。気をつけまーす」

「もう、この子ったら」

 二人でころころと笑い合っていると、柊がずいっと何かを差し出した。

 バスケットだった。

 意図が分からず首を傾げると、柊が笑顔で窓の外を指さした。

「今日は外で食べましょう。さっきお母様にお許しを頂いたの!」

 なるほど。このバスケットの中身は朝食だったのか。

 朝とはいえ真夏の晴れ渡った空の下で朝食など、いくら日傘をさしていても暑くて食べる気など失せるが、嬉しそうにバスケットを抱える柊が可愛かったので一も二もなく頷いた。

「いいわね、お天気も良いし、たまには気分転換に」

「やった! ありがとう、姉さん! もう準備は済ませてあるの。行きましょう!」

 そう言って柊は私の手を優しく掴んで、廊下を小走りに駆け出した。

 誰かに見つかったら怒られるだろうなと思ったけど、その時は私が言いくるめればいい。柊が楽しそうにしているのが私にとって一番大切なことなのだから。

 二人で庭に出て、花壇の花を愛でながら東屋へ向かった。無駄に広い庭は本邸を中心に東西南北の四つの区画に分かれており、東には春の花、南には夏の花、西には秋の花、北には冬の花が植えられている。

 東屋があるのは南の区画で、大きな池の上に建てられたそこは夏になると白い睡蓮の花に囲まれるのだが、生憎と生育している品種が昼咲きのもののため、今の時間帯では咲いている姿を見ることはできない。

「せめて蓮が咲いてくれていたらなあ」

 少し残念そうに言いながら、柊がバスケットの中身をテーブルの上に広げていく。

「そうね。でも、もう少ししたら咲くんじゃないかって、庭師のおじさまが仰っていたわ」

「ほんと? じゃあ、咲いたら姉さんに写真を送ってあげる! メールがいい? それともポストカード?」

「柊がくれるものなら何でも嬉しいけど……でも、そうねえ。折角だからポストカードがいいわ。手紙も書いてね。柊の字、とても綺麗で好きなの」

「私も姉さんの字、とても好きよ。優しくてたおやかで、見ているだけで幸せな気持ちになるの。そうだわ、お互いのものを交換するのはどう? 私は庭の花を、姉さんはイタリアの景色を」

「ふふっ、そう言ってくれるのは柊だけよ。それならイタリアだけじゃなくて私が見せたいと思った景色全部、柊に見せてあげる。海外にはまだ行ったことがないでしょう? 少なくとも三ヶ月は向こうにいるから、その間他の国にも行って色んな景色を撮ってきてあげるわ。柊、ヨーロッパの街とか風景好きでしょう」

 今回は旅行ではなく仕事で行くわけだが、後学の為と言えば色々と連れ出してもらえるだろう。

 絵本のような街並みや童話の中に出てくるようなお城なんかを写真に撮って送ってあげれば喜ぶに違いない。

 柊は夏の朝日みたいな眩しい笑顔を浮かべた。

「うん! 楽しみにしてるからね、姉さん。約束よ?」

「ええ、約束ね。私も楽しみにしているわ、柊」

 そう言って、二人で小指を繋げた。

 これぐらい、指切りするほどの約束じゃないかもしれない。

 それでも、柊とする小さな約束が私は大好きだった。

 大好きだから、守ってあげたい。

 どんなに小さな約束でも。

 だから今日の約束だって守るつもりだった。

 守れると、思っていた。

 思って、いたんだ。




 何が起こったのだろう。

 飛行機が離陸して。

 慣れた浮遊感に身を任せていた。

 その直後。

 機体が大きく揺れた。

 尋常じゃない揺れ方だった。

 搭乗員がアナウンスで何かを言っていた気がする。

 でも周りがうるさくて聞こえなかった。

 私もよく分からなくなって、ふと、外を見て。

 黒い煙が薄くたなびいているのが見えて。

 そしたら、外から大きな音が聞こえて。

 それから急に何も聞こえなくなって。

 目の前が。


 目の前、が。



 めの、前、が。




『楽しみにしてるからね、姉さん。約束よ?』




 ああ、約束したのに。

 私が見せたいと思った景色を届けてあげるって。

 まだ見たことのない世界を見せてあげたかった。

 いつか自分の目で見るときがくるかもしれない。

 それでも私があの子にあげたかった。

 世界だけじゃない。

 甘えることを許してくれる存在を。

 子どもらしく笑うことを許してくれる時間を。

 世界はもっと広いんだと教えてくれる日々を。

 自分を傷付ける場所から逃げてもいいという許しを。

 本当はもっと美しくて、楽しい世界を。

 まだ何も知らないあの子に。

 他の人じゃなくて、私が。

 柊のことを世界で一番愛している私が、与えてあげたかった。

 あんな家に生まれたばっかりに。

 子どもらしいことを何一つさせてもらえず。

 学校と仕事以外で外に出ることも許されず。

 私の前でしか本当に笑えなくなってしまった。

 まだ小さくて、狭い鳥籠のような世界しか知らない。

 だから。

 私が得られなかったものを。

 私が欲しかったものを。

 たくさん、たくさんあげたかった。

 大人になるまで。ううん、大人になっても。

 ずっと傍に居て、色んなものを与えてあげたかった。

 柊。私の可愛い妹。

 柊。私のたった一人の家族。

 柊。私が世界で一番愛している人。

 もっと貴女の傍にいてあげたかった。

 もっと貴女を笑顔にしてあげたかった。

 でも、ごめんね。

 私はもう帰れない。

 貴女の元へは戻れない。

 約束を守ってあげられない。

 見せてあげたかった世界を、届けられない。

 私いま、すごく幸せなの。

 とても嬉しいの。

 だって、やっと。やっと。

 

 やっとあの地獄から救われる。


 もう誰かの望む私を演じなくていい。

 もう目が覚める度に絶望しなくていい。

 もう才能という影に怯えることもない。

 誰かに期待されることも、嘲笑われることもない。

 何度も願った。

 何度も夢見た。

 何度も祈った。

 何度も呪った。

『死んでもいいから、この地獄から救って』と。

 それが今、この瞬間にようやく叶えられようとしている。

 柊、貴女のことを心から愛している。

 貴女が笑顔でいられるならなんでもするわ。

 貴女を幸せにするためなら何を犠牲にしてもいい。

 でも、この願いだけは譲れない。

 貴女を悲しませると、貴女から笑顔を奪うと分かっていても。

 これは私が生まれたときからの願いだから。

 ごめんなさい。ごめんなさい。

 小さな貴女を独りにしてしまう。

 約束も守ってあげられない。

 もう傍にいてあげられない。

 ごめんなさい。

 こんな弱い姉で。

 こんな酷い姉で。

 許して欲しいとは思わない。

 嫌いになってくれてもいい。

 だけど、もし。

 もしも、願うことだけでも許してくれるのなら。

 どうか、お願い。


 私を忘れないで。


 それだけでいい。

 いつもじゃなくていい。

 一瞬でも構わない。

 十年に一度でもいい。

 ほんの少しでもいいから、私を想い出して。

 酷い姉だったと笑い飛ばしてくれていい。

 弱い女だったと嘲笑ってくれてもいい。

 寂しい思いをしたと悲しませてしまうかもしれない。

 それでも、どうか。

 最期にただ一つだけ、願わせて。




『どうか、       』





「……姉さん?」

 ふと、美冠に呼ばれた気がして、柊は振り返った。

 そこには誰もおらず、無人の廊下が続いているだけだった。

「気のせい、か……」

 小さく呟くと、柊はまた自室に向かって歩き出した。

 今日から仕事で海外に行くという美冠を見送ったのはもう数時間前のことだ。

 既に何度も海外で仕事をこなしている美冠は今回も素晴らしい活躍をするだろう。

 ──すごいなあ、姉さん。でも……。

 暫く会えなくなるからと、出発前の美冠と一緒に庭で朝食を食べたことを思い出す。

 二人で柊が作ったサンドイッチを食べ、美冠が淹れた紅茶を飲みながら、他愛ない話をしていた。

 夏の朝日を受けて煌めく池、朝露に濡れる花壇の花々。

 甘やかな笑顔を浮かべる、最愛の姉。

 きっと世界で一番穏やかで、優しい時間だった。

 少なくとも、柊にとっては。

 だから、今こうして一人で廊下を歩いていることがなんだか無性に。

 ──寂しい、な。

 美冠と離ればなれになるのはこれが初めてではないが、如何せん今回は期間が長い。暫くと言っていたが、明確にいつまでなのか美冠でさえ分からないと言っていた。

「……」

 少なくとも三ヶ月以上は向こうにいる予定だという。

 その後は父の意向次第ということらしい。

「……」

 常に親以外の大人に囲まれて育ってきた柊は周りの子どもたちよりも幾分か大人びているものの、やはりまだ十歳の子どもだ。

 仕事だと分かっていても大好きな姉がいなくなるのは寂しい。

「……よしっ!」

 こういうときは無心で楽器を演奏するに限る。

 柊は何かに悩んだり、落ち込んだりすると無心で手を動かすことにしている。

 何かに集中していれば気分も紛れるし、いい練習にもなる。

「もうすぐコンクールもあるし、ピアノでも弾こう」

 思い立ったらすぐ行動するのは柊の長所だ。

 柊は自室に向けていた足を音楽室へと方向転換した。

 ふと、立ち止まって窓の外を見ると、今朝美冠と朝食を共にした東屋を満開の白い睡蓮が囲んでいた。

 窓に近付き、眩いばかりの純白の花を見つめる。水面が光の粒をまき散らしたように煌めいていて、それが花をさらに眩しく輝かせていた。

「後で写真を撮りに行かなくちゃ」

 早速、約束を果たすことができる。

 でもその前にまだ少し暗い気持ちを晴らしてからにしようと、柊は再び音楽室に向かって歩き出した。

「手紙、なんて書こうかなあ」

 ──姉さん、喜んでくれるといいなあ。

 今頃、美冠を乗せた飛行機が飛んでいるであろう空を窓越しに見上げながら、柊は楽しそうに笑った。


 柊が歩き出した後。

 一輪の睡蓮から花弁が一片、水面へ落ちた。

 それは風に吹かれてふわりと舞い上がり、庭の隅にある花壇一面に植えられた勿忘草の元へ届けられた。

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フェアゲス・マイン・ニヒト 松たけ子 @ma_tsu_takeko

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