第10話 煙草を吹かし、人生深し。
俺は帰宅すると、妻の多恵子が夕食を作っていた。
結婚して早二十五年。銀婚式を終えてさらに仲睦まじくなったような気がするそんな夫婦である。
キッチンの中はカレーの臭いが漂い、それが食欲をそそる。
しかし、これはこの家庭独特の決まり事なのだが妻がカレーを作るときはなにか重要な相談を話し合うときの、例えるなら和え物みたいなものだ。カレーは簡単に無心に食べられる。だから相談に集中が出来るであろうと。
俺は机を見やると一気にさあっと血の気が引くような感覚が襲った。
離婚届だ。妻が書かなければいけない欄は、もう既に埋っている。妻の方を見る。彼女は、無表情でカレーのルーをかき混ぜている。しかし雰囲気がどこか、怒りや憎しみ、復讐心が宿っているような気がしていた。
もう一度述べておく。俺たち夫妻はこの前銀婚式を挙げたまでの熱愛夫婦だ。それが、俺の錯覚だったと言うのか?
◇
カレーを一口食べる。味がろくにしなかった。やはり、重要な相談事の会食に最適なのは、残念な食事なほうがいい、ということか。
妻は最初の数分は黙って食事していた。離婚届を脇に置いて。それから口が開いて漏れた言葉は、「あなたがまさかソープランドに行くなんてね」というものだった。
「それは勘違いだ。確かにソープには行った。でも仕事だ。取材だよ」
「いいわね。そんな免罪符があるんだから。まあ真偽はさておいて、問題はそこじゃないのよ」
俺は首をかしげた。どういうことだ。
「博識? 連合っていう暴力団から殺害予告がさっき来てね。これ以上本件に関わるなら、回して殺すからな、って」
「それ、電話だよな。何時ごろだったか教えてもらえるか?」
すると鋭く俺を睨み付けてきて、ヒステリックに叫んだ。
「ほら、あなたのそういうところ。私を心配するんじゃなくて仕事の話にすり替えようとする。もう私に愛情なんてないんでしょ。子供も産めなかった、女未満ですもんね」
妻は立ち上がって、「もう実家に帰ります」と言って、寝室から鞄を持ってきて、去っていった。玄関の扉が閉まる音が、無慈悲にも響く。
俺は、無自覚にも嗄れた声で、
「じゃあ、どうしたらよかったんだよ」
と文句が漏れた。
俺はジャーナリストだぞ。そしてライターでもある。出版社と交渉したり、時には自分が危ない橋を渡るときもある。
そんなのだから、所帯を持つことは許されないのか?
三日分のカレーが入った鍋を冷蔵庫に入れて、一息吐いた。
◇
「正義と悪って何なんでしょうね・・・・・・」
俺は深夜の国道を車で走りながら、助手席の夜中先生に訊ねた。
先生はポッキーを食べながら、「いったいどうしたんだい?」と様子を伺い俺を心配してくれた。
「こんな仕事をやっているからヤクザに脅されて、妻に怖いから離婚届を突きつけられて。もう、なにがなんだが」
夜中は黙った。それからサイドウィンドウを見つめる。
「俺はジャーナリストの仕事を、正義だと思ってやっています。犯人逮捕に協力できたことだって、あるのに・・・・・・。それなのに、こんな仕打ちあんまりじゃないですか」
「コンビニ寄ってくれないか?」
「え? はい・・・・・・」
なんだよ。話ぐらい聞いてくれてもいいじゃないか。
コンビニの駐車場に車を停めて、夜中を降ろす。それから二十分後。彼は手にレジ袋をぶら下げて帰ってきた。
その袋の中はコンビニ弁当が入っていた。俺に渡してくる。
「田代広大はきっと正義と虚偽心の間で葛藤していたと思う。今の君みたいに。誰かにとっての正義は、悪だったみたいな話はもうテンプレじゃないか。ヤクザは臆病なんだよ。保身に走って、不都合な事実があるとそれは悪だと決めつけて殺しにかかる。田代は特戦軍にいたときにイラン・イラク戦争に参加していたらしいが、戦争こそ臆病さの化身だから。攻撃されて、また攻撃されると他国から弱体国家だと揶揄されるから報復する。その報復の形が、一次世界大戦時には英雄の存在だったし、二次以降には抑止力のための核兵器を保有する国が増えた」
夜中はコンビニで買ったのだろうか、新品の煙草を開けて一本火を付けた。
「特戦軍も、
君も、この仕事を続けるんだったら覚悟はしておいた方がいいかもしれないのは確かだ。全てを失ってしまうことをね。でも、この国が誕生する前からあった『表現の自由』を行使する仕事は自分を褒める意味にもなってしまうが、いい仕事だ。誇っていいと思う」
そんな先生の言葉に俺は涙を流してしまった。涙が弁当の卵焼きに落ちる。
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